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2021年7月 9日 (金)

温泉薬師瑠璃殿の芭蕉句碑と花柳章太郎供養碑

◆北向観音の芭蕉句碑
 北原白秋「春風の駒」歌碑の左となりに、芭蕉句碑があります。
 松尾芭蕉は日本のあちこちを旅し、その句碑は全国至る所にありますが、この句碑に刻まれた句をこちらで詠んだということではないようです。
(参照:同じ信州の「旧軽井沢の芭蕉句碑」/「追分宿浅間神社の芭蕉句碑」)

 この碑は、安永3年(1774)に建立されたもので、揮毫は門人四千人といわれる加舎白雄(かや・しらお/元文3年1738-寛政3年1791)
 俳人・加舎白雄は、地元・信濃国上田藩の江戸詰め藩士加舎忠兵衛吉亨の次男で、江戸深川の生まれ。天明8年(1788)に芭蕉百回忌句会を催しています。

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観音の いらか見やりつ はなの雲

 この句は、芭蕉43歳の貞亨3年(1686)、江戸深川の草庵で寝ころびながら詠まれたとも、病に伏せて床の中で詠んだ句とも伝えられています。したがって、「観音のいらか」とは本来は北向観音のことではなく、浅草観音(浅草寺)の大屋根(現在はチタン製の瓦)のことです。「はなの雲」はその高く聳えるいらかと競うように空に広がる満開の桜を現わしているのでしょう。
 芭蕉の『更科紀行』はその翌々年の貞亨5年からで、8月に善光寺からの帰途、坂本宿から追分宿に至る間に、上田宿も通過しています。だからまるで縁がないというわけではありません。

◆花柳章太郎供養碑
 白秋歌碑の右手奥、瑠璃殿向かって右側に、斜に構えるような感じで花柳章太郎氏の供養碑が建っています。花柳章太郎といわれても、私などは名前しか知りませんが、戦前から戦後、昭和40年に急死するまで活躍した新派を代表する女形です。「賞太郎」といわれるほどたくさんの賞を受賞した人間国宝。
 以前の案内板の写真を見たら、
「当山に健康祈願し
舞台に専念出来た」

 とありました。役者にとっては職業病である白粉中毒に悩まされていたそうです。なにしろ美貌が売りでしたので。別所温泉の温泉薬師に祈願し、湯治したわけですね。

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北向にかんのん在す 志ぐれかな 

 俳句もよくし、女形の肖像レリーフの脇に、こんな句も添えられています。これも白秋歌碑と同じ昭和37年の建立で、発起人代表のひとりに川口松太郎の名が刻まれています。
 北向観音ゆかりの『愛染カツラ』の作者である川口松太郎とは親しい交流があり、急死する二日前に出ていた舞台の夜の部(つまり最期の舞台)は、川口松太郎作の『寒菊寒牡丹』でした。今際の際まで舞台のことを案じていたということです。

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