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2007年5月22日 (火)

短説:作品「栗の花」(岩谷政子)

   栗の花
 
            
岩谷 政子
 
 雨戸を一枚開けた途端、直子は一瞬息を止
め、不快な物でも追い払うように、鼻の先で
手首を小さくふった。
 近くに神社があり、大木が何本かある。ど
の木がこの匂いを発するのか、いや、神社だ
けではない。この時期、街を歩いていれば、
漂っている匂いがある。思わず赤面するよう
な、まともにかぐのがためらわれるような、
青くさい匂い。男女の営みの後の、男のあの
液体と同じ匂い。
「新緑、若葉、風薫る、萌えいずる」五月を
彩る言葉はいっぱいあるけど、直子は「五月
は男の匂い」と思う。
 木だって生きている、発情した雄木が雌木
を求めて匂いを発しても可笑しくはない。
 が、まさか木が動けるわけもないから、枝
を伸ばし、葉を重ね、こすり合わせ、ことを
済ませての匂いだろうか、朝から恥ずかしく
ないのかしら、こんな匂いをぶちまけて、そ
う思い、直子ははっとした。自分こそ朝から
何を想像しているのかしら、と一人で体を熱
くし、苦笑した。
 それと言うのも、二日前息子が家を出たか
らかしら、
「金がないから式は挙げないよ」
 と言って、布団とダンボール箱三つを車に
詰め込み、五つ年上の彼女のもとへ、行って
しまった。まるで旅行にでも行くように。
 あの息子が、よくぞ相手を見つけたものだ。
 来年の今頃は孫がいるかも知れない。いや
もしかして、あっさりと別れているかも知れ
ない。それでもいいさ、今新婚の楽しさを味
わえているだけでもいいさ、と思うと、直子
は漂っている匂いに愛しさを感じ、今度は胸
いっぱいに息を吸い込み、もう一枚雨戸を繰
った。


発表:平成17年(2005)7月東京座会/初出:「短説」2005年10月号/再録:「短説」2006年9/10月合併号〈年鑑特集号〉*2005年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2007.1.6〕
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コメント

「栗の花」。いい作品です。この作品が発表された
東京座会に居合わせたことを幸運に思います。
確か、オリジナルのタイトルは違っていたと思います。
「青春」か、そのような名前だったと覚えています。
出席者から、「タイトルが・・・」というアドバイスを
素直に聞いた、岩谷さんが直しました。
東京座会のメンバーは皆さんオトナなので、すぐに
栗の花の匂いの意味が判っていました。
人間の「愛」や「欲情」といった、日本人の苦手な
表現を赤裸々な言葉で、あえて語ることによって
開放された作風と、「雨戸を開ける」「心を開く」
そして「体を愛するものに開く」といったことが
率直に描かれ、タブーを打ち破っている作品です。
それでは、また。

投稿: 秋葉信雄 | 2007年5月25日 (金) 07:06

原題は「五月に…」というものでした。
月刊『短説』ではちょうど私の担当の時で、
巻頭作に推したのでした。
息子の恋人が「五つ年上の彼女」というのも
性的な匂いを濃厚にさせていますね。

投稿: 「短説ブログ」編集人 | 2007年5月27日 (日) 01:38

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