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2006年6月27日 (火)

短説:作品「うつくし」(川嶋杏子)

   うつくし
 
            
川嶋 杏子
 
「もう一度行ってみたい」と妻は言った。
 疎開先で教帥に引率されて行った川の風景
が忘れられないという。
 宿の主人は、文箱に入った手紙の束を持っ
て来た。
“おせわになったおじさんへ”
 茶罫のわら半紙の原稿用紙に、食事がおい
しかった、せみをつかまえてもらってうれし
かった等、礼の言葉が綴られている。戦争が
終って、束京に帰る子供達が置いて行ったも
のだという。妻のように大人になってまた訪
れて来る人間も居るとの事だった。低学年だ
った妻には、手紙を書いた記憶はなかった。
「今頃は日光きすげが咲いていますよ」
“うつくし”に行ってみたらと主人は言った。
 宿の前の坂道を下ると湧水があり「ここで
顔を洗った」と妻は言った。
 翌日は娘と三人、バスで美ヶ原へ登った。
 娘はその頃の妻の年齢だ。
 帰る日、妻は朝早く一人で宿を出て行った。
「川を見て来るね」「早く帰って来てママ」
 出発の時間真近になって彼女は戻って来た。
「ここじゃないかと思う処はあった」
 はっきりとは確認出来なかったのだと私は
思った。始発のバスの二人掛の座席に私は娘
と並んで座り、妻は後に座った。
 窓外に川の景色が見えて来た。私は思わず
目を凝らした。川原の白い砂の上に妻の後姿
がある。――妻は何を思い残しているのか。
 その日まで戻って解決してやれないものか。
 後ろに居る女は誰だろう。ふり返っても誰
も居ないのかもしれない。
 川原へ、妻を連れ戻しに行かなくてはと思
いながら、私はふっと別の事を考えた。
 地元の人は“美し”というのか。高原に、
きすげの花が盛りだった……。

〔発表:平成16年(2004)8月上尾座会/初出:「短説」2004年11月号/再録:「短説」2005年5月号〈年鑑特集号〉*2004年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.5.11〕
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