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2006年8月 3日 (木)

短説:作品「スリッパ」(佐々木美千代)

   スリッパ
 
          
佐々木 美千代
 
 ドアをあけると、ゴミ袋が二つあった。に
おいがする。スリッパが二つ。ピンクとブル
ー。俊樹はスイッチを押し、照明をつけた。
テーブルには、昨日のビール缶と、マグカッ
プがあった。椅子にジャケットをかける。背
もたれの角に、肩山を合わせ形を整えた。襟
が毛羽立っている。電話がなる。
「ごめんなさい。今日は残業で、遅くなりそ
う。食事は?」
 まだ会社にいるエミに、夕食を済ませた旨
を伝え、コタツの電源を入れた。俊樹の選ん
だ円形のコタツに上掛けがみつからず、エミ
はテーブルクロスを代用した。淡いクリーム
色に花柄が散っている。窓辺のシクラメンが
五十度に傾いたままで、花をつけている。テ
レビをつけ、新聞を広げた。裏面の会社人間
のリラックス法に目がいく。エミは、連休を
ずらして旅行を計画しているらしい。房総や
伊豆のパンフレットが電話台の下にある。狛
犬のお守りをエミが置いた電話台に、新年に
買った招き猫を俊樹は置いてあった。カレン
ダーはスキー姿のキティー。
「あれを、毎月見るのか」
 俊樹の苦手なキティーが着物姿や、水着で
登場するのだ。とりあえず可愛いねと言って
おけば、エミは喜んでいる。二人の新生活を
慣れぬ土地ではじめたエミは、朝の出勤時間
を守るのが精一杯だ。俊樹も分担した家事を、
休日にまとめてかたずけていた。また電話だ。
「今から帰ります」
「おつかれさん。気を付けてね」
 俊樹は、だんだんエミの親の口調に似てき
た。風呂場に行く。ふたをあけると、浴槽の
残り水を流した。玄関の灯りをつける。ピン
クのスリッパの真ん中に三本の足指の形が残
っている。

〔発表:平成18年(2006)4月藤代座会/初出:「短説」2006年6月号/WEB版初公開〕
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コメント

久しぶりに佐々木さんの作品を読みました。
設定は・・・、年の離れた新婚夫婦、二人はそれぞれの
家庭を捨て、逃げるように新たな土地にやってきた。
そしてしばらく月日がたった・・・、そんな勝手な想いを
持ちました。
二度と間違った結婚はしたくない、いや今の関係を
死ぬまで保ち続けたい、という二人のさりげない気遣いが
ところどころに見られ、必死にお互い生きている。
しかし「スリッパ」の汚れに、かすかな将来の不安の芽が
見て取れる、というような印象を受けました。
小生には書けない様な作品です。こんな夫婦関係を
持ってもいいなあ、と思わせるいい作品です。それでは、また。

投稿: 秋葉信雄 | 2006年8月 5日 (土) 09:19

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