短説「桜、さまざまの事」
桜、さまざまの事
(2026.4.8)
西山 正義
きょうは仏教では灌仏会(花祭り)であるが、個人的には僕の誕生日である。六十三になった。今年は桜の開花が早かったが、寒の戻りや冷たい雨が降ったりで、ソメイヨシノが長く楽しめている。きのうはかなりの強風だったが、それでもまだ花が残っている。
桜に思いを馳せるとき、松尾芭蕉の「さまざまの事おもひだす桜かな」の一句は、これ以上ないような至言だとは思うのだが、「さまざまの事」を「さまざま」の一言で言い切ってしまうのは、もちろん俳句だからであり、俳句はそういうものであろうけれど、ある意味、身も蓋もない感がある。
小説(散文)は、さまざまの事を、さまざまに、あーだこーだ言うものであろう。詩だって、少しはあーだこーだ詠う(と思う)。
見方によれば、『失われた時を求めて』だって、無駄に長いだけの個人的な呟きに過ぎないかもしれない。しかし『ジャン・クリストフ』を「人が生まれて死にました」で要約されてしまったら……。
芦原修二氏が創始した短説はどうか。短説は本来、反小説(アンチ・ロマン)的な志向も念頭にあったはずだから、必ずしも小説的でなくてもよいのだが、「さまざまの事」を「さまざま」の一言で片付けてしまう、そういうことにはならないのではないか。
ジョン・レノンはわずか五七五の芭蕉の一句に宇宙を感じて感嘆した。一方で小説は個別に増殖、拡大する。冒頭できょうが僕の誕生日であると書いたが、そんなことは第三者にはどうでもいいことである。しかし、六十三という年齢を出すと、桜が見られるのもあと何年だろうという感慨に辿り着くのは僕だけではないだろう。僕は奥床しくないので、あーだこーだぐだぐだ言うのである。



















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