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2006年8月15日 (火)

短説:作品「やくせん」(大越剛吉)

   やくせん
 
            
大越 剛吉
 
 疎開から帰ってみると、東京は焼け跡だら
けだった。
 いまの学芸大学の駅から康夫の家の手前ま
ですっかり焼けていたが、そこからの住宅地
は残っていた。道ひとつ隔てた「やくせん」
と呼んでいた女子薬学専門学校は綺麗に焼け
ていて、基礎のコンクリートの上にガラス屑
などがうず高く積もっていた。いくらかでも
食糧の足しにと其の一隅を耕して畑を作った
が、土が悪いせいかほとんど収穫がなかった。
 四キロほど離れたいまの駒沢公園まで「か
いせい」道路を歩いて野菜作りに通ったが、
これも長続きしなかった。結局いくらかでも
役にたったのは、狭い庭にあった防空壕を崩
してつくった南瓜くらいだった。
 米軍が放出した缶詰などを分けるために、
隣組の人たちが康夫の家に集まった。青木さ
んのおくさんが缶詰のラベルを読んで、中味
がアスパラガスだと言った。周りの人は「へ
え、英語が分かるんだ」と感心した。
 手製の電気パン焼き機がおおいに活躍した。
小麦粉をといていろんな物を混ぜて流し込ん
で焼くと、意外にふっくらと焼きあがり康夫
たちには歓迎された。
 
 隣組の人たちで区の出張所まで配給を取り
に行ったことがある。その中に稲垣さんの家
に問借りしている娘がいた。母たちは「なに
をしている人だろう」と言っていたが、肉付
きのよい美人だ。
 前を歩いているその人がひょいと背中の荷
物をずり上げた。そのとたんに、ワンピース
がめくり上がりお尻が丸出しになった。その
お尻にはぼろぼろのパンツが申し訳ていどに
くっついていた。
 康夫は頭がくらくらとした。

〔発表:平成16年(2004)12月藤代座会/2005年3月号「短説」/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.8.12〕
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コメント

大越さんの「やくせん」、印象に残っていた作品でした。
終戦の日を終えたこの8月にふさわしい作品ですね。
小生は戦後数年後に生を受けた、いわゆる「団塊の世代」
ですが、父は中国大陸に十年近く引っ張られ、母は私を
まだ産まずに、東京大空襲を下町で受けました。
疎開をされていた方々はまだ食糧事情が、東京下町に
比べるとよかったそうです。母は戦後も焼け野が原で
何も食えず、生まれた小生にお乳を与えることが
できなかったことをボロボロになった「母子手帳」で
その後知ることになりました。私は何匁と書かれた
砂糖湯で大きくなったそうです。
そのためか、小学生になるとアメリカの豚のエサだった
脱脂粉乳で大きくナリマシタ。
そうしたことを思い出させてくれるいい作品です。
それでは、また。

投稿: 秋葉信雄 | 2006年8月20日 (日) 17:01

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