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2003年4月30日 (水)

庄野潤三の『前途』-島尾敏雄、そして伊東静雄-夜汽車での若い母親と赤ちゃんの挿話

 必要があって、庄野潤三の長篇小説『前途』を読んだ。
(昭和43年8月号「群像」→同年10月講談社刊→同49年1月講談社版「庄野潤三全集」第七巻所収)
 この小説は、昭和十七年十一月二十三日から十八年九月五日までの作者自身の学生時代の日記に基づいて書かれたもので、小説の方も日記体になっている。
 昭和十七年四月、庄野潤三は九州帝国大学法文学部東洋史学科に入学する。そこで、作中では「小高民夫」になっている島尾敏雄らと出会う。軸になっているのは、この島尾ら九大生や「木谷数馬」こと林富士馬、そして大阪・住吉中学(当然旧制)での恩師・伊東静雄との交流である。もちろん主人公「漆山正三」=作者自身の成長記録ともなっているので、自ずから旧学制時代(というより、戦時下)における大学生のビルドゥイングス・ロマンとなっている。
 小説は、伊東静雄の第三詩集『春のいそぎ』が上梓され(正確には、その出版広告が出て)、島尾敏雄が自費出版の一冊の創作集を残して海軍予備学生として出征するのを(これも正確には、出征のため一旦郷里に帰るのを)見送るところで終わる。この終わり方はちょっと感動的である。それから約二年後、島尾敏雄は例の魚雷艇での出撃を待つことになるのだ。
 阪田寛夫が「庄野潤三ノート(17)」で、「当時の日記に基づく小説『前途』はおのずからこの時代の伊東静雄の肖像、ひいては昭和十八年に出た第三詩集『春のいそぎ』の解題という側面を持つことになる」と述べているように、あくまでも小説とはいえ、伊東静雄に関する重要な証言を提供している。そのからみで私も読んだのだが、小説に関するこんな箇所を見つけたのでメモしておく。

 

 小高民夫こと島尾敏雄が海軍予備学生の志願表を学校に提出した昭和十八年七月六日、島尾が漆山正三こと庄野潤三にこんな話をする。

 

 小高がこんな話をした。神戸からの帰りの汽車で、向いに生れて二月ほどの赤ちゃんを抱いた若い奥さんが坐っていて、こういう風に赤ちゃんを抱いているのだけど、疲れていて、うとうとしかけては子供を落っことしそうになる。
 それで二度、その子を抱いて上げた。その人が僕から子供を受取る時に、袖のところを寄り添えるように持って来て、僕の手とその人の手が触れた。赤ちゃんはきれいなあ。ほんとにきれいなあ。こうして抱いていたら、切なかったよ。
 僕は、さぞかし切なかったろうと思って、聞いた。

 

 それから約一ヶ月後の八月十八日、「僕」は「伊東先生」と喫茶店でコーヒーを飲みながら、

 

 ……… 小高が海軍予備学生を受ける許可をお父さんのところで得た帰り、夜行列車で赤ん坊を抱いた若い女の人に会った話を僕がすると、先生は、
「小説というのは、いまの話のようなものですね。空想の所産でもなく、また理念をあらわしたものでもなく、手のひらで自分からふれさすった人生の断片をずうっと書き綴って行くものなのですね」
 と云われた。

 

 この夜汽車での若い母親と赤ちゃんの挿話は、島尾敏雄自身何かで書いていたような気がするが定かではない。調べてみる価値がありそうだが、今はとりあえずこの伊東静雄の言葉を噛みしめておこうと思う。いや、そういう場面に遭遇して、またその話を聞いて、何か重要な示唆を得たであろう島尾敏雄と庄野潤三の感慨を噛みしめておこう。

 

(初出:Lycosダイアリー「創作の台所」)

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