短説:作品「はじめての逢引」(西山正義)
はじめての逢引 西山 正義 身仕度を整える。そのやや長めに伸ばした 柔らかそうな栗色の髪を、少年の持っている 唯一の高級な小道具である黄揚の櫛で梳いた。 次に昔の海軍兵学校風な学生服を着ると、 この日のために買っておいたオーデコロンを 手に取った。硬い硝子の壜は手に冷たかった。 その冷たさが心地良かった。濃いエメラルド・ グリーンの容器を物珍し気に眺めながら、そ の表面を愛撫し手触りをしばらく楽しんだ。 その感触にまだ知らぬ女の肌の滑らかさと冷 たさを想像した。 香水は暗い密室でまだ瞑っている。静かに 集まって。神秘的な沈黙。それは毬藻に似て いた。だが眠っていても猫のようにそれは常 に待機している。蓋を外す。すると瞬時に粧 って、自らの使命のために舞い上がる。 少年は目の眩む思いでホックを解き、初め てつけてみる香水を学生服の内側に振りかけ た。香料は朝の匂いがした。 一体いつまで時間をかければ気が済むのか。 持ち物を何度も点検し、鏡の前に立ち、髪や 服の乱れを直す。そして鏡の中の自分の顔を 仔細に調べた。面皰がまだ所々に残ってはい たが、もう気にするほどではない。髭は昨晩 のうちに綺麗に剃っておいたので大丈夫だ。 まだ毎朝剃刀を当てる必要はなかった。 最後に少し離れて姿全体を鏡に写す。少年 はちょっと気取ってポーズをつけてみる。す ると自然に笑みがこぼれ、向こう側のもう一 人の少年に目配せするようにニッと笑った。 自分の部屋を一通り眺め渡す。そして一つ 大きく深呼吸してから部屋を出た。居間を抜 ける時ふと思い付いて立ち止まり、壁を振り 仰いだ。東向きの壁には神棚が掛かっている。 今日に限って丁寧に二拝二拍手一礼した。 こうしてようやく家を出発した。 〔発表:1987年2月第18回東京座会/初出:1987年3月号「短説」(月刊化第1号)/再録:年鑑短説集(1)『旅のはじまり』1987年7月/「西向の山」upload2002.4.5〕 Copyright (C) 1987-2005 NISHIYAMA Masayoshi.
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