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2021年7月

2021年7月28日 (水)

ソフトボール日本女子金メダル・13年越しの2連覇万歳!

 きのうは東京五輪・ソフトボール日本女子の優勝に大興奮でした。一夜明けたきょうも、まだ興奮冷めやらずという感じです。
 きょうは休みをとっていました。というのは、きのうの決勝戦のチケットが取れていたからです。そうです、本来なら横浜スタジアムで歓喜の瞬間に生で立ち会えたはずだったのです。なかなか取れないといわれた五輪チケットの抽選に当たって、お金を振り込んだのは2年前です。
 決勝は、アメリカでの放映時間に合わせて夜の8時プレイボールという、日本の常識では遅い時間。野球より試合が早く終わるソフトボールでも、決勝なのでそのあとの表彰式を含めれば11時頃になり、スタジアムからの退場や横浜から帰ってくることを考え、翌日も休みをとっていたのです。それが、無観客に……。
 北京五輪での、あの「上野の413球」から13年。オリンピック開会式に先立ち、日本勢の先陣を切って始まったソフトボール。7月21日からの「オープニングラウンド」(予選リーグ)5試合と、きのうの「ゴールドメダルマッチ」(決勝)の計6試合、この快挙までの各試合、ポイントがいくつもあり、いいプレイの連発で、控えを含めてみなが活躍しました。
 レベルは違いますが(そりゃあまあ、当然のことながら)、僕もソフトボールをもう20年以上やっていて、一般社会人の都大会出場の常連になり、僕がプレイヤーとして活躍したわけではありませんが、東京一にも三度なっているチームに所属している身としては、各試合のビッグ・プレイを一つひとつ挙げたい気もありますが、それは各メディアの報道に譲ります。
 
ソフトボールだけでなく、今回のこの「東京」オリンピックでの日本勢の活躍は目覚ましいものがありますね。いや、思うような結果が出せなかった選手もいるでしょうが、とにもかくにも、この未曽有のコロナ禍の中、オリンピックが開催されて良かったと思います。賛否ありましょうが、このような素晴らしい選手たちの姿を観ることができ、本当に開催されて良かったと思います。

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2021年7月 9日 (金)

温泉薬師瑠璃殿の芭蕉句碑と花柳章太郎供養碑

◆北向観音の芭蕉句碑
 北原白秋「春風の駒」歌碑の左となりに、芭蕉句碑があります。
 松尾芭蕉は日本のあちこちを旅し、その句碑は全国至る所にありますが、この句碑に刻まれた句をこちらで詠んだということではないようです。
(参照:同じ信州の「旧軽井沢の芭蕉句碑」/「追分宿浅間神社の芭蕉句碑」)

 この碑は、安永3年(1774)に建立されたもので、揮毫は門人四千人といわれる加舎白雄(かや・しらお/元文3年1738-寛政3年1791)
 俳人・加舎白雄は、地元・信濃国上田藩の江戸詰め藩士加舎忠兵衛吉亨の次男で、江戸深川の生まれ。天明8年(1788)に芭蕉百回忌句会を催しています。

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観音の いらか見やりつ はなの雲

 この句は、芭蕉43歳の貞亨3年(1686)、江戸深川の草庵で寝ころびながら詠まれたとも、病に伏せて床の中で詠んだ句とも伝えられています。したがって、「観音のいらか」とは本来は北向観音のことではなく、浅草観音(浅草寺)の大屋根(現在はチタン製の瓦)のことです。「はなの雲」はその高く聳えるいらかと競うように空に広がる満開の桜を現わしているのでしょう。
 芭蕉の『更科紀行』はその翌々年の貞亨5年からで、8月に善光寺からの帰途、坂本宿から追分宿に至る間に、上田宿も通過しています。だからまるで縁がないというわけではありません。

◆花柳章太郎供養碑
 白秋歌碑の右手奥、瑠璃殿向かって右側に、斜に構えるような感じで花柳章太郎氏の供養碑が建っています。花柳章太郎といわれても、私などは名前しか知りませんが、戦前から戦後、昭和40年に急死するまで活躍した新派を代表する女形です。「賞太郎」といわれるほどたくさんの賞を受賞した人間国宝。
 以前の案内板の写真を見たら、
「当山に健康祈願し
舞台に専念出来た」

 とありました。役者にとっては職業病である白粉中毒に悩まされていたそうです。なにしろ美貌が売りでしたので。別所温泉の温泉薬師に祈願し、湯治したわけですね。

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北向にかんのん在す 志ぐれかな 

 俳句もよくし、女形の肖像レリーフの脇に、こんな句も添えられています。これも白秋歌碑と同じ昭和37年の建立で、発起人代表のひとりに川口松太郎の名が刻まれています。
 北向観音ゆかりの『愛染カツラ』の作者である川口松太郎とは親しい交流があり、急死する二日前に出ていた舞台の夜の部(つまり最期の舞台)は、川口松太郎作の『寒菊寒牡丹』でした。今際の際まで舞台のことを案じていたということです。

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2021年7月 4日 (日)

北向観音の温泉薬師瑠璃殿と北原白秋歌碑

 信州上田の別所温泉紀行(平成30年4月11日)のつづきです。

 北向観音の本堂から愛染カツラの木を背に少し西側へ行くと、けっこう切り立った崖を背に温泉薬師を祀った瑠璃殿があります。
天台宗別格本山 北向観音・常楽寺』の公式サイトによると、
「寛保二年(1741)湯川の氾濫によって薬師堂は流され、寛保四年から湯本講中で再建を計画したようです。そして今の建物は文化六年(1809)に湯本講中の積立金により再建されました。」
 ということですが、ご覧の通り、崖に張り出して造られた懸造(かけづくり)の建築が素晴らしいです。その瑠璃殿の足元に石碑がたくさん建っています。ここ北向観音には古くから多くの文人墨客が訪れていた証左といえますね。

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 そのなかでも真ん中にでーんと建っているのが北原白秋の歌碑です。
 白秋長男の北原隆太郎氏作成の年譜(『日本の詩歌 9 北原白秋』昭和43年2月・中央公論社刊)によると、「大正十二年 一九二三年 三十九歳
この年、信州大屋の農民美術研究所開所式後、妻子と別所温泉、碓氷嶺に遊び、
……」とあります。
 この時の妻は、かの元人妻・松下俊子でも、二番目の詩人・江口章子(あやこ)でもなく、三番目の妻・佐藤菊子です。長男隆太郎氏が満一歳を過ぎたころのこと。

観音の この大前に 奉る 絵馬は信濃の 春風の駒

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 この歌は、白秋没後の昭和24年6月に刊行された歌集『海阪(うなさか)』に収められています。歌集『海阪』は、白秋亡きあと木俣修氏が編集したものですが、作品の制作年代的には白秋の第五歌集という位置づけがなされています。大正12年3月から昭和2年6月までに発表された作品のうち、旅の歌を集成したもの。版元は実弟・北原鉄雄が経営するアルス。
「七久里の蕗」の項に、
「四月中旬、妻子を率て、信州別所温泉、古名七久里の湯に遊ぶ。滞在数日。宿所たる柏屋本店は北向観音堂に隣接す。楼上より築地見え、境内見ゆ。遠くまた一望の平野みゆ。幽寂にしてよし。」
 とあります。現在、歌集『海阪』は青空文庫で全編読めます。この「滞在数日」のうちに、「北向観世音の絵馬を観て詠める歌七十五首」をはじめ、『海阪』に収録されているものだけでも(私の数え間違えでなければ)161首も詠んでいるのでした。

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