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2010年3月 9日 (火)

短説「ミルクココア」小滝英史

   ミルクココア

            
小滝 英史

 モコちゃん、そんなに笑ってはいけないよ。
あまり笑いすぎると泣いてるみたいだから。
僕の胸は苦しい。
「――そうよ。悲しすぎて泪も出なかったわ」
 モコちゃんの透き通った声。アパートの前
の空き地で野球をする子どもたちの歓声が連
れ去ってしまう。毎日がじりじりと暑かった。
冷蔵庫もない一間っきりのアパート。夕風に
やっと生き返るような生活。冷たいものは自
動販売器。でもあまり陽差しが強いと、外に
いくのがおそろしい。貧乏は恐ろしい。そん
なとき、モコちゃんはあまーいミルクココア
を作る。沸騰したては熱くて飲めないからと、
把手のついた鍋を、水を溜めたボールに浸け、
水道を細くして冷やすことにしたんだっけね。
僕は早く飲みたくて、台所へいってようすを
見る。そして冷め具合を見るんだけど、生ぬ
るい水道水じゃなかなか冷えない。それで、
つい蛇口をゆるめてしまう。すると、増した
水の浮力で小さな鍋は荒波の上の漂流ボート
のようにゆらゆらとなって、水道の水が鍋に
入ってしまう。するとモコちゃんは「駄目ね」
といいながら鍋の位置を戻す。が一度バラン
スを失った鍋はモコちゃんの手をすり抜け、
さらに傾いてボールの水が縁から入ってしま
う。こんなに水が入ったら、せっかくの甘い
ミルクココアも水っぽくて飲めやしない。そ
れじゃ、というので、床に置いて自然に冷め
るのを待つことにする。が、床に置いたとた
ん、僕の足が、赤い糸に絡みつかれたように
鍋の把手を蹴り、その弾みで回転した鍋を掴
もうとして伸ばしたモコちやんの手が、ズボ
ッとミルクココアの中に嵌まりこむ。そのま
ま鍋は倒れ、とうとうミルクココアは、全部
床の上にこぼれてしまった――。
 そしてモコちゃん、笑ったんだっけね。


〔発表:平成10年(1998)6月東京座会/初出:「短説」1998年8月号/再録:「短説」1999年5月号〈年鑑特集号〉*1998年の代表作選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.5.6〕
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