雨と寝る桜(成田弥宇さん追悼)
雨と寝る桜
西山 正義
あの日もこんな雨の日だった。
今日四月十二日は、LIBIDOの成田弥
宇さんの命日。十六回忌。LIBIDO(リ
ビドー)とは、一九八〇年代のインディーズ
・シーンにあって、独特な光芒を放ち、一種
カリスマ的存在でもあった伝説のロックバン
ド。成田さんはそのリーダーで、作詞作曲・
ボーカル・ベースを担当。暗黒舞踏を思わせ
る、黒づくめの出で立ちに、白塗りの顔。そ
のライブは見るものをゾクむぞッとさせた。
詩人とロックンローラーは三十までに死な
なくてはならない。成田さんの場合、病死で
あるが、まさかそれを地で行くとは。
はじめて会ったのは、僕が二十歳、成田さ
んが二十三。当時僕はある先輩の舎弟のよう
になっていたのだが、その先輩が成田さんと
幼馴染みだった。僕がロック少年であったの
で引き合わせてくれたのだ。最初からぶっ飛
んでしまった。
ライブは欠かさず行った。内輪の打ち上げ
にも参加した。朝まで飲んだ。みんなへべれ
けになり、下戸の僕が機材を積んだバンドの
車を運転して帰ったこともある。
最後に会ったのは、亡くなる五か月前。小
田原の病院に見舞いに行った。癌であった。
壮絶な闘病だったという。若かったので進行
が速かった。三十歳の誕生日を一ト月後に控
え、その歌詞「ぼくはこの道を あまりに急
ぎすぎたか」の通りに、夭逝してしまった。
実家はお寺さんで、住職を継いでいた。御
通夜は、今日と同じような春の雨が降ってい
た。境内に桜の大木があった。花はなかば散
らずに残っていた。それが雨に濡れそぼって
いた。夜と雨と桜。「雨と寝る桜」−という
イメージが僕に浮かんだ。以来、このフレー
ズが僕の頭から離れなくなった。
| 固定リンク
「音楽」カテゴリの記事
- チャーリー・ワッツさんが……!(2021.08.25)
- 令和2年(2020)に『地獄の黙示録』を再見して(2020.01.08)
- 「青春アミーゴ」(2005.11.05)
- Paul McCartney ~Driving Japan~(No.2)(2002.11.15)
- Paul McCartney ~Driving Japan~(No.1)(2002.11.15)
「短説〈西山正義作品〉」カテゴリの記事
- 短説「九月二〇日は僕の創作記念日」(2023.11.25)
- 短説「老母を定期健診に」(2023.10.31)
- 短説「掲示板(その後)」(2023.10.15)
- 短説「六十歳の誕生日に」(2023.04.08)
- 短説「車検の話から」 (2023.03.16)
コメント
1990年ころ(かな)、
ラママの後の新宿西口のS館の打ち上げで成田さんと話したとき
バンドをはじめたきっかけはRウォーターズの「恋のヒッチハイク」だよ、
と語ってくださいました。
あなたは正しく日本のRウォーターズでしたよ。
投稿: おにく | 2010年7月 1日 (木) 22:50
おにくさん、コメントありがとうございます。
どこかですれ違っていたか、あるいは同じ場所にいたかもしれませんね。
たぶん、1990年より前のことだと思います。
私は原宿のクロコダイルのあとに、やはり似たような話を聞きました。
1985~87年頃のことです。
投稿: 西を向く人 | 2010年7月 1日 (木) 23:51
西を向く人さん
記憶が錯綜してました。新宿S館は90年より前、おそらく87~88ころですね。
その日のラママは吉野大作&プロスティチュートがタイバンでした。
例の裸のお肉のEPを買ったのは多分84年ころです。
「裸の肉の魂、EPバージョンは、あのスカスカ感がいいですよねー」といったら
成田さんは「そうそう!モットスカスカにしたかったんだよ。ちなみに、みんなはこの曲“おにく”って呼んでるよ」と教えてくれました。
投稿: おにく | 2010年7月 4日 (日) 15:57
「裸の肉の魂」は衝撃的でした。
しかも初めて聴いた(聴かされた)のは、
成田さんの黒づくめにコーディネートされた薄暗い下宿でした。
83年(まだ昭和も58年!)のことで、たぶんデモテープだったんだと思います。
親しくしていたある先輩が成田さんの小学校時代からの親友だったもので、プライベートに何度かお会いした時のことです。
投稿: 西を向く人 | 2010年7月 4日 (日) 22:01