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2006年4月10日 (月)

短説:作品「微笑みの町」(向山葉子)

   微笑みの町
 
            
向山 葉子
 
『ようこそ、さち子さん』と大書きされた垂
れ幕の下に、家族全員がにこにこしながら坐
っていた。そして、さち子の顔を見るなり、
「ようこそ」「ようこそ」と口々に歓迎の言
葉を投げかけるのだった。さち子は照れてし
まって、横にいる夫の顔を見上げた。夫もま
た微笑みを湛えて「ようこそ」と手を差し出
す。ここは微笑みの町だ、とさち子は思う。
角の煙草屋のおばさんも、お巡りさんも、み
んな柔らかく微笑んでさち子を迎え入れてく
れたのだから。もうあくせく働くこともない
のだ。「ふつつか者ですがよろしくお願いし
ます」さち子は幸せな気持ちで頭を下げた。
 午後からは夫に連れられて散歩に出掛けた。
畑のキャベツ、鎮守の森、緑色が大半を占め、
空気も清々しかった。「東京とは思えないわ」
深呼吸をしながら言うさち子に夫は誇らしげ
に答える。「だろう? ここは保護区だから
ね。道路工事も多いだろ。子供やお年寄りの
ためにも道路だって疎かにしない町なんだ。
そうだ、君のことみんなに紹介しなくちゃね」
と夫は町行く人に一々さち子を紹介し始めた。
道路工事夫に至るまで、さち子は頭を幾度下
げたことか。が、みんなみんな微笑み返して
くれるので、疲れなど感じなかった。「これ
でよし、と。君はもうこの町の人だよ」
 一か月ほどたつとさち子はすっかり町にも
家族にも溶け込んだ。結婚前のあらゆる不安
も消え去って、妻としての自覚も生まれてき
たようだった。そろそろ友達にも惚気を言い
たい気分にもなって、出掛けることに決めた。
「大丈夫かしら」と心配気な義母を後に足取
りもかるく家を出た。駅への道は工事中だっ
た。「ここは一方通行だから」と通してもら
えない。迂回した先もまた工事中。さち子は
町をくるくる巡り遂に駅へ辿り着けなかった。

〔発表:昭和63年(1988)5月第33回東京座会/初出:「短説」1988年6月号/再録:1989年10月・年鑑短説集〈3〉『乗合船』/WEBサイト「西向の山」upload2002.4.5〕
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コメント

おはようございます。向山さんの「微笑みの町」。
怖ろしい「微笑み」のお話です。
「猫街」という、つげ義春氏の劇画を思い出しました。
山を越えると、懐かしい幼少のころの家並みを
思わせる街道が現れる。しかしその街に住む
「人間」は猫だけ。猫にならないと生きていけない。
そして主人公はその街を出て行けなくなって・・・。
というようなあらすじだったと思います。
自分の住む世界が、自分を拒絶する「異世界」だった、
というお話。なにか通じるものがあるように感じました。
いつの時代も、本当のことを言うと(感じると)
拒否される。以前にも書きましたが、吉本隆明氏の
若いころの詩篇のなかの一節、「僕が真実を口に
すると世界は凍る」という言葉を想起しました。
向山さんの作風は、小生の中の「風向き」に
近しいものを感じます。やはり、「赤い橋」が
「この街」にあるのでしょうか?それでは、また。

投稿: 秋葉信雄 | 2006年4月13日 (木) 07:11

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