鈍化現象
ハンス・カロッサや堀辰雄の『幼年時代』をあげるまでもなく、多くの作家がその幼年から少年時代の思い出を書き残している。若年のころの記憶(実際の体験というよりは脳裏に刻み込まれた原風景)は、その人生に決定的な影響なり影なりを与えるであろうから、ものを書く人間なら誰しも書き留めておきたくなるものなのだろう。
ただしそれは、実際の体験を忠実に再現したいという場合もあるかもしれないが、幼年から少年時代特有のある甘やかな、一種の見果てぬ夢みたいなものを加味したり、自己の体験として直接的にではなく、虚構の中で登場人物に仮託してひそかに書き留めておくという場合もあるだろうし、あるいはもっと文学作品として実験的な試みを試す方法である場合もあるだろう。が、いずれにしろ、書かずにはいられないモチーフであるだろう。
あの、幼年から少年時代のほろ苦くしかし妙に甘やかな空気というものは一体なんだろう。おそらくそれは観念が勝る以前の、直接五感に刺激を感じたまさに官能的な体験であるからであろう。
ところが、そうした記憶を折に触れて思い出したり、幼年・少年時代を切なくも甘く感傷的に反芻するのも、せいぜい二十代のなかばか終わりごろまでで、四十五も過ぎれば、もはやどうでもよくなってします。昔の友人や昔を知る人に会うと、今でも多少は恥ずかしいことでも、もはや苦笑の領域でしかない。
それは、年とともに感受性が磨滅したためだろうか。それとも、それが大人になるということだろうか。どちらにしても、かつて“その頃”にはそうなるのを強烈に拒否し、そういう人間を最大限に否定していたのに。
なぜこんなことを思ったかというと、前回書いた新宿の地下特設催事場での古本市で、105円だったので壇一雄の『わが青春の秘密』を“ついでに”購入していたのだが、それを今日読み始めたからだ。今年後半はまったく本が読めないでいた。今も集中して読めず、飯島耕一の『萩原朔太郎』、大谷晃一『評伝 梶井基次郎』、富士正晴『贋・久坂葉子伝』などをチャンポンで読みながら、今日の気分はこちらだったのだ。
収録作品の初出はわからないが、昭和51年4月新潮社刊の初版本。奥付の裏のページには、壇一雄遺作長編!『火宅の人』本年度読売文学賞受賞の広告が載っている。没後三ヶ月後の出版である。享年は六十三歳。
つまり何が言いたいかというと、若いころの未刊行作を本にしたというのではどうもなく、比較的晩年の作品なのだろう。まだ最初の章を読んだだけなのだが、よくもこんなにつぶさに幼年時代を思い出せる、そして書こうと思うものだと正直羨ましくなったのだった。もちろん、雑誌社からそういう依頼があったのだろうし、職業作家としてその注文に応えただけなのかもしれないが。あるいは、六十前後になったら、また違うものなのか。
幼年時代はおろか、少年時代も何か遠いものになってしまっている。もっとも多感だった十五から十八。自分の子供が、今まさにその年代になったのに、(うちの子供が二人とも全然ませていなく年よりも幼い感じがあるせいかもしれないが)、今大変な時期にあるという思いにも至らず、何か大切なものを失ってしまっているという思いに駆られるのだ。もっと悪いことには、しかし、それを切実には感じていないという、まさに精神の鈍化!
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