短説:作品「引き舟」(芦原修二)
| 引き舟 芦原 修二 記憶の中では、ここに川が流れていて、秋 には鮭が背鰭波を幾重にも残しながらのぼっ ていた。 「まあ、こういうことは毎度のことだが……」 と、少しは今度の旅にもなれてきた。 口伝では、徳川家康が「きぬ川に布も晒す や秋の雲」と吟じたあたりのはずだが、いま にもひからびそうな細い排水堀が流れている だけである。それよりもむかしなら、このあ たりまで向こう岸の人の姿も見分けられない ほど流れの幅が広かったはずだが。 「やれやれ、川をのぼるつもりできたが、こ れでは〝田のぼりさん〟だ」 と、自分の姿を振り返って見ると、事実自 分は三艘の空舟を引っ張って、仕付け前の田 んぼの中で西に向かって立っていた。 「やいやい、そこ行く旅ンひと。荷物をひき ずりどこさ行く」 土手の上にいたこども達が、声をそろえて はやしかけてきた。 「秋なら、ここらさシャケとりよ、春ならの ぼりの小鮎とり」 と、返事をしたが、わたしがしてきたこと のあかしは三筋の舟の引きずり跡になって、 東の地平までつづいているだけだ。 わたしは、いったい何をしているのやら。 これでは、このあたりの人に迷惑作りをして いるようなものだろう。 「やれやれ、これでは干上がった海を渡るガ リバーだな」 と、沈黙していたら、土手の子供たちは、 わたしをからかうのをやめて、西に向かって 歩き出した。その向っていく方角に夕焼け空 が広がりだした。 ここらにあったはずの湖も干上がっていて、 夕焼け空の地平に黒富士が見えている。 〔発表:平成18年(2006)5月東京座会/2006年7月号「短説」/再録:「短説」2007年6月号〈年鑑特集号〉自選集/WEB版初公開〕 Copyright (C) 2006-2008 ASHIHARA Shuji. All
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