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2012年9月

2012年9月30日 (日)

タイムリーヒットを打った嵐の夜に

 縦書き文庫に最近(三日前に)アップされていたので、堀辰雄の「水族館」を久しぶりに読んだ。このぐらいの分量ならウェブで読んでも苦にならない。
 初出は、当時最先端の文芸書を盛んに出していた春陽堂から出た「モダン TOKIO 圓舞曲」と題された〈世界大都會尖端ジャズ文學〉シリーズの「1」。昭和5(1930)年5月8日刊。小川和佑先生がお生まれになった頃に出た本だが、タイトルが凄いですね。
 浅草「カジノ・フオリー」の踊り子は、今ならさしずめAKB48になっているような子たちだろうか?
 テレビもなかった時代、最先端の風俗も文学(特に小説)によって紹介されていたのだ。逆に言うと、小説や文学者には最先端風俗の伝達者的な役割もあったのだ。今はむしろ後追いになっていますが……。

 話は替わるが、今日、ソフトボールの地元秋季大会一回戦、今回は他チームとの合同チームを編成したため、途中出場の代打で出たのだが、センター前にタイムリーヒットを打った。高めのボール球を強引に持って行って、センター前に渋く落とした。9-0で勝った。
 台風が来ている。家内と娘はSMAPのコンサートで東京ドームに行っている。そんな夜。

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2012年9月27日 (木)

ボブ・ディランが新譜を!

何だか急に涼しくなってきた。
あまりにも苛烈な暑さが続いていたので、そう感じるだけなのかもしれないが。
実際にはもうだいぶ前から秋の気配はしていた。
暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものだ。

暑かったけれども、しかし、暑かったからこそ、
今年は、夏の終わりが名残惜しい。

ボブ・ディランの新譜が出た。
御歳71歳である。
日本版も昨日発売された。
ラジオで何曲か聞いたが、久しぶりに興奮した。凄いと思った。
最近では「ニューアルバム」をわくわくして買うことがなくなっていたが、
これは買いたいと思った。

ボブ・ディランの最初のレコードが出たのが1962年3月。
つまり今年はデビュー50周年というわけだ。半世紀!
ビーチ・ボーイズのファースト・アルバムが出たのもこの年の暮れ。
現役で50周年を迎えた。
そのボブ・ディランの新譜に、ジョン・レノンのことを歌った曲があるが、
(曲のさわりは聴いたが、詩の内容は不明)、
ビートルズも10月5日でレコード・デビューから丸50年。
来年はローリング・ストーンズが50年を迎える。

うーん、ということは、僕も50になるわけだが……。

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2012年9月20日 (木)

34年目の9月20日

今日は僕にとって、ある大切な記念日だった。
ということも、近年では特別に意識することもなくなっていたのだが……。

休みが急に入れ替わって、臨時の休みになったのだが、
朝方までは流動的で、結局、どっちつかずで、昼近くまで寝て、
そのあとも夕方までぐずぐずしてしまった。

手紙を書いた。
僕が「永遠の少女」と呼んでいる、現在92歳の詩人に。
昨日、突然、ハガキが届いたのだ。
9年半ぶりの音信!
びっくりした。嬉しかった。それ以上に、何んと言うのか……。

初めてお会いしてから25年が経っている。
いつも電話だった。ご本人から直接お便りをいただくのは初めてかも。
僕が24歳、30歳、37歳の時にお会いしている。

僕がかつて(平成15年に)ウェブ日記に書いて、
平成22年に加筆のうえホームページに転載してあった文章、
それが今頃になって目に留まったらしい。
有名人でもあるまいし、インターネット上に(それも本名で)
文章を公開していて何になるんだと思うが、時にはこういうこともある。

そんな34年目の僕の「創作記念日」

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2012年9月13日 (木)

ラジオ (「僕の原体験」2)

調べてみたら
(今は簡単に調べられますね)
ソニーのスカイセンサー5900が出たのは
1975年の10月とのこと
すなわち昭和50年だ
子供に言ったら
「昭和時代」と笑われるだろう

誰だったのかは覚えていないが
クラスの一人が発売すぐに手に入れたはずだ
ということは
季節は晩秋から冬
12月頃だったのかもしれない
もしかしたら
クリスマスのプレゼントで手に入れたのかも
そうだとすると
12月も暮れに近い
冬休みに入ってからか
小学生が夜に集まるなんて
やはり休み中のことかもしれない

僕のクーガ115は
ステンレスのヘアーラインを貼ったような
メタリック調のフロントパネルが特徴で
真ん中に16cmのダブルレンジスピーカーが
どーんと嵌まっている
ジャイロアンテナなんていう
回転式のアンテナが付いているのが
特徴の一つだった

この手の機種の中では
音がよかった
とはいっても
その外部入力にマイクロホンをぶち込み
時には二股ソケットを使い二本ぶち込み
ボーカル・アンプにしていたのは無茶な話だった
でも十分に使えた
そんな時代

中学三年から高校時代にやっていたバンド
その活動場所は自宅に限られていた
(スタジオミュージシャンを気取っていたのか?)
とにかくひたすら曲を作り
(コピーは一切せず
オリジナルしかやっていなかった)
ひたすら「アルバム」の“レコーディング”に
いそしんでいた
没頭していたと言った方がいいかもしれない

いや、その話は別にしよう
僕のクーガ115は
のちにボーカル用のスピーカーとして
大活躍することになるのだった

そう、この昭和50年の12月
僕は十二歳と八か月
そう、たぶん、この頃から
僕は(幸か不幸か)「目覚める」ことになる
音楽に「出会った」のもこの頃だ

その発端の一つがラジオだったといえる
(ほかに、天文学や鉄道なんていうのもあるけど)
国際的なニュースに耳を傾け
極東地区への布教を目的とした
キリスト教の宗教放送まで熱心に聴いていた

でもね、それにはね
わけがあるのですよ

僕は小学四年の終わりから
中学受験のための勉強を始め
当時は今以上に特殊な存在だった
「四谷大塚」なんていうところにも通っていた
最初は嬉々として
しかし、いよいよ受検が迫ったこの頃になって
僕は息切れがしていたのだ

試験前になると
関係のない本が読みたくなる式のあれだが
それだけでなく
おそらく、いわゆる第三次性徴の発現
とも関わっていたのだろう
四月生まれの僕は同級生の中では早熟で
この頃すでに声変りしていた

そこに
ラジオ(聴取に加えて、作る方も)
それに、天文学、鉄道
(それらの専門的な難しい雑誌を読むこと)
そして、音楽(洋楽)
さらには宗教に考古学

つまり「知」の世界に導かれたのだ
誰もが多かれ少なかれ経験があるだろう
最近では「中二病」なんて言葉もある
若気の至りのようなものだ
でも、僕は人並み以上に
その深いところで
本質的に影響されてしまったのだ
それは掛け替えのないものではあるけれど
ある意味では
それが不幸の始まりともいえる
生きづらさの……


※僕の作品ではないけど
向山葉子氏の短説に「ラジオ」という作品がある

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2012年9月11日 (火)

夜の散歩 (「僕の原体験」1)

夜の散歩に出たんだ
晩飯の腹ごなしにね

四十五年も住んでいる町さ
目新しいものなんて何もないのに
いちいち感傷的になってしまうんだ

十代のころも
街を彷徨っては
感傷的になっていたけど
四十九の今は
その質が違うんだ
決定的に違うんだ

猫がいたんで
誘われて
お山公園に入ったのさ
正式な名称があるわけじゃないんだが
むかしから「山公」って言われている
団地の中の小さな公園だ

久しぶりに来たら
新しい遊具が設置されていた
ここ十五年ぐらいの間に
何度か整備改修されているが
全体のイメージは四十年前とそう変わらない

真ん中に
コンクリートの小山があるのさ

小学六年生のころ
BCLが流行っていたんだ
今ではBCLって何だって言われそうだけど
Broadcasting Listening または Listener の略で
ラジオ放送(なかでも短波による海外放送)を聴取し
受信報告書を書いて(エアメールで送り)
いろんな放送局のベリカードを集める趣味さ

あとから思い返せば
海外のニュース(宗教や人種問題、紛争
東西冷戦だの緊張緩和だの)よくわからなくても
洋楽や英語に目覚めるきっかけになった
小学生にしては高級な趣味だったね

午後八時にはじまるBBCの日本語放送
これが電波状況によって
なかなかきれいに聴くことが出来なかったんだ
季節は忘れたが
同じクラスの仲間五六人で集まったのさ
その小山に

ソニーのスカイセンサー5800が憧れで
僕は対抗しあえて
“ナショナル” パナソニックのクーガ115
でも当時最新機種の5900を買ってもらった奴がいて
たぶんそれも持ち寄ったんではなかったか

午後八時
小学生が外に出るには遅い時間だ
ダイヤル(もちろんアナログだ)を合わせる
ビッグ・ベンの鐘の音が公園に響く
BBC放送の始まりの合図だ
そう、遥かロンドンからの音!
僕らは狂喜乱舞し
そう、本当に踊ったのさ
輪になって
その小山で

その小山は改修され
つまり上からコンクリートが塗られ
少し大きくなったような気がする
洗練されてしまってはいるが
基本は変わらない
それが今でもそこにある

ただそれだけのことなんだけど……

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2012年9月 6日 (木)

川端康成の「正月三ガ日」

 一昨日、久しぶりにこのブログを更新したのは、実は以下のメモを記しておきたかったからだった。

 今日(9月4日)のNHKニュース(WEB版)に、川端康成のノーベル賞選考にまつわる新資料発見の記事が出ていたが、それとは関係なく、実はこのところ川端康成を読んでいたのだ。
 息子が、野球部を引退したら、温泉に行きたいと言っていた。本当は志賀直哉の「城の崎にて」に行きたいと言っていたのだが、あまりにも遠く経費がかかるので、私が阻止し、行き先を伊豆にしたのだった。
 温泉といっても、文学に関わるところでなければいけない。伊豆の修善寺から湯ヶ島あたりなら、私も行けると思ったのだが、結局私一人は行けなかった。
 その伊豆行きについてもあらためて書きたいのだが、行けない分せめてもと思い、中公文庫の随筆集『伊豆の旅』を読んでいた。たぶん三度目、一部は四度目ぐらいの再読だ。
 初版本は昭和29年10月の発行(中央公論社刊)だが、文庫版には伊豆に取材した作品が増補されている。その一つ「正月三ガ日」を読んでいて、うーんなるほどと思った箇所があるので、メモしておこうと思い、実は今日久しぶりにブログの更新画面を開いたのだった。

 大晦日から正月三ガ日にかけて、二組の夫婦で伊豆の温泉場めぐりの旅行に出る。その第一日目の熱海でのこと。旦那の方は、中学から大学まで同窓の旧友同士だが、
(と、一昨日ここまで書いて挫折していた。以下そのまま続ける)、
細君の方は格別の交際はなく、「お久し振りという挨拶が初対面の挨拶と余り変わらなかった程の間柄」である。
 ところが、「寝床へ入ってから、両方の細君が変に調子づいて、おしゃべりにとめどがなく」ということになる。

……世帯持ちの女同士の話は実に無尽蔵である。亭主も時々口を出したが、直ぐに置き去りにされてしまう。細君と細君との話を聞いていると、男は話の種になることが多い暮らしをしているようで、実はしっかり根の生えた話の種になることはさっぱりなく、女は話の種になることが少ないような暮らしでいて、日常のなにもかもがちゃんと根をおろした話の種になることばかりらしい。
 二十年来の友人の亭主共よりも、今日初対面のような細君達の方が、お互いの生活に入り込んだ話が出来るらしい。

 見事な観察である。実感がこもっているから、似たような経験をしたことがあるのだろう。
 初出は「中央公論」の昭和15年1月号。川端康成にしてはやや通俗的な作品である。いや、川端康成は十分読者を意識してそれに合わせたものや、ジャーナリズムの要請に従ったものもちゃんと書いている。この短篇は、新年号向けの読者サービス的なところもあり、伊豆の温泉案内にもなっているのだが、やや通俗的なそこが却って活きていて、今もってまったく古びていない。
 この二組の夫婦の機微。それぞれの心理。まったくうまく書けている。この後も旅は続き、二組の夫婦それぞれの夫、妻の心の機微がおもしろい。そして最後はきれいに終わる。それが良い。
 それにしても、これは戦争が(本格的に)始まる二年近く前の風俗なのだ。

 全然話は変わるが、私が所属するソフトボールチームに、この夏、日本の大学院(しかも私の母校の大学院)に通って川端康成を研究するアメリカ人の青年が入部してきた。アメリカ人だからといって、野球がうまいわけではないのだが、今でも川端康成を研究しようとする外国人がいるのだなと思った次第である。

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2012年9月 4日 (火)

逝く夏に

 だいぶ休んでしまった。
 最近では一週間近くパソコンを開かないこともある。一時はネット依存症ではないかと思われるほどだったので、それはそれでいいのかもしれないが、単に億劫になっているだけなのだ。
 仕事で疲れているせいもあるが、何よりも、気持が“行かない”のだ。

 5月19日に短説「“最後の”運動会」を書いてからの、ちょうど三ヶ月後の8月19日までは、息子の高校野球一色だった。
 妻と二人、本人以上に騒いでしまった。息子の学校(私の母校でもある)が甲子園に行ったわけではない(が、神宮には行った!)、ロンドン・オリンピックと甲子園の夏だった。
 そのことについてちゃんと書いておきたいと思っていた。でもそれは、私なら、やはり短説にすべきだろう。娘のフランス行きその後についてもしかり。

 しかし、時の経つのが早い。早すぎる。
 いまだ猛暑が続いているが、真夏とは異なる秋の匂いがしてきている。その匂いを嗅ぐだけで、鼻にツーンときてしまう。夏の終わりがこんなに淋しく感じられるのも、年を取ったせいだろうか。

 自分がブログやホームページの更新を怠っているのに言えた筋合いではないが、知り合いのブログや日記が更新されているのは楽しみであり、励みでもあり、一種の安否確認ではないが、同じ時間を共有して生きているという、その形に残る証明であり、現代ならではであるが貴重なものに感じる。

 この夏(たぶん8月の中旬から下旬にかけて)、日向みなみさんの「短説の世界」のページが消滅してしまった。意図的に削除したのか、何らかの事情によってプロバイダとの契約を解除したためなのかは分からないが、残念である。
 短説の会も機関誌がなくなり、会としては実質的に崩壊し、最寄りの座会も開かれず、もはや短説も書いていなく、ホームページを更新することもなくても、個人作品集のアーカイブとして残しておいてほしかった。かつてのkontaさんにしても、綾部さんにしても。

 しかし、それにも“熱情”というものが必要で、かつて短説の会を取り巻いていた“熱情”を、今懐かしんで、もう一度と思っても、もはや気持が“行かない”のは、結局私もそうなのだ。

 でも、私には、声がまだ聞こえる。かすかではあるが。それは古い友人からのコールだったり、やっぱり文学っていいなという思いだったりするのだが。
 ブログでも、日記でも、雑記でもいい。やはり書いておこう。
 流れ去る時に、少しでも楔を打たねばいけない。

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