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2002年5月29日 (水)

場面から書け (その一)

 物語(あえて小説とは言わないが、ここで言う物語とは、厳密な定義をさして言うのではなく、単に筋のあるお話というほどの意味で、本来の語源とは別に日本で通常言われている言葉を使えばストーリー)は、「場面」と「要約」によって成り立っている。物語を推進するには、要約も必要だが、より重要なのは場面である。
 要約は、作者(あるいは語り手)が直接語るものであるが、場面は、これも究極的には作者が語ったもの(つまり書いたもの)に違いないだろうが、作者は背景のはるか遠くに退却し、場面に直接登場することはなく、作中の人物は作者から独立して、あたかもそこに生きているかのような印象を読者に与える。そして、読者もその人物と一緒に歩き、一緒に悩むことになるわけだ。

 私はストーリーを作るのが得意ではない。というより、苦手と言っていい。そもそもストーリーをあまり重要視していないせいもあるが、結局、私が一番書きたいと思っているものの正体は、ある時ある状況下における「情緒」にほかならないからだろう。
 しかし、情緒は、つまり心の問題ということになるわけだが、それだけを抜き出して説明することはできない。かりにできたとしても、それでは読者に納得がいくように、そして真に迫ったものとして追体験させることはできない。少なくとも小説においては。

 米国の作家兼大学の創作科教授であるレオン・サーメリアンは、「物語とは一つの重要な意味をもつ情緒的経験を整然と記述したもの」(『小説の技法』第一章「場面」冒頭・伊豆大和氏訳)と述べているが、ミソは「整然と記述したもの」というところで、情緒的経験は生のままでは混沌としていて、もしそんなことが可能だとして、それをそのまま文章化しても、とても読めたものにはならないだろう。
 所詮、情緒は情緒であって、本来言葉にできないもので、行間に漂わせることができればお慰みといものだ。そして読者も、行間からそれを味わうものである。
 それでは、行間とは何か。それはどこにあるのか。どこから生まれてくるものなのか。行間からある種の情緒を読み取れるのは、例外もあるだろうが、たいていは要約においてではない。場面、それは人物の「行動」と言ってもいいが、から自ずと生まれてくるものだ。

 では、具体的にどうすればいいのか。

          〈つづく〉

 

(初出:Lycosダイアリー「創作の台所」)

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