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2005年8月

2005年8月30日 (火)

短説:作品「背後霊」(岩谷政子)

   背後霊
 
            
岩谷 政子
 
「ねえお父さん、犬には人に見えないものが
見えるんでしょう」
「さあ、どうかな、犬は近眼なんだよ」
「でも友達がそう言ったよ。クロさ、よくじ
ーっとうちの後ろの方を見る事が多いよ。我
が家に背後霊がいるんじゃないかと思うんだ。
だからその時、うちクロの眼を見るの、クロ
の眼に背後霊がうつってるんじゃないかと思
って」
「ハハア、捨てられていたこのバカ犬にそん
な霊感があるわけないだろう」
 信夫は晩酌の手を停めて、玄関でクロとた
わむれているまみのそばへ行った。中学生で
もまだ子供だなと思いながら。
 まみがクロを拾って来た時、庭もないのに
と怒ったが、妻の敏子が、がんで入院中だっ
た事もあり、命を粗末にするわけにもいかな
いか、と仕方なく飼う事にした。小犬だった
クロも四ヶ月程もすると、立派な成犬になっ
たが、敏子は一と月程前に亡くなった。
「お前、一人で留守番をしていて、背後霊が
出ても怖くないのか」とからかうと、
「うん、もしそれがお母さんだったら、背後
霊でも逢いたいもん」
 まみはここ一週間程学校を休んでいる。母
の死の心の整理がつかないからだろうと思っ
ていたが、背後霊の母に逢いたくて、日がな
一日クロと向き合っているのかと思うと、信
夫はまみを抱きしめたい衝動にかられた。
「ほら、台所の方をじっとみてるでしょ」
 クロはまみの肩ごしに、背伸びをするよう
にして、暗い台所の方を見ている。
「きっと、お母さんがいるんだよ」まみはク
ロの脚を持ちクロの眼を覗いている。
 信夫は何かの物音でもしたのだろうと思い
ながらも、ゆっくりと台所へ首を回した。

〔発表:平成10(1998)年3月東京座会/初出:「短説」1998年5月号/再録:「短説」1999年5月号〈年鑑特集号〉*1998年の代表作「天」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2003.12.4〕
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2005年8月25日 (木)

短説:作品「お戒壇めぐり」(五十嵐まり子)

   お戒壇めぐり
 
          
五十嵐 まり子
 
 その入口は寺のきらびやかな祭壇のすぐ脇
にあった。小さな階段を十段程降りるとすで
にそこは真っ暗闇だった。菊代は壁伝いに手
探りで少しずつ足を運ぶ。首から下の何と頼
りないこと。思わず手や足に触ってみる。
「極楽のお錠前に触ってください」とどこか
らともなく男の声が聞こえる。手を泳がせる
と金属の短い棒のようなものに当たった。こ
れで極楽往生ができるという。ありがたいも
のだと思う。それにしてもこの闇は今まで経
験したことのないものだ。黄泉は闇から転じ
た言葉かもしれないと読んだことがあるが、
黄泉の国とはこんなに暗いのだろうか。死ぬ
のはいやだなと思った。
 
 菊代は布団に横になると思いっきり手足を
伸ばした。家に電話をして無事旅館に入った
ことを知らせたし、一緒に来るはずだった俳
句仲間の志津にも電話した。風邪は大したこ
とはないということで一安心。
 ところで、と菊代は考える。黄泉の国では
誰かに会えるのだろうか。この世での縁が続
いているとすれば、先に逝った二人の夫に会
えることになる。それは少し困るなと思う。
やはりどちらかにしたい。あの世は永遠だろ
うから、余り複雑でない方がいい。
 初めての結婚では戦死するまで過ごした満
州での五年間が楽しかった。二人だけだった
のでいろいろなところへ行った。二番目の結
婚では四人の子供ができた。なかなかの発展
家だったが、末が小学校一年の時に逝ってし
まった。いろいろ苦労したなと思う。
 本当はどちらに会いたいのだろうかと考え
ているうちに晩酌の一本がきいて眠くなって
しまった。その夜、菊代は二番目の夫の浮気
相手と掴み合いをしている夢を見た。

〔発表:平成4(1992)年12月第14回上尾座会/初出:「短説」1992年2月号/初刊:年鑑短説集〈6〉『函中の函』1993年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.5.12〕
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2005年8月20日 (土)

短説:作品「八月の空に」(村上友子)

   八月の空に
 
            
村上 友子
 
「べートーベンはいいなァ」
 父の口癖であった。兵役から無事に帰って
来ても、山の斜面を耕やして、カボチャや芋
を作る以外に仕事もなかったので、父はよく
近所の若者を集めてはレコードを聞かせてい
た。
 当時のレコードは皆SPと呼ばれる物で、
協奏曲などは、ぶ厚いレコード盤が何枚にも
なる。それが赤い皮の背表紙に金色の文字で
曲名が印刷されている、写真のアルバム程の
厚さのケースに、一枚づつ袋に入れちれはさ
まれていた。
 父はそのケースを二階にあるレコードホー
ルダーに並べて大切にしていた。
 十名程の青年に囲まれて、父は毛足の長
いビロードのプラシでほこりをはらい、ポー
タブルの蓄音機にセットした。竹の針をレコ
ード盤の端につけると、べートーベンの「皇
帝」があたり一面に響きわたった。
 四角い灰色の箱型の蓄音機はあらかじめね
じが巻いてあったが、何枚かかけて行く間に
次第にゆるみ、突然おかしな音を出し動かな
くなってしまう。父は又ねじを巻きながら皆
に笑顔で話しかけていた。
 小学三年の弓子は、こうした日は学校から
帰っても、外へは行かず階段にこしかけて音
楽を聞いていた。
 階下では母が黒い着物の男と話していた。
母はタンスの中から次々と着物を出してきて
男に見せた。その中のいくつかを男はもって
行った。男は度々来ては着物を少しづつもっ
て行き、ある日着物は一枚もなくなった。
 母は父に
「今度はあなたのレコードを売る番です」
 といった。その時父はいよいよ働かねばと
決心したのだった。

〔発表:平成8(1996)年8月上尾座会/初出:「短説」1996年10月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.4.20〕
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2005年8月12日 (金)

短説:作品「盆まつり」(向山葉子)

   盆まつり
 
            
向山 葉子
 
「あんたがバッパの着物の裾、握ってたんだ
べや」
 従姉妹が、半分涙声で言いながら、おろし
たての色鮮やかな花模様がいっぱいついた藍
染の浴衣の裾を蹴散らすようにして先を行く。
「エッちゃん。浴衣、汚れっぺっちゃ」
「いいんだ、こんなの。そのうちあんたにお
下がりになんだべや、どうせ」
 つんけん言いながらも、手をぐいと引いて
くれる。洗いざらした浴衣の裾がまとわりつ
いて、もう歩けない。私はめそめそとしゃが
みこんでしまう。夜店の灯ももう遠い。
「迷子になったんだいが?」
 気づくと女の子が一人、私たちの前に立っ
ていた。私の目線に、少女のスカートがある。
丁寧に洗ってはあるが、継ぎがあたっていた。
「な、あんだの、きれいなベベだなや。それ
ちょっと着せてくれんだら、櫓のとこまで連
れてってくれっぺや」
 従姉妹は、少女の服と浴衣を取り替えた。
前を行く少女は、肩を揺らしながら軽い足取
りでひょいひょいと人込みを分けていく。時
々振り向く笑い顔を見失いそうになる。少女
はその度にけらけら笑いながら手招きをする。
やがて少女は立ち止まる。私は櫓の明るい灯
の中に、辺りを見回しているバッパの姿を見
出した。少女を追い越して駆けだした。振り
返ると、人込みの薄闇の間に少女の生真面目
な白い顔が浮かんでいるように見えた。少女
にお礼を言おうと、バッパの手を引いてきた
のだが、もう少女の姿はどこにもない。
「浴衣、着替えたまんまだべっちゃー」
 従姉妹が薄闇に向けて泣きながら叫ぶ。
 バッパは、手を握って言う。
「べべ着て、浮かれて、飛んでったんだなや。
お盆だがら、いいべや」

〔発表:平成11(1999)年7月・8月東葛座会(原題「夏まつり」/初出:「短説」1999年10月号/再録:「短説」2000年5月号〈年鑑特集号〉*1999年の代表作「天」位選出作品/再録:「日&月」第8号2000年6月/WEBサイト「西向の山」upload:2002.4.5/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.2.14〕
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2005年8月 5日 (金)

短説:作品「あの日 あの曲」(西山正義)

   あの日 あの曲
 
            
西山 正義
 
 アーケード街を歩いていると、CDショッ
プから懐かしい曲が流れてきた。僕はふいを
衝かれ、次の瞬間足は完全に止まっていた。
こんな気持ちは何年振りだろう。僕の胸は締
めつけられ、涙まで出てきそうになった。
 あの日。あの夏の日。そう、すべてが輝い
ていた。最高の彼女と青い海。白い浜辺にビ
ーチ・パラソル。ホテルのベッドでやるシャ
ンパン。他には何もいらなかった。
 君はキャンパス中の憧れ、というか注目の
的だったんだよ。コンパニオンをやってたろ。
君の美女ぶりは学生離れしていたし、テレビ
に出ていたとかいろいろ噂が絶えなかった。
 僕がどうして君のハートを射止め、そして
別れてしまったのか、今ではもう思い出せな
い。でもその年の夏、僕らは大学三年生で、
ほとんど完璧な恋人同士だった。毎日のよう
に海に行っては、火照った身体を合わせて倦
むことがなかった。長い髪をなびかせて海辺
を走る姿は、そのまま化粧品かビールのCF
になりそうだった。大胆な水着、申し訳程度
に隠された白い領域は僕のものだった。僕は
少し赤く腫れたビキニのあとを撫ぜるのが好
きで、君はそのたびにくすぐったいと言いな
がら身をくねらせた。
 親父のセダンを拝借して、第三京浜や東金
道路を突っ走ったね。カーステレオからはい
つもこの曲が流れていた。憶えているだろ?
 あれから君はどうしたのだろう。結婚した
ろうか。子供がいたっておかしくない。僕は
……ご覧の通りさ。親父や兄貴たちの世代と
は違う生き方をしようと思ってきたけど、今
の若い奴らから見れば、みな一緒さ。
 本当に君は今どうしているのでしょう。今
も輝いていますか。もうすべては終わってし
まったことなのでしょうか。

〔発表:平成7(1995)年8月第18回東葛座会/初出:1995年11月号「短説」/再録:1995年12月23日「新いばらき」第14127号/再録:「西向の山」upload:2002.4.5〕
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