« 年代 | トップページ | 冬季五輪 »

2006年2月19日 (日)

短説:作品「恐竜のタマゴ」(小森千穂)

   恐竜のタマゴ
 
            
小森 千穂
 
 案の定、夫は何も言わなかった。
 お帰り……と振向いただけで、また黙々と
テレビに見入っている。夫の見るものは、殆
んどニュースかドキュメンタリーだ。
――十時頃迄には帰ります――比佐子の書い
たメモが食卓の上に白々と張りついたままだ
った。どこ行って来たの? くらい聞いてく
れたってよさそうなものなのに……いつもの
事なので腹も立たない。今日は送別会がある
からタ食はいらない、というので久し振りに
姉の家へ出掛けたのだった。いつもの夫への
愚痴なので、あなたは賛沢なのよ、と姉は本
気で聞いてはくれず、比佐子の心は満たされ
ず仕舞いだった。――人生あと三十年もある
んだもの、どうにかしなきゃ――姉との話の
続きのように、比佐子は心の中でそう咳いた。
 子供達がいた頃は家の中に賑やかな会話が
あった。しかし今考えてみると、喋っていた
のは自分と子供だけだったのだ。子供達が巣
立ち、夫と二人残されてみて、初めて比佐子
は夫との間に会話がない事に気がついた。殆
んど比佐子からの一方通行なのである。
 学生時代、比佐子は卓球の選手だった。ネ
ットの向うに送った球が、即座に打ち返され
てくる小気味良さが彼女は好きだった。しか
しラリーが続かなければ試合は終了してしま
う。人との会話も同じだと思った。比佐子の
目には球を受けとめようとしない夫の背後に
白いピンポン球が山の様に溜っているのが見
えた。それはあたかも恐竜のタマゴの群れの
ようだった。タマゴはやがては艀化して夫を
食いちぎるかも知れなかった。
「恐竜に食べられちゃっても知らないから」
 思わず声が出た。
「恐竜がどうしたって?」
 子供のような目で夫は振返った。

〔発表:平成14年(2002)9月藤代木曜座会/初出:「短説」2002年12月号/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉*2002年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2003.12.19〕
Copyright (C) 2002-2006 KOMORI Chiho. All rights reserved.

|

« 年代 | トップページ | 冬季五輪 »

短説〈同人会員作品〉」カテゴリの記事

短説集2001〜2005」カテゴリの記事

コメント

「恐竜の卵」、読みました。
面白いですね。
最後の行が、主人公の「オノロケ」に
読めてしまうのは、私の理解不足でしょうか。
こういう形での、「しあわせ」とは・・・。
小生にはなかなか理解できないような
気がいたします。夫の「やさしさ」が
やっとわかった妻のことを作者は
書いてみたいのでしょうか?
でも、恐竜の卵は、ピンポン球より大きいかも
しれませんね。それでは、また。

投稿: 秋葉信雄 | 2006年2月20日 (月) 18:39

きょう気づいたのですが、タイトルの表記が間違っていました。
平成15年の年鑑特集号やすだとしお氏編集の『百葉』では
「恐竜の卵」となっていましたが、
平成14年12月号(歳末歳旦号)の初出では
「恐竜のタマゴ」となっています。
再録での誤記はおそらく編集者サイドのミスだと思われるので、
初出の通り「恐竜のタマゴ」に修正しました。
(「短説」公式サイトの本編も修正)

投稿: 西山正義 | 2006年3月20日 (月) 17:21

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 短説:作品「恐竜のタマゴ」(小森千穂):

« 年代 | トップページ | 冬季五輪 »