短説:作品「海」(西山正義)
海 西山 正義 おれは死にたいと思ったわけではない。し かしそれは明らかに死への誘惑だった。海を 見ていた。いや、海を見ている自分を見てい た。その海は、たとえば冬の日本海の荒海と いったものではなかった。 右手に江ノ島が見えていた。眼下には、砂 鉄を多く含んだ砂浜がなだらかに伸びていた。 初夏の湘南である。空はあくまでも晴れてい た。平日の午後。幼児を遊ばせている母親た ちのグループが一組いただけだった。サーフ ィンのメッカであるが、ビッグ・ウェーブに はほど遠く、波も穏やかだった。 おれは独りでいたのではなかった。勤務先 の大学が主催する、ある公開講座のフィール ドワークの付き添いでいたのだった。その講 座は、二人の教授が交互に全国の神社仏閣に ついて講義するというものだが、実地見学会 があるのが売りであった。受講生はほとんど が高齢者であるが、すでにみな顔見知りで、 暗い翳などどこにもなかった。 その浜は、新田義貞の鎌倉攻めで有名で、 つまり稲村ヶ崎なのだが、現在では鎌倉海浜 公園として整備されている。広場には逗子開 成高校ボート部遭難事件の慰霊碑があった。 おれが死に誘われたのは、しかしその時で はない。それから一年もして、その時の情景 を思い浮かべた時だった。海に向かって佇ん でいる自分。一行から離れ、一瞬独りになっ たのは、いい構図の写真を撮ろうとしたため で、特に意味のある行動ではなかった。 おれは浜辺に立っていただけだ。なのに、 その自分を後ろから見たおれは、にわかに死 の予感に包まれた。それは、十五のころ夢見 た、甘美な死といったものではなかった。か といって、恐れや戦きとしてのそれでもなか った。ただ、海が広がっているだけだった。 〔発表:平成19年(2007)6~7月ML座会/2007年9月号「短説」/WEB版初公開〕 Copyright (C) 2007 NISHIYAMA Masayoshi. All
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コメント
とっても、情景が目に浮かぶようで、引き込まれるように、
一気に拝見させていただきました。
なかなか上手に文章が書けないので
とても勉強になりました。
主人公のこの後が気になります…。
投稿: shedshed | 2007年12月 6日 (木) 14:08
レスがたいへん遅くなりましたが……。
お読みいただきありがとうございます。
そう仰っていただけたら本望です。
心象を書いているわけですが、外面はまったくのリアル、
見たままの風景をそのまま描写しています。
一種の“幻想”も、表面的には健全なリアリズムによって
保証されると考えています。
たぶん、その後は何事もないでしょう。
しかし、主人公の内面は、この前と後では確実に変わっている……。
またのお越しをお待ち申し上げております。
投稿: 「海」の作者 | 2008年1月 8日 (火) 23:50