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2005年1月

2005年1月30日 (日)

歌人論・歌人伝について

 このところ、詩や短歌の本ばかり読んでいる。正確に言うなら、詩論や歌論、歌人論やそれに類した本。思潮社の「詩の森文庫」は年末に第一弾が十冊配本になったが、すでに半分読んだ。
 先週は中島美千代氏の『夭折の歌人 中城ふみ子』に続いて、渡辺淳一の『冬の花火』を再読した。中島氏は、この本のふみ子像には不満があり、好きではないと言っているが、私はそんなことはないと思った。もちろんあくまでも小説として書かれていて、恣意的にイメージを膨らませているところはあるだろうが、そんなに逸脱したものとは思われない。少なくとも愛惜を込めて書かれており、さすがに読みごたえ十分であった。
 今、中城ふみ子を世に送り出した、一方の中井英夫の歌論集を読んでいるのだが、その前にもう一冊読んだ本を。
 これも図書館で偶然見つけた。金澤聖という人が書いた『姦通の罪 白秋との情炎を問われて』というもの。平成十年九月に文芸社から出た本、ということは自費出版かそれに近い形で出たものであろう。著者は文学研究家ではなく、元新聞記者。報道部で事件や司法を担当していたらしい。
 明治四十五年七月、若き北原白秋と隣家の主婦・松下俊子が姦通罪で起訴された、世に言う「桐の花事件」について書いた本。しかし、事件の経過やその他司法に関わる部分を書いたところはいいのだが、本の題名と前文でうたっていることと、終末での論旨がどうもちぐはぐで、(いや、ちぐはぐではないのかもしれないのだが、それなら最後の結語はなんなのだろうという)、最終的に何が言いたいのかよく分からない本である。この人にはおそらく新聞記者としての矜持があるのだろうが、いかにも新聞記者臭い文章はとても読めない。少なくとも読んでいて気持ちのいいものではない。起訴その他に関する法律的な部分に言及しているところはいいのだが、当事者以外知り得ないことまで、こういう書き方をされてしまうと、まるでそこで見ていたかのように、すべて事実こうであったかの如く思われてしまう。実際には、本人の後日談や各種証言などから、ある程度こうであったろうということは言えても、あくまでも「類推」の域を出ないものもある筈なのだ。それがこう書かれてしまうと。実に、新聞報道にもこういうことがあるのではないか。だから私は新聞(テレビ等のニュース含めいわゆる報道)というものが嫌いなのだが。
 詳しいことは省くが、この本によって、白秋・俊子の、そもそも姦通罪の起訴自体が違法、あるいは起訴の訴え自体に違法性があるということはよく分かった。著者もそれが言いたかったわけだが、それならその部分に的を絞って検証すればいいのに、最終に来て妙な具合になる。題名の意味するところも忖度しかねる。なんとも後味の悪い本であった。
(断るまでもないだろうが、これは批評であって、中傷の類ではない。ブログはすぐに検索に引っかかるからなあ。起訴の違法性云々についての言及は、おそらく過去にこういう方面から論じた人はいなかったろうと思われるので、興味深く読んだということだけは言っておこう)
 さて、本当は今日、本題にしたかったのは、中井英夫が六十年代初頭に書いた「現代短歌論」の中に、小説や詩の現在にも通ずる問題点が書かれてあったので、引用しようと思ったのだが、それはまたこの次に譲る。

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2005年1月27日 (木)

短説:作品「慈母」(向山葉子)

   慈 母
 
            
向山 葉子
 
「ああ、もうすぐ黄昏がくる。母は仕事に行
くことにしよう。戸締りをして、しっかり留
守番をしていておくれ」
 母は、水鏡に顔を映して化粧の手を休めず
に言う。
「何時ごろお帰りなの」
 姉は今年十二になる。
「遅いと眠くなるよ」
 弟は九つ。「その時は先にお休みよ」と二
人の頬をなでて、母は家を出る。
 森の向こう、太陽が沈むまでにはまだ間が
ありそうだ。滲んだ血のような色が、木々を
染め上げている。村が近づくころになると、
薄闇が静かにおりてくる。
「遊びたりない子はいないかい」母の声は闇
に溶け込んで、幼い娘に変化する。手には金
糸銀糸に彩られた錦の毬を持って。
「きれいな毬。貸してくれるの」
 母は近づいてきた少女に毬を渡す。少女は
毬をつく。ひとつ、ぽん、ふたあつ、ぽん、
みっつ。「それは、お前の首だよ」
 首のない少女は、自分の首で毬つきをして、
十回目にぱったり倒れる。首は転がって、花
の盛りの繁みに消えた。
 母は着物を脱がせ、それをきちんと畳んで
懐にねじ込むと、少女の体を横抱きにして走
り出す。木々がのけぞっていく。

「母さまの獲物はどうしていつも首がないの」
 首のない小さな猪を見つめて、弟が言う。
「何も見えぬように。聞かぬように。喋らぬ
ように。愛し子の首は無垢なまま。母の懐ヨ
帰るであろう」
 母は皮を剥いでいく。桃色の柔らかそうな
肉。
「滋養があるよ。御馳走だよ」

〔発表:2004年4月4日新ML座会/初出:2004年7月号「短説」/「西向の山」upload2005.1.25〕
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2005年1月24日 (月)

短説:作品「三具一柳子」(西山正義)

   三具一柳子
 
            
西山 正義
             サング
 母方の祖父の筆名である。三具とは珍しい
姓だが、これは本名。一柳子は俳号。祖父が
亡くなったのは、もう二十年近く前になるが、
現在、僕が同人雑誌をやったり、文芸ゼミの
OB会の世話役などをしているのは、実は、
このお祖父さんからの隔世遺伝かもしれない。
 明治三十六年、日本橋生まれの麻布育ち。
大正九年明治薬専卒。本職は薬剤師だが、薬
局経営の傍ら、今でいうレタリングやスチー
ル写真の現像はなかばプロだった。当時は珍
しい八ミリを戦時中も持ち歩いていたという。
そして俳句とヴァイオリン。多芸多才な粋人
で、祖母とともに世話好きでもあった。
 祖父の記憶は、薬とインクと煙草と万年床
の匂いとともにある。それと映写機が廻る音。
麻雀牌を掻き回す音。懐かしい牛込のあの家。
下町らしく、そこにはいつも人が集まり、そ
の中心に祖父と祖母の笑顔があった。
 同居していた幼児期は、祖父と都電に乗る
のが愉しみで、神保町へも都電で行った。僕
にとっては因縁の街。古書店街を初体験した
のだった。小学生になると、リトマス紙の実
験や将棋を教えてくれたり。最晩年、僕は高
校生。僕がエレキ・ギターを自慢しに行くと、
ヴァイオリンを取り出して、「荒城の月」を
弾きはじめた。そう、得意気に……。
 遺伝というより環境だろう。今思えば、知
らず知らずに一番影響を受けていたのは、薬
臭い調剤室で、ガリ版を切っていた姿かも。
祖父が関わった句誌の初期の号は、みな祖父
の手によって刷られている。僕が知る当時も
会報などはガリ版。所属する結社の庶務会計
等の事務一切を担当していたのだった。これ
は、まさに僕が今やっていることではないか。
 どうしてくれよう! ジジちゃん。
 時には疲れます。笑ってないで……。

〔発表:2000年2月第72回東葛座会/初出:2000年6月号「短説」&2000年6月「日&月」第8号/「西向の山」upload2005.1.25〕
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2005年1月22日 (土)

『夭折の歌人 中城ふみ子』(中島美千代)

 出版されたのは昨年の11月だが、僕が見つけたのは四日前。市立図書館の新しく入った本のコーナーに並んでいた。おや、と思い手に取り、即借りて、一気に読んだ。勉誠出版から出た中島美千代著『夭折の歌人 中城ふみ子』である。
 こういう本は、それが新刊で出たのであれば、本当は買ってあげなければいけない。図書館で見つけてしまったのが運の尽きで、もし書店の店頭なら、250ページの単行本としては多少高く感じても、買っていただろう。いや買わなければいけない。
 
 中城ふみ子といえば、小説の久坂葉子とともに、僕が秘かに愛している二大“アイドル”の一人である。(因みに、戦前の僕の二大アイドルというか、偏愛の対象は、尾崎翠と伊藤野枝である。え? どういう取り合わせ!)
 久坂葉子が小妖精であるとすれば、中城ふみ子はまさに「女」であった。二人は、まだ戦後と呼ばれていた時代の一時期を、猛スピードで駆け抜けた。
 しかし、久坂葉子はどこまでもマイナー・ポエットで、自ら命を絶ったのに比して、中城ふみ子は、その登場から死まで、そしてその後も、その歌と存在は、中島氏が言うように一つの「事件」であり、一世を風靡した。
 今となっては、風靡したというより、現代歌壇を変革したという文学史的意義で正統に評価されるものであるが、当時は、歌壇のみならず一般の衆目も集め、むしろスキャンダルであった。(といっても、それは僕が生まれる前の話なので、文献でしか知らないのだが)
 昨2004年は、中城ふみ子没後五十年であった。当時「短歌研究」の編集長であった中井英夫が企画し、選者も務めた「五十首詠作品募集」の一等当選作として、「乳房喪失」四十二首が発表されたのは、昭和29年4月。その死は、それから僅か四ヶ月後。
 死後すぐに出版された、臨終間近を取材した時事新報社の若く野心的な記者・若月彰が書いた『乳房よ永遠なれ』が、中城ふみ子の世間的な評価を大きく狂わせ、“ふみ子伝説”をスキャンダラスにし、好色な誤解を生む基になったといっていい。しかし、昭和30年代以降の日本は、国中が大忙しで疾走していたから、世間的にはすぐに忘れられた。
 それを甦らせたのが、約20年後に書かれた渡辺淳一の『冬の花火』。現在では、『冬の花火』のヒロインとして認知されていると言った方がいいだろう。死後わずか一年三ヶ月後には、『乳房よ永遠なれ』が日活で映画化され大ヒットしたらしいが、これはもはや現在ではまず目にすることはできないし、若月彰の原著もよほど大きい図書館で探さない限り読めないから。
  しかし『冬の花火』は、評伝的な事実を踏まえながらも、あくまでも「小説」であって、評伝でも作家研究でもない。当然小説的な脚色もある。どの辺がどういう風に脚色されているかということよりも、いい悪いは別にして、『乳房よ永遠なれ』にしても、問題は、男の視点から描かれていることだろう。
 中島美千代さんの『夭折の歌人 中城ふみ子』は、それを是正するものであり、賛美にしろ悪評にしろ、いわば勝手な幻想が先走った、さまざまな“ふみ子伝説”のベールを剥ぎ、歌人の実相に迫ろうというものである。
 ともかく彼女は素晴らしい歌を残した。それがすべてである。それが身振りの大きい、多少自己演出的なところがあったとしても、それを含めてそれが彼女のすべてである。
 実際問題、彼女と同じように壮絶な闘病生活の末、あるいは流転の生涯の果てに、若くして死んでいった無名の歌人・詩人・俳人・作家はいっぱいいると思うのだ。いや、その方が多いだろう。多くの彼ら、彼女らは、身内や小グループ以外に作品を世に残すこともなく、生きていたという事実も知られないまま死んでいったのだ。現在も、そしてこれからもそれは変わらない。
 それを思うと、中城ふみ子は仕合せ者だとも思えるが、最終的にはすべては作品である。たとえどんなに苛烈な人生を歩もうとも、その人生や人間性が素晴らしくても、芸術家・表現者である以上、作品だけが物を言う。それが恐ろしくも過酷な現実である。死後五十年も経って、こうしてまた語られるのは、中城ふみ子の生涯が数奇に満ちていたという人間的な興味によるのではなく、第一にその作品が現在でも光芒を放っているからに他ならない。 
 
 僕は短歌については門外漢である。中城ふみ子の全作品を読んでいるわけでもない。ほかにも名歌はたくさんあるだろうし、捨てがたい作品もある。が、最後に、個人的にぐっときた歌を挙げておく。
 
 絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき
                    ――中城ふみ子

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2005年1月20日 (木)

短説:作品「トロッコ」(すだとしお)

   トロッコ
 
           
すだ としお
 
 細かい氷の粒が、降り続けていた。凍りつ
いた崖に囲まれた窪み、坑夫たちの掘建小屋
が、ひっそりと並んでいる。崖には、いくつ
もの坑道が口を開け、トロッコの線路が入り
込んでいた。
 坑道から、トロッコが一台、押し出されて
きた。坑夫たちは、笑いもせず、声も上げな
い。坑夫たちは、氷の粒を痛そうに受けて、
顔を歪めるが、トロッコに積んである、崖の
中から掘ってきた透明な空気のかたまりを手
と頬で温めはじめる。凍りついた空気は、坑
夫たちの温もりで、キラキラと一瞬光ってか
ら、とけていった。
 掘ってきた空気がなくなると、坑夫たちが、
眠りにつくために小屋へと、よろけながら歩
いていった。一眠りすれば、また坑道へ入っ
ていかなければならない。息をすることも苦
しい。凍ってしまった空、凍ってしまった空
気。いつか、空が晴れると信じて、空気をと
かしつづけているのだった。
 別の坑道から、別のトロッコが、出てきた。
一人の坑夫が、トロッコからこぼれ落ちるよ
うに、飛びおりて、叫んだ。
「こんなに温ったかい空気が吹き出してきた
よ。みんな嬉しくないのかい? ほら、空が
青く輝きはじめたよ」
 また一人耐えられなくなった坑夫が出トし
まった。
 坑夫たちが取りかこんで、その坑夫の体を
ゆすり、こすった。そして、耳のそばで大声
を上げた。掘建小屋からも坑夫たちが、つぎ
つぎに出てきた。
 降ってくる氷の粒が、集まった坑夫たちの
温もりでとけ、蒸気となった。しかし、耐え
られなくなってしまった坑夫は、目を閉じ、
冷たくなっていった。

〔発表・初出:「短説」1989年4月号/初刊:すだとしお短説集『やわらかい鉛筆』1995年3月/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.9.16〕
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2005年1月16日 (日)

短説:作品「おんぶ行者」(芦原修二)

   おんぶ行者
 
            
芦原 修二
 
 十九のとき京で修行をしようと決心した。
常陸国の小さな寺を捨てて三日目には下総に
いた。下総は沼沢地である。いくつかの沼を
越え、いましも小さな川を渉ろうとすると、
岸に捨子が泣いていた。若い僧は白分の食物
を取り出して恵んだ。修行の旅の功徳初めで
あった。そして行き過ぎようとすると、後ろ
から呼びとめる者がある。見れば先刻の捨子
である。自分を肩車にのせ、その川を越えて
くれという。若い僧は奇異に感じ肩にのせた。
以来捨子は若い僧の背にとりついてどうして
も離れなくなった。
 こうして京に至り、かねて紹介状を出して
いた大寺の門主に面会を願った。その面会の
間だけでもと廊下に置くと、例のとおりにビ
ュウビュウ泣きわめくので、若い僧はしかた
なく子を背負ったまま門主に会った。
 そして三年、庭はき、廊下掃除等の修行を
重ね、晴れて門主から法話の聴聞を許された。
若い僧は喜んでその末席に列したが、背中の
子は鼻をすすり、ものをもて遊んで騒がしか
った。聴衆はあきれはて、門主もまたいらだ
った視線を若い僧に向けた。かくて若い僧は
法話聴聞の席からも追い出され、庭の片すみ
に来てまた草を抜くしかなかった。くやしさ
に歯がみしながら若い僧が背の上の子をなじ
ると、わたしのようなデレスケに法話が何に
なろうと、働く僧の背で上機嫌であった。
 常陸の僧はこうして腰が曲がってもなお子
を背負ったままで働きつづけ八十四歳で死ん
だ。死んだ所はたき木をくべていた風呂がま
の前であった。僧が死ぬと、それまで背の上
ではしゃいでいた捨子もまたぐったりとなっ
た。そして一、二度深い息をついたかと思う
と、僧の体からポロリと離れ、ボロきれのよ
うな姿になってその傍らに死んでいた。

〔発表:1985年12月第4回東京座会・作品綴り/初刊:年鑑短説集(1)『旅のはじまり』1987年7月/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.2.1〕
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2005年1月15日 (土)

短説作品公開の基準

 さて、それではそろそろ短説の実際の作品をアップしていこうと思いますが、その前に公開基準をば。
 
 基本的な姿勢は、紙媒体である月刊「短説」の編集と何ら変わりはありません。現在、月刊誌は編集輪番制がとられていて、講師格の同人が交代で各号の編集を担当しています。そのオンライン版が〈公式サイト〉であるわけですが、このブログもその延長線上にあります。というより、公式サイトを補完するものであり、内容的には重複してきますので、むしろ別バージョンと考えていただいた方がいいかもしれません。
 したがって、対象となる作品は、月刊「短説」ですでに公にされているすべての作品ということになります。しかし実際には、これらの中には(特に初期の号には)推敲が経られていないものや、見直しが必要だと考えられるものもありますので、一応は決定稿(だと考えられる)もののみに限定します。ですので、各座会で発表され、雑誌未掲載の作品は除外されます。
 これらの措置は、要するに編集サイドの都合で、作者への許諾を省略するためのものです。ご了承ください。しかし逆に言うと、作者へのコンタクトが容易にできる場合は、例外もあり得るということです。このブログに関しては、もう少し自由な立場で、実験的な試みにもチャレンジしていきたいと考えています。
 
 それで実際問題としては、私の作業上の都合で、最初はすでに公式サイトにアップされている作品が中心になります。しかしこれだけではすぐにネタが尽きます。過去に遡らなくとも、月々相当数の短説が生まれていますので、作品自体のネタは尽きないのですが、要するに入力が追いつかないのです。
 そこで、誠に勝手ながら、上記+私の個人サイト用に入力済のテキストを流用させていただきます。ということは、必然的に西山正義・向山葉子作品が多くアップされ、不公平な感もありますが、編集長の特権ということでお許しください。その点が公式サイトと若干異なるところです。
 
 では、次回は実作を。
 その記念すべき初回公開作品は――。
 実は、現在ネット上では、あろうことか短説の提唱者である芦原修二先生の作品が読めません。公式サイトでは、近々「芦原修二作品コーナー」を増設する予定ですが、如何せんソースの入力がまだです。ようやく一作入力しましたので、第一弾作品として、サイトに先立ちまずブログで公開します。お楽しみに。

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2005年1月14日 (金)

二十一世紀も五年目

 今日は三島由紀夫の誕生日。生誕八十年。つまり、存命なら満八十歳。生きていても不思議ではありません。あれから三十五年。日本はどうなったでしょう。
 遥か遠い未来のことだと思われていた二十一世紀も、すでに五年目。私なんかが小学生の頃思い描いていた二十一世紀。結構とんでもない想像をしていたわけですが、さすがにそこまでは進歩(?)せずに、実現されなかったこともあるが、反面、当時はあまり想像していなかったようなことが実現されている。人間の想像力も、やはりその時代に影響されていて、限界があるということか。しかし同時代人として、時と一緒に歩んできた者には、さしたる驚きはない。一足飛びに飛び越してきたら驚くでしょうが。
 今日電車の中で見た親子。三歳ぐらいの娘が母親の携帯電話をいじり、「もしもし」などとやっている。この子は生まれた時からすでに携帯電話があるのだ。平成生まれのうちの娘だって、生まれた頃にはなかった。ただ音が鳴るだけのポケベル。重役クラスがようやく自動車電話。インターネットはすでに開発されていたのかもしれませんが、一般に普及するのはずっとあと。
 昨年末再放送され、相変わらずの高視聴率を挙げた「踊る大捜査線」などは、つい最近のドラマだと思っていたのに、その初回の放送時に流れていたCMは、なんと「最新式」のポケベル。まだ携帯電話の時代ではありませんでした!
 IT革命といいませが、インターネットと、特に携帯電話の普及が、私たちの生活を大きく変えた、というのは誰も異存はないでしょう。しかし、人間精神の根本は相変わらずで、日本は、世界は、ますます迷走するのみ。……

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2005年1月13日 (木)

詩の森文庫/田村隆一

 昨年末、思潮社から「詩の森文庫」という新書スタイルのシリーズが創刊されました。発行日は元旦の日付ですが、年内に書店に出回っていました。見つけたのは、郊外のローカル駅の、駅ビル内のさほど大きくない書店で、そんなところに思潮社の本が並んでいたのでびっくりしたのでした。
 ブルー基調の表紙の「クリティック」シリーズと、カッパー色の「エッセー」シリーズ、それぞれ5冊ずつ計10冊が第一回配本で発刊。グリーン表紙の「ポエム」も発刊予定のようです。
 いま「詩の森文庫」で検索したら、すでにあっちこっちのブログや何かで言及されていて、なかなかの反響のようです。(ところで、トラックバックってどうすればいいの? またどういう時にするものなの?)
 数年前からの第二次新書ブームとはいえ、よもやこのような新書が創刊されるとは。いささか遅いような気もしますが、あまり色気を出さずに、「現代詩文庫」のように細くても末永く続刊されることを期待します。
 
 で、さっそく買ってみたわけですが、私が最初に手にしたのは、田村隆一の『自伝からはじまる70章』です。現代詩人の中では私が最も敬愛する詩人で、多少なりとも縁がないわけでもないので。ちょっと立ち読みしていたら、その接点である(といっても一方的なものですが)、神保町の「ラドリオ」のことも書かれていたので、すぐさま購った次第。
 しかし一番食指が動いたのは、1章がそれぞれ原稿用紙3枚ほどで書かれている点。これは単に雑誌連載の要請によるものですが、短説の何かヒントにならないかと。
 自叙伝からはじまって、やがて自由な発想で、連想式にまた断片的にあるいは飛躍しながら、勝手気ままに書いていく。そんなスタイル。
 一応解説めいた情報を書いておくと、ダイヤモンド社の月刊ビジネス誌「エグゼクティブ」の1992年5月号から、亡くなる直前まで70回にわたって連載された、詩人最晩年の貴重なエッセイ集。連載時は、本新書の副題にもなっている「大切なことはすべて酒場から学んだ」というタイトル。
 全編、田村節全開です。私は全くの下戸で、酒の味を解せない無粋な男ですから、酒の話になると着いていけないのですが、まあこういうのを読むと、酒が飲めたらずいぶん違った世間が見えてくるんだろうなと思う。私などはとても田村隆一には弟子入りできない。田村さん、不肖の後輩で面目ありません。
 素足に革靴、トレンチコートをはだけて「ラドリオ」の止まり木に坐っていた(というより、かろうじて支えられていた)あの日の田村さん。そのすぐ背中で、臆面もなく現代詩のことを話していた僕ら。まったく赤面ものです。たぶん、僕らの話が耳に入っていたのでしょうね。「諸君、グッナイッ!」と一言言って、はす向かいの「兵六」に去っていった田村さん。……
 
 65章に曰く。
「四十歳までに、詩を書き、この世を去らなければ『天才』ではない。四十歳をすぎたら、命の果てるまで、つまり、酒が飲めなくなるまで、詩を書きつづけなければならない。しかし、『人間の世紀末』に立ち会わざるをえないぼくは、『詩とは何か?』と自らに問わざるをえない」
 そう、これは短説にも小説にも、いや、あらゆる芸術に言えることだ。駒田信二はこう言う。「書きつづけて死ねばいいんです」と。

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2005年1月12日 (水)

短説への招待

短説への招待/芦原修二
 
 400字詰原稿用紙2枚の散文作品 ― これが『短説』の定義です。この2枚の中には、題名と作者名を書くスペース4行分も含まれていますから、実質上の本文の長さは、20字詰で36行になります。この範囲で小説を書こうという試みです。
 つまり『短説』は「極端に短い短篇小説」といってよいでしょう。しかし、一般的な概念からいえば、これを小説とするには、あまりにも短かすぎてなじみません。それゆえ私達は、これに『短説』という名を与えました。
 この分野に近いものに、「ショートショート」がありますが、それよりも『短説』はいっそう短く、かつ内容的にも、ショートショートの概念とは異質の性格を持つ文学です。
 『短説』の散文芸術における位置は、韻文芸術における『俳句』のようなものだとご理解いただければ、そののぞまれている姿が、鮮明に見えるように思われます。
 実際上も『短説』は俳句から多くのものを学びました。たとえば『短説』を発表する一つの場であり、また合評の場でもある「座会」は、俳句会に範をとったものです。異なるのは、俳句会における清記作業に対し、短説座会ではパソコン(ワープロ)やコピーを用いていることです。
 『短説』は、昭和60年(1985)に生れた、まったく新しいものですが、その本質は日本の伝統文学につらなっています。たとえばその原形は、古典なら『今昔物語』や『伊勢物語』。近、現代文学なら柳田國男の『遠野物語』や、稲垣足穂の『一千一秒物語』といった作品に見出すことができます。つまり『短説』は、いたずらに新奇をねらって始められた文芸ではなく、伝統を引き継ぎ、発展したものなのです。
 原稿用紙2枚というきわめて限られた長さ。日本文学の伝統を自ら背負いこんだ形式 ― いいかえれば、『短説』は、もっとも自由であることを謳歌してきた「小説」という散文芸術に、手かせ、足かせをはめた文学として出発しました。しかし、それゆえにこそ、この『短説』には大きなエネルーギーが集約でき、人間を、宇宙を包み込んで、無限に深く、重くなり得るのだとも予感されます。
 この予感に共感していただけるか否か。それは、『短説』をつくり、あるいは読まれて、そこに何を見いだせるかにかかっているように思われます。
 
 平成13年(2001)には、短説発足15周年を記念する全国大会を開催しました。
 この15年間に得たものはいろいろありますが、何よりも特記したいのは、小説のシステムを「私とは何か、私をとりまく世界とは何かを認識する方法」と考え、これを一部専門家の独占から「だれものもの」に奪還したことでしょう。
 この機会にあなたもこの新しい文学創造にご参加ください。

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パンフレット『短説への招待』(「短説」平成14年9月号再録)より転載。

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2005年1月11日 (火)

短説とは何か

 未知の読者のために、まずは短説の定義を。
 ホームページ「西向の山」でご案内している「短説とは何か」を、若干補筆の上、転載します。
 
 短説[tansetsu]は、1960年代から詩人・作家として活躍していた芦原修二氏の提唱により、昭和60年(1985)に生まれた文学運動です。
 その定義は、一口で言えば、400字詰原稿用紙2枚で書く散文作品−ということに尽きます。
 詳しくは、次回紹介する、芦原修二氏の「短説への招待」を参照していただきたいのですが、そこにはこう書かれています。
「この2枚の中には、題名と作者名を書くスペース4行分も含まれていますから、実質上の本文の長さは、20字詰で36行になります。この範囲で小説を書こうというのです」
 具体的には、
1行目に題名、
2行目は空欄、
(1行では収まらないタイトルや副題がある場合は2行に渡っても可)
3行目に作者名、
4行目は空欄にし、
5行目から本文を書き始めるということになります。
 
 短説の会の公式サイトや「西向の山」にアップされている作品を見ていただければ、原稿用紙のような枡目はついていませんが、その形が視覚的にもお分かりいただけるでしょう。
 特筆すべきことは、1文字でもオーバーしてはいけないということです。
 ただし、改行等の関係で、720文字フルに使わなければいけないということではありません。文字数というより、20字詰における行数が問題なのです。
 最終行まで書き込んで、過不足なく、そこでぴたっと終わっているのが望ましい形といえます。
 つまり、定型の散文なのです。
 
 小説は、特にその方法論において、20世紀に飛躍的に発展しました。それは、人間の認識方法と、人間とそれを取り巻く社会の理解を飛躍的に拡大したのでした。20世紀の芸術・文化は、小説がリードしたといえます。
 しかし、1950〜60年代のいわゆるヌーボー・ロマンを一方の極として、一方では、かつては斬新だった描写方法(つまり新しい認識方法)も、やがては末端まで広がり、通俗化してゆき、80年代に入った頃には行き詰まりつつありました。
 それは、作家や作品そのものだけの問題ではありませんでしたが、短説は、そんな閉塞した文学を取り巻く状況に新たな地平を拓くべく、21世紀を見据え、かつ日本文学の伝統を踏まえたものとして発案されました。
 
 なぜ、定型なのか。なぜ、2枚でなければいけないのか。
 また、2枚というその単位となる1枚が、20字×20行の書式でなければいけないのか。
 それにはまだまだ議論の余地があるかもしれませんが、少なくとも実作者の立場においては、多くの短説作家が、そこから抜き差しならぬ何物をかを得ているという事実があります。それは文学の営為そのものとしか言いようがないものです。
 
 昭和60年9月28日、東京神保町で第1回目の〈座会〉が開かれて以来、その運動は各地に広がり、平成6年度版の『現代用語の基礎知識』(自由国民社)以降、同書に「短説」という項目が立項されるまでになりました。
 
 現在、月1回定期的に開かれている座会が、東京、埼玉、千葉、大阪に各1つ、茨城に2つ、郵便による通信座会、メーリングリストを利用したML座会と、計8つあります。
 また、機関誌である月刊『短説』は、平成16年12月号で通巻231号を数え、単行本として、『年鑑短説集』が6冊、同人の短説集『短説双書』が8冊刊行されています。
 さらに、連説、英文短説、短説のフランス語訳、短説劇、短説絵本、マンガ短説等、さまざまな実験が試みられています。
 
 というわけで、あなたも書いてみませんか!

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2005年1月 9日 (日)

短説blog事始め

 皆もすなるblogといふものを、私もしてみむとて、するなり。
 というわけで、ようやく重い腰を上げて、blogをはじめます。
  
 旧infowebからの@nifty会員で、@homepageにサイトを開設しているので、ココログのことは当初から知っていました。どうせならサービス開始と同時にいち早く登録しようかとも思いましたが、躊躇してしまいました。blogに懐疑的だったからです。あくまでもサイトが中心で、そのコンテンツの一つとして、日々更新するページを設置するなら、何もいわゆるblog形式である必要はない。従来からある「WEB日記」で十分だし、どのblogもデザイン的に好きになれませんでした。(どのblogもデフォルトのフォント・サイズに不満あり)
 今でも従来の日記形式を愛しているという人は多いのではないか。CGIプログラムをダウンロードして、サイトのサーバーにアップしている人はともかく、多くはレンタル日記を利用。それらも統廃合が相次ぎ、多くはblog化されていきました。実際私も、今はなきLycosダイアリー→MEMORIZEを使っていました。
 しかしまあ、Weblogを広い意味で捉えれば、HTMLによるWEBページも、日記やフォトアルバム、あるいは掲示板にしても、みなWeblogといえないこともない。ただその中で、日々更新的であるという。用途によってはあまり求められていない(それが嫌だという人もいる)が、一番の売りは優れてインタラティブであると。
 ともかく、サイトのサーバーの容量とは別に使えるし、いろいろ使い用はあると思うので、遅ればせながら始めてみます。
  
 ――と、前置きが長くなりました。
  
 で、このblogの基本的なコンセプトは、私、西山正義個人としてではなく、〈短説の会〉の公式サイト制作・管理者として、短説をはじめ文学全般に関して、なにがしかの発言を配信する、というところにあります。
 有体に言ってしまえば、短説の宣伝を兼ねているわけですが……。したがって、私個人のサイト〔短説と小説「西向の山」〕と、〔〈短説の会〉Official Web Site−WEB版『短説』〕の共有コンテンツとします。
 実を言うと、このblogを始めようと思った一番の理由は、作品のアップにあります。私のサイトも会の公式サイトも、縦書きでアップしています。しかし縦書きと言っても、実はこれは擬似的に縦書きに‘見えるように’変換しているだけで、実態は横書きです。したがって、横書きとして読むと(ブラウザはあくまでも横書きとしてしか認識していませんので)、全く意味不明なものになります。HTMLのソース的には非常に具合が悪いのです。それと、HTML化する前の原稿は、ごく普通のテキスト(私の場合Windowsのメモ帳)ですから、横書きでアップするならそれをそのまま流用できるし、私の目論見としては、その入力を兼ねてblogにしてしまえ、ということにあります。
 
 まあ、どのようなことになりますか。おそらくは私の個人的な呟きも混じってくることでしょう。短説に限らず、詩でも小説でも俳句や短歌にしても、書きたい人、自分の作品を読んでもらいたい人は、吐いて捨てるほどいるのに、実にみな文学作品を読んでいない。別に教養として文学作品をたくさん読んでいてもあまり意味がありませんが、文学の享受はまずはじめに読むということにあるのではないか。ジャンルを問わず、それが同人雑誌界全般にいえる不満です。ですので、読書報告のようなものも含まれていくと思います。
  
 ――未知の皆様には、まず「短説とは何か」を言わなければいけませんね。次回は、そのあたりから。
 では、以後よろしくお願いします。

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