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2005年9月14日 (水)

短説:作品「岩谷入洞」(向山葉子)

   岩屋入洞
 
            
向山 葉子
 
 がしゃん。鉄の扉が閉じたような大きな音
だった。だがそれは、入場口のカウントバー
が回った音に過ぎなかった。飛沫がそこまで
届いているはずなのに、波の音は聞こえてこ
ない。
 息子の小さな背中は、もう薄闇の向こうに
あった。急いで追いついて手を握る。ヨシト
は私を見上げて笑って見せる。ぼんやりした
オレンジ色の照明はあるが、先を見通せるほ
ど明るくはない。
「こわくない?」
 ヨシトは私の質問には答えずに、奥の闇を
見つめている。
「龍がいるんだって」
 進んでいくと、小さな小屋があった。老人
が座っていて、黙って小さな手燭を渡してく
れた。息子にもちゃんと一つ。
 二つの頼りない灯火が揺れている。壁面を
水が滴っていく。時折、頬にも落ちてくる。
壁に並んで彫られた観音様は、少しずつ浸食
されていくのだろう。鼻も口も丸くなって、
輪郭もはっきりしなくなっている。光が回り
こんでいく時に、目のあたりだけが瞬くよう
に見える。ヨシトの体に力が入ったのを掌に
感じた。
 奥の闇の中から、戻ってくる火影がある。
髪の真っ白な老婦人と、手を引く中年の男性。
「龍、いましたよ」
 すれ違う時、男性がささやいた。
「岩の間に隠れてしまいましたけどねえ」
 老婦人が付け足すように言うのを訊くと、
ヨシトは奥に向かって走り出した。
「龍が逃げちゃう」
 ヨシトの手が掌からすり抜けていってしま
う。揺れながら遠ざかっていく背中を、滑る
岩に足を取られながら追いかけるのだった。

〔発表:平成17(2005)年3月・4月ML座会/(雑誌未発表)/WEBサイト「西向の山」upload:2005.9.6〕
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