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2009年12月29日 (火)

「家庭をまもれ」

 先にも触れたとおり、飯島耕一の『萩原朔太郎』(昭和50年・角川書店刊)を読んでいる。象徴主義・象徴詩(特に日本の場合の)とはなんだったろうということに非常に示唆に富んだ章を読んだあとに、「谷崎・春夫・犀星」の章の冒頭に引用された室生犀星の「家庭」という詩を読んで、僕も萩原朔太郎同様に強い感銘を受けた。もちろん朔太郎の感銘と僕のそれとはおそらくベクトルが百八十度異なっているだろうが。
 昭和二年に刊行された『故郷圖繪集』の中の一篇。朔太郎は集中これ一篇に注目し、読後すぐに「室生犀星君の心境的推移について」を書いているとのこと。
 それから四年後に、朔太郎も同じ「家庭」という題の詩を発表しているが、これまた恐ろしいほどの真実をあらわしている。どちらも家庭というもののしがらみということに誠に恐ろしい真実を突きつけているが、親友同士でも犀星と朔太郎では真逆である。
 孫引きになるが、以下に引用したい(したいがために、一度切ったパソコンを夜中にもう一度つけたのだ)。

 家庭をまもれ
 悲しいが楽しんでゆけ
 それなりで凝固ってゆがんだら
 ゆがんだなりの美しい実にならう
 家庭をまもれ
 百年の後もみんな同じく諦め切れないことだらけだ
 悲しんでゐながらまもれ
 家庭を脱けるな
 ひからびた家庭にも返り花の時があらう
 どうぞこれだけはまもれ
 この苦しみを守つてしまつたら
 笑いごとだらけにならう
              -室生犀星「家庭」

 
 犀星は死後五十年経っていない。亡くなったのは僕が生まれるほぼ一年前。僕は犀星にはそれほど親近感を持っているわけではない。親近感という点では断然朔太郎だ。朔太郎は戦時中に亡くなっているので当然五十年以上経っている。だからここで引用(ではなく、転載しても)差し支えないのだがそれは省略する。
 詩でも小説でも犀星はむしろ晩年の方が好きである。『蜜のあはれ』 は、こんなものを書き得るのかという驚愕に値する小説で、それ一篇だけでも十分近代文学史上に残ってしかるべきである。しかし、そういうこととは関係なしに、この詩には参った。室生朝子さんはまさにこの家庭から出てきたのだなと思わせる人柄だ。もっとも萩原葉子さんにも逆の意味ではあるがそういうことを感じさせるものがあるが。
 詩とは何か。詩のスタイルとは。何だかんだ言っても、その主義主張を超えたところで、ものすごく月並みだが、魂をゆさぶられてしまった。

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