2007年3月14日 (水)

あの絶叫ヴォーカルが……

 今、ネットのニュースを見ていたら、元モップスの鈴木ヒロミツさんがお亡くなりになった由。びっくりした。本日午前10時2分、肝細胞がんのため死去、享年60歳とのこと。ショックだ。
 僕は「ザ・モップス」が大好きなのだ。パソコンにも取り込んで、いつでも聴けるようにしている。今も追悼に名曲「朝まで待てない」~「あの娘のレター」「ベラよ急げ」「朝日よさらば」「消えない想い」をかけながらこれを書いている。
 いわゆる“グループサウンズ”の一バンドとして1967年にデビュー。GSは、リバプールサウンズ系、ベンチャーズやビーチボーイズ系、カレッジフォーク系に分かれるが、モップスはウッドストックに象徴されるヒッピー・ムーブメントに影響されて出てきた。あるいはそういう路線を売り込み戦略としていた。GSとしてはインテリ揃いで、音の傾向は異なるが、のちのはっぴえんどや頭脳警察など、本格的なロックへの移行を孕んでいた。
 1968年4月に発売されたファーストアルバム「サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン」は、現在でも海外の“ガレージ・パンク”ファンの間では最高傑作と讃えられている。ジェファーソン・エアプレインのカバー「あなただけを(Somebody To Love)」は、オリジナルも素晴らしいのだが、鈴木ヒロミツのヴォーカルはそれをも凌ぐほどである。それと星勝のファズ・ギター。最高にカッコいいのだ。バンド解散後、鈴木ヒロミツはコメディアンに近い俳優・司会業に転身してしまったが、あのヴォーカルは日本のロック史上に残るものでしょう。
 ともかく、ご冥福をお祈り申し上げます。最近、この台詞が多くて……。

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2005年4月22日 (金)

短説「雨と寝る桜」(成田弥宇さん追悼)推敲作

  雨と寝る桜
 
            西山 正義
 
 あの日もこんな雨の日だった。
 今日四月十二日は、LIBIDOの成田弥
宇さんの命日。十六回忌である。LIBID
Oとは、一九八〇年代のインディーズ黎明期
において、一際異彩を放っていた伝説のロッ
クバンド。成田さんはそのリーダーで、作詞
作曲・ボーカル・ベースを担当。
 そのボーカルは一見金属的であるが、生な
肉声そのものだった。ベースは滑らかにうね
り、変則リズムを支えた。視覚的には、黒づ
くめの出で立ちに、白塗りの顔。そのライブ
は見る者、聞く者をゾクむぞッとさせた。
 詩人とロックンローラーは三十までに死な
なくてはならない。成田さんの場合、病死で
あるが、まさかそれを地で行くとは。
 はじめて会ったのは、僕が二十歳、成田さ
んが二十三。当時僕はある先輩の舎弟のよう
になっていたのだが、その先輩が成田さんと
幼馴染みだった。僕がロック少年であったの
で引き合わせてくれたのだ。
 ライブは欠かさず行った。内輪の打ち上げ
にも参加した。朝まで飲んだ。みんなへべれ
けになり、下戸の僕が機材を積んだバンドの
車を運転して帰ったこともある。
 最後に会ったのは、亡くなる五か月前。小
田原の病院に見舞いに行った。癌であった。
三十歳の誕生日を一ト月後に控え、その歌詞
「ぼくはこの道を あまりに急ぎすぎたか」
の通り、夭逝してしまった。
 実家はお寺さんで、住職を継いでいた。そ
の通夜の日、今日と同じような春の雨が降っ
ていた。境内に桜の大木があった。花はなか
ば散らずに残っていた。それが雨に濡れそぼ
っていた。夜の桜。桜に雨。「雨と寝る桜」
−というフレーズが僕に浮かんだ。「死んで
生まれた」と、成田さんも歌っていた。

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2005年4月12日 (火)

雨と寝る桜(成田弥宇さん追悼)

  雨と寝る桜
 
            西山 正義
 
 あの日もこんな雨の日だった。
 今日四月十二日は、LIBIDOの成田弥
宇さんの命日。十六回忌。LIBIDO(リ
ビドー)とは、一九八〇年代のインディーズ
・シーンにあって、独特な光芒を放ち、一種
カリスマ的存在でもあった伝説のロックバン
ド。成田さんはそのリーダーで、作詞作曲・
ボーカル・ベースを担当。暗黒舞踏を思わせ
る、黒づくめの出で立ちに、白塗りの顔。そ
のライブは見るものをゾクむぞッとさせた。
 詩人とロックンローラーは三十までに死な
なくてはならない。成田さんの場合、病死で
あるが、まさかそれを地で行くとは。
 はじめて会ったのは、僕が二十歳、成田さ
んが二十三。当時僕はある先輩の舎弟のよう
になっていたのだが、その先輩が成田さんと
幼馴染みだった。僕がロック少年であったの
で引き合わせてくれたのだ。最初からぶっ飛
んでしまった。
 ライブは欠かさず行った。内輪の打ち上げ
にも参加した。朝まで飲んだ。みんなへべれ
けになり、下戸の僕が機材を積んだバンドの
車を運転して帰ったこともある。
 最後に会ったのは、亡くなる五か月前。小
田原の病院に見舞いに行った。癌であった。
壮絶な闘病だったという。若かったので進行
が速かった。三十歳の誕生日を一ト月後に控
え、その歌詞「ぼくはこの道を あまりに急
ぎすぎたか」の通りに、夭逝してしまった。
 実家はお寺さんで、住職を継いでいた。御
通夜は、今日と同じような春の雨が降ってい
た。境内に桜の大木があった。花はなかば散
らずに残っていた。それが雨に濡れそぼって
いた。夜と雨と桜。「雨と寝る桜」−という
イメージが僕に浮かんだ。以来、このフレー
ズが僕の頭から離れなくなった。

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