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2006年9月 1日 (金)

短説:作品「秋霖」(喜多村蔦枝)

   秋 霖
 
           
喜多村 蔦枝
 
 むしゃくしゃした気持をしずめようと髪を
洗った。遠くでゴトゴト列車の音がする。
 まだおさまらない。外へ出た。空缶を蹴る。
インスタントコーヒーか。壁にぶつかって止
まる。また蹴る。エノコロ草が抱きとめた。
 踏切を渡ると一面の草っ原だった。牛の飼
料畑らしい。私を迫いかけて風が吹く。洗い
髪はまだ乾かない。
 畑に入って大の字になった。疲れが出た。
灰色の雲。目をつぶる。ザワワワ、ザワワワ
と草の音がする。それすら癩にさわる。
 車が止まった。パタンとドアを閉める音。
誰だろう。こちらへ歩いてくるようだ。
 起き上がった。と同時に義父の声がした。
「わあ、驚いた。死んどるかと思ったよ。あ
っはっは」
〈大きなお世話〉と思ったが、隣へ坐るよう
促がした。黙っていた。義父も何も言わない。
しばらく遠くを見つめていた。何気なく足下
を見た。赤トンボが死んでいた。
「空があやしくなった。降りそうだ。わしゃ、
帰るよ。あんたは……ちょっとばかり、濡れ
て帰るがいい。風邪をひかんようにな」
 図星だ。
 坐ったまま義父を見送った。背中が丸くな
っている。
 ひとつ屋根の下に住んでいれば、同じ釜の
飯を食えば、分かりあえるなんて嘘だ。
 夫は気がつかないだろう。分かろうと努力
する者だけが感じることが出来る。
 義父にはお見通しなんだ。
 そう思った途端にこみあげてきた。涙の雨
がおしよせてくる。
 分かってくれた男は老いぼれている。
 それがまた口惜しい。
 雨が静かに私の身体を濡らし始めた。

〔発表:平成6年(1994)12月第100回記念東京座会*「天」位選出作品/初出:「短説」1996年2月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.5.21〕

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コメント

久しぶりの「愁淋」、と思わずうってしまいました。
小生が女だったら、こういう作品が書けるのかも
知れません。
いまだ女性の気持ちは解りません。
この主人公は、シアワセなんでしょうね。
うちの母親はこういうことも言えませんでした。
死ぬ直前に、「あんなに浮気ぽかった男は
いないよ」とポツリと言って、天国へ行ってしまいました。
今読むと、そんなことを思い出しました。それでは、また。

投稿: 秋葉信雄 | 2006年9月 3日 (日) 07:49

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