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2005年1月30日 (日)

歌人論・歌人伝について

 このところ、詩や短歌の本ばかり読んでいる。正確に言うなら、詩論や歌論、歌人論やそれに類した本。思潮社の「詩の森文庫」は年末に第一弾が十冊配本になったが、すでに半分読んだ。
 先週は中島美千代氏の『夭折の歌人 中城ふみ子』に続いて、渡辺淳一の『冬の花火』を再読した。中島氏は、この本のふみ子像には不満があり、好きではないと言っているが、私はそんなことはないと思った。もちろんあくまでも小説として書かれていて、恣意的にイメージを膨らませているところはあるだろうが、そんなに逸脱したものとは思われない。少なくとも愛惜を込めて書かれており、さすがに読みごたえ十分であった。
 今、中城ふみ子を世に送り出した、一方の中井英夫の歌論集を読んでいるのだが、その前にもう一冊読んだ本を。
 これも図書館で偶然見つけた。金澤聖という人が書いた『姦通の罪 白秋との情炎を問われて』というもの。平成十年九月に文芸社から出た本、ということは自費出版かそれに近い形で出たものであろう。著者は文学研究家ではなく、元新聞記者。報道部で事件や司法を担当していたらしい。
 明治四十五年七月、若き北原白秋と隣家の主婦・松下俊子が姦通罪で起訴された、世に言う「桐の花事件」について書いた本。しかし、事件の経過やその他司法に関わる部分を書いたところはいいのだが、本の題名と前文でうたっていることと、終末での論旨がどうもちぐはぐで、(いや、ちぐはぐではないのかもしれないのだが、それなら最後の結語はなんなのだろうという)、最終的に何が言いたいのかよく分からない本である。この人にはおそらく新聞記者としての矜持があるのだろうが、いかにも新聞記者臭い文章はとても読めない。少なくとも読んでいて気持ちのいいものではない。起訴その他に関する法律的な部分に言及しているところはいいのだが、当事者以外知り得ないことまで、こういう書き方をされてしまうと、まるでそこで見ていたかのように、すべて事実こうであったかの如く思われてしまう。実際には、本人の後日談や各種証言などから、ある程度こうであったろうということは言えても、あくまでも「類推」の域を出ないものもある筈なのだ。それがこう書かれてしまうと。実に、新聞報道にもこういうことがあるのではないか。だから私は新聞(テレビ等のニュース含めいわゆる報道)というものが嫌いなのだが。
 詳しいことは省くが、この本によって、白秋・俊子の、そもそも姦通罪の起訴自体が違法、あるいは起訴の訴え自体に違法性があるということはよく分かった。著者もそれが言いたかったわけだが、それならその部分に的を絞って検証すればいいのに、最終に来て妙な具合になる。題名の意味するところも忖度しかねる。なんとも後味の悪い本であった。
(断るまでもないだろうが、これは批評であって、中傷の類ではない。ブログはすぐに検索に引っかかるからなあ。起訴の違法性云々についての言及は、おそらく過去にこういう方面から論じた人はいなかったろうと思われるので、興味深く読んだということだけは言っておこう)
 さて、本当は今日、本題にしたかったのは、中井英夫が六十年代初頭に書いた「現代短歌論」の中に、小説や詩の現在にも通ずる問題点が書かれてあったので、引用しようと思ったのだが、それはまたこの次に譲る。

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