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2006年8月

2006年8月31日 (木)

夏の終りに

060831_122001_1 久しぶりに携帯から投稿してみる。いま昼休み。
 今年は梅雨が長く、夏らしい夏が遅く始まった分、残暑が長引くようだ。それでも夜になると秋の虫が鳴き、確実に季節は移り変わっている。
 季節の終わりに、妙に感傷的になるのは、やはり夏をおいてないだろう。「逝く春を惜しむ」という言葉があるが、春の場合は次に来る初夏という一年で最も美しい季節への予兆を孕んでいる。それに較べて夏は……。
  
 全然関係ないが、写真は、神田川に架かる御茶ノ水橋の袂にある御茶ノ水? 少しは涼しくなった?

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2006年8月28日 (月)

キャンプファイヤー&手作りミニ燈籠

 26~27日にかけての夏休み最後の土日、地元の小学校で、僕も委員を務める健全育成推進委員会主催による学校キャンプが行なわれました。健全委員はあくまでも裏方で、主役はリーダーと子供たちです。メインイベントのキャンプファイヤー。火は神聖なものです。トーチを掲げたリーダーが闇の中から静かに登場し、掛け声に合わせて点火。キャンプも佳境に。
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 日帰り組の一、二年生が作った紙コップとローソクの手作り燈籠。フャイヤーが落ち、リーダーがみなの目を瞑らせている間に、七十二個のミニ燈籠に火を入れる。そのタイミングと、果たしてうまくいくのか直前まで不安だったのだが、見事に成功。その成果は予想以上で、感動的であった。
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 この燈籠の花道を子供たちはいったん体育館に退場し、日帰りの子たちは、親に点呼後引き渡したのち、再びこの燈籠ロードを親と手を繋いで帰るという演出。うまくいって良かった!
 わが家の子供たちにとって、通算九回目の、そして最後のキャンプ。委員として参加して四回目。自分の子供はこれで卒業だが、来年以降もまた泊まり込みになるんだろうな。
 翌日は、朝からPTAのソフトボール大会二試合+審判をやって、さらに午後もクラブチームの練習試合&練習。そのあと飲み会にミーティング。さすがにへばったが、充実した二日間でした。

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2006年8月20日 (日)

短説:作品「とうとうたらり」(福本加代)

   とうとうたらり
 
            
福本 加代
 
「とうとうたらりって感じね」
 桜の木を見上げながら、原田さんが呟く。
「女学生のころ読んだ、上田敏の『海潮音』
の一節に、匂も音も夕空に、とうとうたら
り、とうたらり、というのがあったわ」
「どういう意味なのでしょうか」
 わたしは原田さんの車椅子を押す手を止め
て尋ねた。
「それがよく判らないのよ。でもその文句が
気に入って覚えていたのね。それでこういう
歌を詠んでみたの」
 原田さんはゆっくりした口調で言う。
「春の日は 極彩色の 曼荼羅に つつまれ
眠る とうとうたらり」
「曼荼羅ってチベット的ですね」
「ええ、それで、チベット語が発祥という説
もあるそうよ。ネットで調べたのだけれど」
「パソコンなさるんですか」
「孫が来たときに設定してくれてね。さっき
の歌も、題詠マラソンという、ネット上の催
しに発表したものなのよ」
 わたしは桜の木の下にシートを敷き、原田
さんを座らせた。平日だが幾つかのグループ
がお弁当を広げている。
「今朝、急に思いたったので、コンビニのお
握りしか用意できなくて」
「ええ、それでじゅうぶんよ」
 原田さんはお握りを頬張る。実を言うとわ
たしは、出不精になった彼女を、どう誘おう
か迷っていたのだ。
「チベットにもね、姨捨山伝説というのが、
あるそうよ。お婆さんたちはね……」
 お握りを食べ終え、ペットボトルのお茶を
飲みながら、原田さんは言い続けた。
「とうとうたらり、とうたらり、と歌ったり
踊ったりしながら、お山にゆくのよね」

〔発表平成16(2004)年3月東葛座会・4月ML座会/初出:2004年6月号「短説」/WEB版初公開〕
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2006年8月15日 (火)

短説:作品「やくせん」(大越剛吉)

   やくせん
 
            
大越 剛吉
 
 疎開から帰ってみると、東京は焼け跡だら
けだった。
 いまの学芸大学の駅から康夫の家の手前ま
ですっかり焼けていたが、そこからの住宅地
は残っていた。道ひとつ隔てた「やくせん」
と呼んでいた女子薬学専門学校は綺麗に焼け
ていて、基礎のコンクリートの上にガラス屑
などがうず高く積もっていた。いくらかでも
食糧の足しにと其の一隅を耕して畑を作った
が、土が悪いせいかほとんど収穫がなかった。
 四キロほど離れたいまの駒沢公園まで「か
いせい」道路を歩いて野菜作りに通ったが、
これも長続きしなかった。結局いくらかでも
役にたったのは、狭い庭にあった防空壕を崩
してつくった南瓜くらいだった。
 米軍が放出した缶詰などを分けるために、
隣組の人たちが康夫の家に集まった。青木さ
んのおくさんが缶詰のラベルを読んで、中味
がアスパラガスだと言った。周りの人は「へ
え、英語が分かるんだ」と感心した。
 手製の電気パン焼き機がおおいに活躍した。
小麦粉をといていろんな物を混ぜて流し込ん
で焼くと、意外にふっくらと焼きあがり康夫
たちには歓迎された。
 
 隣組の人たちで区の出張所まで配給を取り
に行ったことがある。その中に稲垣さんの家
に問借りしている娘がいた。母たちは「なに
をしている人だろう」と言っていたが、肉付
きのよい美人だ。
 前を歩いているその人がひょいと背中の荷
物をずり上げた。そのとたんに、ワンピース
がめくり上がりお尻が丸出しになった。その
お尻にはぼろぼろのパンツが申し訳ていどに
くっついていた。
 康夫は頭がくらくらとした。

〔発表:平成16年(2004)12月藤代座会/2005年3月号「短説」/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.8.12〕
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2006年8月11日 (金)

小川和佑先生への手紙(ニコライ堂前にて)

 明大文芸科の恩師・小川和佑先生に手紙を書きました。久しぶりに長い手紙を書きました。私信ではありますが、差し支えないと思いますので公開します。実際に今日の昼過ぎ、ニコライ堂の前で書いたのですが、実はペンで便箋にではなく、パソコンのメモ帳にでした。以下はいわば下書きであり、帰宅後先生にはちゃんと便箋に万年筆で書きましたが、ニコライ堂の前で書いたことにしてしまいました。
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 拝啓 長い梅雨が終わったと思ったら、いきなり夏になりました。最近はみなメールになってしまいましたので、たまにはペンをとろうと、お便りします。
Ts2a0281 今、ニコライ堂の前にいます。摩耶の夏休みの宿題に付き合って。水彩画を描くのです。昨年は“ラドリオ”を描きました。これは親父の趣味といったほうがいいのですが、神保町-御茶ノ水シリーズというわけです。葉子と義人は、昨日から甲子園に高校野球を見に行っています。父と娘はおばあちゃん同行で都内でスケッチ。
 ところで、ブログというのをご存じでしょうか。ホームページみたいなものですが、個々の記事に訪問者がコメントを寄せることができます。それで、ぼくは「短説ブログ」というのを制作・公開しているのですが、もう一年半前に、山梨県長坂町にある「四季派書庫(小久保実文庫)」についての記事を書きました。小淵沢に、五十嵐さんとゼミ合宿の下見に行った時の訪問記です。その記事に、つい先日、津村信夫のある詩を探しているという方からコメントが寄せられました。非常に懐かしい気分になり、久しぶりに“文学的夢飛行”をしてしまった次第です。
 その探している詩というのは、「四季創刊号に載っていたと記憶する」ということなので、さっそく探してみました。その経緯もブログに書きましたので省略しますが、該当の詩は「生涯の歌」でした。
Ts2a0171 その方は、のちのやりとりで、どうやらぼくと同じぐらいの年代の人らしいのですが、ぼくが興味をひかれたのは、今時、津村信夫の詩を探している人がいるということもそうですが、それが『四季』(第二次)創刊号に載っていたと“記憶する”という点でした。これは只者ではありませんよね。加えて、小久保実氏のことを「小久保先生」と呼んでいる。先生のゼミではなかったらしいのですが、ぼくの推測通り、帝塚山学院大学の卒業生とのこと。
 そして、「四季創刊号と第二号のコピーで2年間のゼミを行いました。先生が個人的に持っていらしたもののコピーでした。四季は復刻版か現物かは分かりませんが、載っていた広告にあった豪華版の装幀についてもどんな感じか学生に考えさせていました」とのこと。ぼくも近代文学館に行って、実際に現物や復刻版を手に取ってみたりしましたが、小川先生が常日頃おっしゃっていた、詩誌や詩集の研究には原典に当たる必要があるということを、ちょうどぼくらと同じ頃、それを実践している学生(それもお嬢様女子大の)が、関西にもいたのです。当然といえば当然ですが、妙な親近感を覚えました。
Ts2a0286 それで、ぼくも久しぶりに津村信夫の詩を読み返しました。さらに、詩ではなく散文ですが、遅まきながらこの度初めて『戸隠の絵本』を読み、たいへん心惹かれました。
 立原道造の散文もいいのですが、やはり詩人の散文という感じがします。津村のにしても、本人が言うように「抒情日誌」であり、エッセイというよりは詩文集に近いのですが、よほど散文であり、もっと素直ですね。津村も若くして死んでいますが、立原よりは十年長く生きている。実生活では、病気を乗り越え大恋愛をし、それを実らせ結婚もし、子ももうけている。三十半ばまで生きていれば、甘いだけではないそれ相当の成熟というものがある。そのあたりに違いがあるかもと思いました。
 それにしても、やっぱり、『四季』を代表する詩人、そして最も『四季』らしい詩人といったら、この二人に尽きますね。今更ながら改めて思いました。
Ts2a0283 そんなわけで、もう一度『四季』を読んでみたくなりました。先生にとってはもはやこそばゆい感じがあるかもしれませんが、『四季』をテキストにかつてのような合宿ができないものかと考えています。いやもう遠くに行かなくてもいい。泊まらなくてもいい。昭和の詩をもう一度先生と読んでみたい。
 中也でも静雄でも達治でも丸山薫にしても、『四季』とは離れますが伊藤整にしても、どうしてこの時代の詩は、半世紀以上のちの二十一世紀になった今でも心惹かれるのでしょうか。あるいは今だからこそなのか。
 先生が“新しき古典”と名付けた一九七〇年代初頭、それからちょうど三十年たって、また同じような状況になったということでしょうか。抒情詩、甘くて結構と言いたくなります。
 では、暑い盛りとなります。どうぞご自愛のほどを。   敬白

   平成十八年八月十日 ニコライ堂前にて
                        西山正義
小川和佑先生

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2006年8月 8日 (火)

坂の名前・神田駿河台の石標(その四)

 この坂の名前、読めるでしょうか。-「皀角坂」-
 猿楽町二丁目と三崎町一丁目の間を南北に走る「小栗坂」を登り切った所から交差するように、西から東へちょうど神田川(というよりJR中央・総武線)に沿って御茶ノ水方面へ登る、なだらかなようでけっこう勾配のある長い坂。「さいかち坂」です。
 千代田区設置の案内板によると、『新編江戸志』に、「むかし皀角樹多くある故に、坂の名とす。今は只一本ならではなし」と書かれているそうです。「『サイカチ』とは野山にはえる落葉高木」とのこと。『新編江戸志』が上梓されたのがいつだかわかりませんが、おそらくこの辺りは江戸時代の後期にはすでに都市化が進んでいたのでしょうね。
 駿河台西町会が設置した石標は、ほとんど這いつくばって超ローアングルかれでないと碑面が撮れません。
 
Ts2a0277  Ts2a0279
 
 右は、坂の途中にあるマンション?の植栽にぽつんと設置された坂の名前に因んだ句碑。
「皀角子の実はそのままの落葉哉」
 芭蕉の句とも言われていますが、定かではありません。

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2006年8月 4日 (金)

津村信夫の詩を介して

 このブログに嬉しいコメントがありました。ホームページやブログをやっていると、ごくたまにですが、まったく未知の人と愉快な交流ができることがあります。スパムメールや迷惑投稿・トラックバック等、いろいろ不愉快なこともありますが、基本的には「性善説」によって成り立つインターネット。こういうことがあるからやめられないですね。通常の生活圏・交流圏では、とうてい出会えない出会いがあります。
 
 本日未明(というか昨日の深夜)、もう一年半前にアップした、昨年二月六日の記事にコメントがあったのです。その記事は、山梨の小淵沢にある「四季派書庫(小久保実文庫)」について書いたものですが、「津村信夫さんの詩について検索していて、たまたまこちらに辿り着きました」とのこと。“ナナ”さんというハンドルネームとフリーメールのアドレス以外何も知り得ない、まったく未知の方です。
 女性とは限らないかもしれませんが、「小久保先生」と仰っているところからすると、もしかしたら帝塚山学院大学で先生の教えを受けた方でしょうか。
 それはともかく、「最近、四季創刊号に載っていたと記憶する津村信夫さんの朝べりの歌(だったと思いますがうろ覚え)をもう一度読みたく思って検索していました」ということで、僕も気になって探してみたのです。うちにある近代詩の各種アンソロジーでは見つけられませんでした。それで僕もネットで検索。
 そして、たぶんこれではないかと思われる詩を見つけました。“ナナ”さんにはメールしたのですが、その経緯は以下の通りです。
 
 インターネット上には奇特な人がいるもので、『四季』の総目録を掲載しているサイトがあります。「四季・コギト・詩集ホームぺージ
 それで、第二次『四季』昭和9年10月創刊号を見ると、津村信夫が発表している詩は「生涯の歌」一篇です。
 この「四季・コギト・詩集ホームぺージ」は、岐阜女子大学図書館の中嶋康博さんという方が制作しているもので、その筋では有名なのですが、輪をかけて奇特な人がいて、津村信夫(だけでなく何人かの詩人)の主要詩集を丸ごとブログにアップしている方がいました。
あどけない詩~詩と詩人の紹介~」-それによると、「生涯の歌」はこの通りです。
 その冒頭だけを孫引きすると、
「海べりの街の朝まだきを、鴉の群は遠くよびかはしながら通りすぎる。」
 というもの。
“ナナ”さんがお探しの「朝べりの歌」というのは、実はこれではないか。つまり、「朝べり」ではなく、「海べりの街の朝まだき」。
 
 ということをメールしたのですが、何が愉快って、いろいろ調べていて、久しぶりに津村信夫の詩が読めたことです。そういう機会を、このブログのコメントは僕に与えてくれたわけです。
 今日は暑かったです。昨日今日と気をつかう仕事をし、疲れて帰ってきて、夜が更けてもまだ暑い。そんな時に、軽井沢や戸隠のさわやかな風を運んでくれる津村信夫の詩が読めたのです。そういう瞬間こそを、優雅で贅沢な時間というのではないでしょうか。
 
 津村信夫は大恋愛をしていますよね。三十六歳の若さで、アディスン氏病という難病で夭折してしまいますが、身分の違いや病気(本人のではなく相手の)を乗り越えて結婚した、その恋女房に看取られながら星になったのでした。
 因みに、こんなホームページもあります。「大分文学紀行(湯布院)/津村信夫「鄙の歌」-長野・善光寺で撮られた津村信夫・昌子夫妻の有名な写真が転載されていますが、詩人のハートを射止めた(一目惚れだったと言われている)だけあり、美人で清楚そうな奥様であります。

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2006年8月 3日 (木)

月刊『短説』に先立ち

 もう八月になりますが、まだ月刊『短説』の六月号がお手許に届いていないと思います。しかし、すでに校正も終えていますので、いましばらくお待ちください。
 この号も、五月号に引き続き繰り上げ号で、四月座会を中心とした通常版ですが、特別編集ページが二ページ入っています。
 それで〈年鑑特集号〉のほうは、二か月遅れの七月号になります。それにしても、もう八月なのですが、幸か不幸か遅れたために、今回の年鑑で、ちょうど記念すべき二五〇号となります。最初に月刊化された時に立ち会った者として、個人的には途中、中抜けがありますが、やはり感無量です。
 
 さて、その六月号掲載の佐々木美千代同人の「スリッパ」をブログにアップしましたが、まだ雑誌が出ていないので、藤代座会以外の方には初公開ということになります。
 月刊誌の編集を担当しているので、だんだん作品のテキスト・データが溜まってきました。今後も、紙媒体に先立ち、こういう形でブログにアップするケースが出てくるでしょう。

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短説:作品「スリッパ」(佐々木美千代)

   スリッパ
 
          
佐々木 美千代
 
 ドアをあけると、ゴミ袋が二つあった。に
おいがする。スリッパが二つ。ピンクとブル
ー。俊樹はスイッチを押し、照明をつけた。
テーブルには、昨日のビール缶と、マグカッ
プがあった。椅子にジャケットをかける。背
もたれの角に、肩山を合わせ形を整えた。襟
が毛羽立っている。電話がなる。
「ごめんなさい。今日は残業で、遅くなりそ
う。食事は?」
 まだ会社にいるエミに、夕食を済ませた旨
を伝え、コタツの電源を入れた。俊樹の選ん
だ円形のコタツに上掛けがみつからず、エミ
はテーブルクロスを代用した。淡いクリーム
色に花柄が散っている。窓辺のシクラメンが
五十度に傾いたままで、花をつけている。テ
レビをつけ、新聞を広げた。裏面の会社人間
のリラックス法に目がいく。エミは、連休を
ずらして旅行を計画しているらしい。房総や
伊豆のパンフレットが電話台の下にある。狛
犬のお守りをエミが置いた電話台に、新年に
買った招き猫を俊樹は置いてあった。カレン
ダーはスキー姿のキティー。
「あれを、毎月見るのか」
 俊樹の苦手なキティーが着物姿や、水着で
登場するのだ。とりあえず可愛いねと言って
おけば、エミは喜んでいる。二人の新生活を
慣れぬ土地ではじめたエミは、朝の出勤時間
を守るのが精一杯だ。俊樹も分担した家事を、
休日にまとめてかたずけていた。また電話だ。
「今から帰ります」
「おつかれさん。気を付けてね」
 俊樹は、だんだんエミの親の口調に似てき
た。風呂場に行く。ふたをあけると、浴槽の
残り水を流した。玄関の灯りをつける。ピン
クのスリッパの真ん中に三本の足指の形が残
っている。

〔発表:平成18年(2006)4月藤代座会/初出:「短説」2006年6月号/WEB版初公開〕
Copyright (C) 2006 SASAKI Michiyo. All rights reserved.

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2006年8月 1日 (火)

坂の名前・神田駿河台の石標(その三)

 男坂・女坂と呼ばれる坂は日本全国至る所にあるでしょうが、これは神田駿河台のそれ。どちらも坂道というより階段です。女坂のほうもけっこう急ですが、踊り場が一つ多く、途中で屈折させているため、ほとんど一直線に下る(登る)男坂よりは多少緩やか。東京では同じ千代田区内にある神田明神の男坂・女坂が有名ですね。
 通常、隣接あるいは平行する坂が二つある場合、急なほうを男坂、緩やかなほうを女坂と称するわけですが、ここは、西よりの女坂の先にはアテネフランセ(なんとなくハイカラな女子学生が多いというイメージ)が、坂下には神田女学園があり、男坂に平行して男子校の明大明治中・高があるからという説もある?
 この二つの坂は、「大正一三年(一九二四)八月政府による区画整理委員会の議決により作られたもの」(出典:『東京23区の坂道』)だそうですが、アテネフランセと明大明治は当時すでに現在と同じ(もしくは隣接する)場所にあったようです。神田女学園は昭和十年当地に移転。
 男坂はもちろん女坂にしても、ミニスカートの女性は登れませんね。いや、そのうしろについて登るのはよしておいたほうがいいでしょう。要らぬ誤解を招きそうです。
 
Ts2a0275  Ts2a0276

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