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2007年1月

2007年1月31日 (水)

ソフトボールに野球

 早いもので今年も一年の十二分の一が過ぎた。春が待ち遠しいようでもあるが、比較的のんびり過ごせるこの時期は貴重でもある。
 2000年の秋からソフトボールを始め、思えばこれが僕の生活上の一大転機となるわけだが、さらに草野球チームにも入ることになった。四十も半ばに差し掛かって酔狂なことだと思うが、ほかの趣味に較べて健康にはいいことなのでまあいいだろう。
 ソフトボールと野球の違いはあるが、もともと発祥を同じくする地域の兄弟チームである。ともに今年ユニフォームを新調することになった。
Angels33 背番号は、ソフトボール・チームではずっと33をつけていた。これは入部当時一番お尻の番号で、要するに一番の新人を意味していただけで、希望したわけでも特別な番号でもないが、それなりに気に入っていた。しかし、今回チームの改変に伴って、6を背負うことになった。野球部の方は8。そんないい番号でなくてもと思ったのだが、部員が少ないのに大きな番号も変なのでということで、ありがたくもらうことにした。
 野球で6や8といったら大したものということになり、いささか身にそぐわないが、草野球のご愛嬌ということで許してもらおう。背番号6といえば、古くは中西、落合、最近では小久保、8といえば、今回全日本のコーチになった山本浩二、原辰徳、いずれにしろスラッガーのイメージで僕とはかけ離れているが、僕の中では、6は土井(元ジャイアンツの)や篠塚、現役では宮本、8は高田のイメージである。これならしっくりくる。
 ショートだから6ということもあるが、僕が最も得意とするのはレフトなので、レフト高田の8。それでいつも思い出す曲がある。グレープの「朝刊」。「高田の背番号も知らないくせに……」というフレーズ。今じゃ知らなくても不思議はないが、ジャイアンツV9時代の後半はフォークの時代でしたね。
 ※最終調整で、8番はやはり重いので12にしてもらう。あくまでもソフトが主で、野球は従ということもあるし、一応「新人」だし。(2月4日追記)
 
 それにしても頭が痛いのが各種会費や経費である。ソフトに野球、短説の同人費、それからとある実行委員会の供託費。しかもわが家の場合、ソフトと短説は夫婦二人分である。つい先日はクルマを車検に出した。この春は、娘が高校、息子が中学進学で、ただでさえ通年より出費が嵩むのだ。嗚呼!

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2007年1月25日 (木)

短説:作品「館の緋」(横山とよ子)

   館の緋
 
           
横山 とよ子
 
「栗毛のようすが変だよ。大好きな飴も食べ
ようともしない」子供達が父に知らせた。
 父は自転車に飛び乗り、獣医を呼びに走っ
た。心配して近所のおじさん達も駆け付けた。
 獣医は、腸捻転と診断。素早く指図した。
 子供達は、ぬるま湯で石ケンを溶いた。
 大人達は、縄で丸太を結び枠を組み、首も
尻尾も縛り上げ馬が身動き出来ない様にした。
 獣医は上半身裸になり、腕に石ケンを塗り
肛門に突込み、馬糞を掴み出した。子供達が
溶いた石ケン水を、バケツ一杯浣腸した。
 轡の端から竹筒を差し込み薬を流し込んだ。
 毎日、父は餌に気を遣った。干し草を刻み、
糠、餅米の粥、丸麦を煮て切藁に混ぜ、飼葉
とし、麩に味噌を加えて汁とし、生卵子を飲
ませた。馬はだんだん元気になり、毛艶は良
し、はち切れんばかりの尻には、白い丸い模
様が浮き出て来た。その模様が、六文銭の形
に似ている事から、六文の連銭というそうだ。
 最高馬の証しと父は喜び尚一層世話をした。
 昭和十六年、軍馬徴発令が下った。農耕馬
でも検査を受けなくてはならない。
 勤行川沿のグラウンドには、下館町を中心
に近在五ヶ村から、百数十頭の馬が集った。
 三分の一の合格馬の中でも、我が家の栗毛
は、第一位で合格。下館町の誇りと係官から
館の一字をとり、〝館の緋〟と命名された。
 父は買上価格最高の大金五百円を手にした。
 その夜、病気の時お世話になった人々を呼
んで、盛大な酒盛りをした。館の緋は子供達
から好物の飴をもらい旨そうに食べた。
 翌朝、父は飴の袋を腹掛けに入れ駅に向っ
た。貨車に乗せようとしても、館の緋は、足
を踏ん張って乗らない。仕方なく係官に飴を
渡し、帰って来たと云う。
「今度は牛にしよう」と父は言った。

〔発表:平成16年(2004)4月藤代座会/初出:「短説」2004年7月号/WEB版初公開〕
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2007年1月23日 (火)

横山とよ子さん追悼

 短説の会の皆様に、悲しいお知らせをしなければならなくなりました。しばらくブロブを更新できなかったのは、詳しくは何も知らない私が、果たしてこのような形で公表してしまっていいものか迷っていたのと、そのショックと脱力感からでした。しかし、私は芦原修二氏から直接聞いたのであり、その情報に間違いのあろうはずがないので、月刊『短説』に先立ち、やはりお知らせすることにしました。
 
 われらが短説の会同人で、藤代座会に所属する横山とよ子さんが、本年一月五日に永眠されたそうです。同月の藤代座会は、その九日後の十四日に行なわれていますが、本来なら新年のおめでたい座会が、芦原さんをして「涙が止めようなく落ちてきて」というような座会になってしまったようです。
 横山とよ子さんは、藤代短説講座からの藤代では二番目ぐらいに古い会員で、平成八年一月に第三次同人に推挙されています。最初に『短説』誌上で注目されたのは、平成五年九月の藤代日曜座会に発表され同年十一月号の月刊『短説』に載った「夫の浮気」でした。この作品は単行本時代の年鑑第六集『函中の函』にも収録されています。以後ずっと継続の、今では最古参に近い同人の一人です。
 何がショックかというと、横山さんはついこの間まで座会に普通に出席されていたのです。持病などがあったかどうかそういうことは何も知りません。しかし、いずれにしろ急死と言っていいでしょう。昨年の十二月、十一月の座会に出席されていたかは分かりませんが、少なくとも十月の座会には出席されていて、その時の作品は、座会で「地」位を獲得し、その死が知らされる前に校正にまわっていた今年の新年号の巻頭を飾っています。もちろん追悼の意味で巻頭に掲げられたのではなく、作品が良かったからです。
 短説に少しでも関わった方々の中には、すでにお亡くなりになっている方はいます。しかし、私の記憶に間違いなければ、同人では初めてではないでしょうか。実際に短説を書いたことがある会員で、今では消息が知れない方の中には、私たちが知らないだけで、実はもうお亡くなりになっているという方もいるのかもしれません。たとえば東葛座会でも、その可能性がありそうな方が二、三名いらっしゃいます。ですが、現役の、それもついこの間まで座会に出席していた同人となると……。
 横山さんは、九五年の「創立十周年大会」や九八年の「こぶし祭り」、二〇〇一年の「十五周年全国大会」に来られていたでしょうか。もし来られていれば、お会いしたことがあるということになりますが、私は面識がないに等しい。その作品からおおよその年齢は推測できますが、おいくつだったのでしょうか。たとえ面識がなくても、作品や座会要約でその発言は読んでいたので、やはりショックです。
 横山さんは古くからのベテラン同人ですが、むしろここ二、三年の方がその創作活動はめざましく、月刊誌に採用される秀作も多数発表されていました。私の編集担当時だけでも、「館の緋」「川ぴたり」など、農家に育った自身の幼年時代や家族に取材した作品は、時代の証言という側面もありました。誠に哀惜の念に耐えません。
 いやそれは誰にでもあることだと言ってしまえばそれまでなのですが、今後ますますと考えると……。今はただ、ご冥福をお祈り致します、としか言葉がありません。きっと、その作品も一緒に荼毘に付されたことでしょうね。
 ――合掌

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2007年1月11日 (木)

短説:作品「トルソ」(すだとしお)

   トルソ
 
           
すだ としお
 
 私は看板を持って歩き回ることを仕事にし
ている。ある駅に行って看板を手配師にもら
う。ある駅としか書けないのは、駅の名前を
書いてしまうと、同業者が増えて仕事にあぶ
れてしまうことになりかねないからだ。
 手配師は顔しか知らない。名前も知らない
ことにしておく。実は小学校の同級生だ。
 看板はあやしい物ばかりなのだが、実に有
益な情報が掲載されている。死にたい方の手
助けしますとか、内臓探していますとか、愛
犬見つけたら二十万円さしあげますとか、様
々です。見た人が思わずメモを取ってしまう
ほどです。
 けれど、今日は、『生首を募集しています』
という看板を持たされている。いくらなんで
も人殺しではないだろうとは思う。仕事を首
になるなら何度も経験している。そんなので
はない。首だ、人の首。生首ってことなのだ
ろうか? だとしても、ただ生首と書いてあ
るだけで、鰻の首でも鶏の首でもいいのだか
ら、法律には違反しないかもしれない。
 こんな募集に応募してくるやつも、募集す
るやつもほんとにいるのだろうか? 一日の
終りに手配師に看板を返す時に聞いた。
「応募者いました?」
「いたよ」
「ほんとにいたんですか? でも誰が首を欲
しがっているんですか」
「情報源は秘密だ」
「いい金になるんなら、私が首を差し出して
もいいですよ。まさか殺されはしないでしょ
うから」
 そう言ってしまったので、明日、ある場所
へ行かないとならない。逃げるなら今の内だ
が、仕事をなくしてしまうことになる。しか
し、もう右目も腎臓もないのだから……

発表:平成12年(2000)10月東京座会/初出:「短説」2000年12月号/再録:「短説」2001年5月号〈年鑑特集号〉*2000年の代表作「地」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2003.12.19〕
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2007年1月 8日 (月)

無縁坂のお玉さん

Ts2a0396  今日(もう昨日だが)は、ソフトボールのチームメイト数人で、プロ野球OBのマスターズリーグ戦を東京ドームに観に行った。それはどうでもいいのだが、野球→球→玉、東京ドーム→本郷→無縁坂からの連想で、再び森鷗外の『雁』について。
 
 最初に読んでからは二十八年ぶり、二度目からでも二十三年ぶりぐらいの再々読になる。三日かけて、ほとんど音読するようにじっくり読んだ。覚えていたのは、最初と最後だけで、真ん中の細部はすっかり忘れていた。『雁』といえば、“近代的自我”と反射的に出てくるように、文学史上の評価も解釈もとうに定まっている古典である。
 実際、中程の主要部はヒロイン“お玉”の半生・境涯に費やされているわけだが、この部分はある意味なくてもいい。いや、もちろんこれがなければ、“お玉”の〈悲劇〉は語り得ないのだが、最後の効果へ引き絞るツマみたいなものだ。連載小説のタイトルが当初から『雁』であったことからも分かる通り、また、物語の構造上からしても、最後の場面のすれ違いを描くために、人物像形されたものであろう。
 無論、眼目は語り手の「僕」でも、何の罪もないといえる「岡田」でもなく、“お玉”の境涯にある。それをどう解釈するか。作者は、それについて何の批評も教訓めいたことも付け加えていない。ただ物語っているだけだ。そこがいいのだが、いくつかのつまらない偶然が重なって、岡田の投げた一投で図らずも仕留められてしまった「雁」は何を象徴しているか。そうしたこともすでにさまざまな文学史家によって出尽くされている。いま僕がそれに付け加えることは何もない。
 ただ、“お玉”の境涯の細部は忘れていた。というより、僕はもう少し年嵩だったように思い込んでいたのである。「僕」も「岡田」も東京医学校の卒業一年か二年前の学生ということは、二十二、三歳。“お玉”はそれより一、二歳上の、高利貸の囲い者であると。実際は二十歳である。満で言えば十九で、人目を引く美人ではあるが、高利貸の囲い者というような妖艶な大人の女ではない。いや、当時の感覚で言えば、十分“年増”であろうが、すれてはいない。いや、そういう兆候は兆し始めていたのではあるが。
 それで思ったのは、最初にこれを読んだ時、そうか、“お玉”が二十歳だとしても、僕はそれよりはるか年下だったからだと。二十歳でも大人の女に感じていたのだろう。二度目に読んだ時は、だいたい同じぐらいの年代だったのだが、やはり明治の青年の方が大人びていると感じたからではないか。これは作品の評価とは全然関係のない個人的な感慨であるが。
 鷗外がこれを連載し始めたのは満四十九歳の時で、すでにその年齢に近づきつつある今の僕。“お玉”は一つの〈典型〉であって、形の上では似ていても、心理上の境涯は現代では考えられないから、とうてい現代に当て嵌めて考えることはできない。人々の生活は、昔も今もそれほど変わっていない、という部分もあるが、やはり大きく変わっているのだ。僕らのお祖母さんの世代ぐらいまでは、まだそいうこともあった。ということをあらためて認識できればそれでよいだろう。
 小説の技法上のことはどうか。それはまた別に考えさせられることもあったが、それは内緒にしておこう。一つだけ言っておくと、これもまた〈方法論〉の小説であって、つまりだから《近代小説》のそれも名作といえるのだ。

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2007年1月 6日 (土)

公式サイト更新始め

 昨日は思いっきり早く寝て、朝自然に目が覚めるまでぐっすり眠った。それでも夕方まではまだ本調子とはいえなかったが、食欲はあり、どうやら風邪からは脱したようだ。夜になって、ML座会に投稿したりしているうちに頭もはっきりしてきた。
 本日、〈短説の会〉公式サイトに作品を三つアップ。2007年の更新始めである。昨年、平成18年度の月刊『短説』〈年鑑特集号〉(9/10月合併号)の他選集で、2005年の代表作として「天」「人」「我」に選出された三作品。即ち、拙作「玉」と、喜多村蔦枝さんの素っ頓狂ともいえるユニークな「セキララ」、岩谷政子さんのまさに“匂って”きそうな「栗の花」。「地」に選ばれた芦原修二さんの「誰何」は、山次郎シリーズということで、氏の希望で今はネットでは公開しない。
 僕は五反田に移ってからの東京座会には一度も行ったことがないが、元は東京座会の人間で、次点のすだとしお氏の「ジョンジョロ」を含め、昨年(一昨年)の年鑑上位は東京座会で占められることになった。実は、僕は「創立同人」でありながら、年鑑に選ばれたことがないほとんど唯一の同人であり、今回が実に初の選出なのであった。あらためてWEB上で読むと、どうなんでしょうか。

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2007年1月 5日 (金)

森鷗外『雁』

 どうもこの年末年始は体調が悪く、完全に風邪を引いたようだ。僕には珍しく鼻風邪。要するに普通の風邪なのだが、悪寒がして、頭も痛く、熱も少しあるみたいだ。たいして疲れるようなことはしていない。三が日は出掛けたが、その分早く寝てもいる。僕には異例なことだが、今年は新年から早寝早起きで、この調子は続けたい。
 今日は久しぶりに個人サイト「西向の山」を更新した。新たなページを加えるのは五か月ぶり。女房殿の短説を二作追加した。その勢いで、年末にできなかった〈短説の会〉公式サイトの方も作品を追加しようとしたのだが、力尽きてしまった。それで、ゴロゴロしながら森鷗外の『雁』を読み始めた。
 
 森鷗外の『雁』は、「古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している」(新字新仮名に変換)で始まる。
 おかしなことだが、この冒頭を読んだ瞬間、たしかこういう書き出しの小説をどこかで読んだことがあるような気になった。もちろん、それがほかならぬ『雁』であるわけなのだが、たしかにこの冒頭は記憶にあって、それがこの作品であったかと改めて気づいた次第なのだ。過去に二度、それも多感な頃に読んでいるので、すっかり忘れたつもりでも、読み出せば細部も思い出されるのかもしれない。そして今の僕に何かヒントになることが見出されるかも?(そういう邪な読書はよくないが、久しぶりにわくわくして本を読む)
 この作品は、「すばる」の明治四十四年九月号から連載が始まる。当時を「現時点」と見れば、たしかに明治十三年は「古い話」である。約三十年前の話。今だって、三十年前となれば、古い話であり、特に風俗は大きく変わってくる。が、昭和生まれの我々からすると、いずれも明治時代の話で、この間の三十年間の移り変わりはピンと来ない。しかし、今から三十年前より、それ以前の三十年間の方が激動の時代であったように、最近の三十年間よりよほど移り変わっているであろうことは理解できる。
 ところが、冒頭すぐに出てくる下宿屋での学生たちの生活は、“下宿屋”自体がなくなっている現代とはやや趣が異なるにしろ、基本的には今の学生とまったく変わらない、と読める。しかし翻るに、明治十三年といえば、十数年前まで“江戸時代”だったのだ。幕末にはもう、現代にひと繋がりの文化・風俗・思想が、町人たちの間にはすでにあったらしいのだが、それにしてもちょっと驚嘆する。明治維新からわずか十年で、最高学府では現代と変わらない(いやそれ以上の)学問が行われていて、これは江戸時代の寺子屋制度がものをいっているわけだが、日本の教育水準の高さがあらためて知れる。もちろん弊害がなかったわけではない。が、これが現代日本の原動力だろう。それがアジアで突出した国にさせた。いい悪いは別にして。優秀な民族だと言っているのではない。そういう性質なのだ。だから、そういう性質でない民族が真似してもダメなのだ。
 それはそうと、明治はすでに遠く、インターネットも携帯電話も考えられないわけだが、人々の生活はさほど変わっていない!

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2007年1月 4日 (木)

ちくま文庫『森鷗外全集4』

 森鷗外を実に久しぶりに読んだ。(それにしても忌ま忌ましいのは、ほとんどのパソコンの日本語環境では「鷗(U+9DD7)」の字が表示できず、「鴎(U+9D0E)」で代用しているが、いい加減に改善しろと言いたい)。
 年末に、一昨年の公開講座のテキストの残部ということで、ちくま文庫の「森鷗外全集4」『雁 阿部一族』を職場から貰い受けてきたのだった。“読書”というのは、そのきっかけが偶然である場合も、その時々で読むべくして読むものを自然に選択しているものだ。僕にとっての今それは「雁」のような気がした。他にも数冊貰ったのだが、クリスマス前に持ち帰り、そのままにしてあったのを新年二日に手に取ったのだ。冒頭の「雁」はあとでゆっくり読むことにして、今まで読んだことがなかった「ながし」「鎚一下」「天寵」「二人の友」「余興」の五編を読んだ。
 鷗外の神髄は、一にも二にも簡潔・明晰な文体にある。と思っていたのだが、これらの五編は必ずしもそうしたものではなかった。いずれもマイナーな短篇で、文壇の要請にしたがって書き流されたもののような感がある。今の感覚で読めば、言葉や言い回しはいかにも“明治”なのだが、当時の現代語の最先端で書かれた口語の作品で、たぶん当時の普通の知識人が“普通に”読みこなせたものであったろう。
 大正二年から四年までのほぼ同時期に、比較的楽に書き流されたものであろうと想像させるが、しかし、顕著なのは、いずれも“芸術家小説”であるということである。したがって、決して“書き流された”ものではないことがわかる。いずれも突き詰めれば“創作とは何か”ということにかかわってくる。そういう作品群で、それなりに面白く読んだ。
 さてやはりこの時期の問題作としては「雁」であろう。中学三年で初めて読み、大学時代に再読しているが、今また読んでみたら、どんな風に感じるか。何を感じるか。楽しみである。

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2007年1月 1日 (月)

高幡不動尊

Ts2a0388 初詣に行ってきました。数年前までは、世田谷の病院(or施設)に義母がいたので、六年間ずっと病院近くの松陰神社オンリーでした。ここ数年は毎年違う所に。昨年は杉並の大宮八幡宮、今年は東京日野市にある高幡不動尊へ。どこに行くか直前まで未定で、息子に東西南北どちらがいいと言うと、「西」というので決定。
 多摩地区の人間にはお馴染みの所で、僕などは小さい頃から何度も行ったことがありますが、初詣で行くのは実に久しぶり。ここはやっぱり“歳さん”でしょう。新撰組、鬼の副長・土方歳三の菩提寺。参拝、境内散策よりも、西山家の人々にとっては、「新撰組屯所」と称する新撰組グッツ売り場の方が面白かったようで。パソコンデスクのラックに掛けるのにちょうどよさそうだったので、僕は例の有名な土方歳三の肖像写真をプリントした状差しと、息子は刀を模したペーパーナイフ、向山葉子氏は「誠」のチェーン型ケータイストラップ、娘はガチャガチャで芹沢鴨のピンバッチを購入。何をしに行ったんだか……。
Ts2a0387   Ts2a0389


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謹賀新年

Nenga2007 あけまして
   おめでとうございます

 本年も「短説ブログ」を宜しくお願い申し上げます。
  
 さて、〈短説の会〉公式サイトの方は、今年前半には掲載作品が百作を越える予定です(芦原修二氏の作品を別枠として)。つまり、四年前、すだとしお同人が編纂した『短説・百葉』に続いて、WEB版の『百葉』が出来上がるという寸法です。その暁には、分かりやすく一覧にしますので、お楽しみに!

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