音楽

2014年4月12日 (土)

“低く飛んでゆく”

 今日は、伝説のロック・バンド「LIBIDO」のリーダー・成田弥宇さんの命日です。私より三つ年上でしたが、三十歳になる前に逝ってしまいました。
 あれからもう二十四年! いったい私は何をしてきたというのか。ということを、この日を迎えると、いつも思ってしまいます。

ぼくは   留まり
あなたは 旅立つ
すべての 答えは
再び会う その時に
     ――LIBIDO『「こんなにも自由だ」とあなたは……』(1987)

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2013年11月22日 (金)

Paul McCartney ~OUT THERE~ 2013

 そりゃあもう、これはまさに一夜の、本当に最高の夢でした。リアル・エクセレント・ドリーム!
 たかが一夜、三時間、されどそこに、11年分の夢が詰まっていました。いや、ビートルズとして初来日して以来、47年分の夢が!

 昨日、11月21日木曜日、東京ドームに、ポール・マッカートニーの~OUT THERE~2013 ジャパン・ツアーの千秋楽に行ってきました。
 前回行ったのは平成14年11月14日だから、まる11年ぶり。その時も東京の楽日でしたが、前回はそのあと大阪公演があった。今回は逆に、大阪、福岡と来て、最後が東京。その年、ポールは満60歳、日本風に言えば還暦を過ぎていた。当時のウェブ日記に「日本ではこれが見納めになるかもしれない」などと書いたが、なんのその、御歳、71歳ですぜ!
 とにかく驚異的だ。感動の桁が違う。
 直前に出たニュー・アルバムも、とても71歳の(日本人なら)“お爺さん”が叩き出すサウンド、歌声とは思えない。これも日本風に言えば、ポールは昭和17年生まれの“戦中派”ですからね。ビートルズ・ファンの贔屓目を抜きに、2013年の“現代”に聴けるものに仕上がっている。71歳にして「NEW」ですぜ!

Sn3n0282 さて、ライブ会場へ。仕事なんかやってられないさ。早めに行ったさ。神保町から古本屋をなめながら水道橋まで歩いたさ。思えば、夫婦でこんな風に街を歩くのは久しぶりかもしれません。途中、腹ごしらえをして、まずはグッズ売り場の長い列に。前日は寒かったが、昨日は穏やかな天気だったこともあり、全然苦になりませんね。
 入場から席に着くまで結構時間がかかると言われていましたが、それほどでもありませんでした。席は一階とはいえ、三塁側の一番奥、まさかの最後列でしたが、うしろは一段高くなった車イス用の席だったので、気兼ねなく、位置としても比較的見やすい席でした。グッズ売り場で時間を食ってしまったので、そんなに待つこともなく、というより、始まるまでの間も、楽しいものでした。

 ついに、ポール登場。例のヘフナーの“ヴィオリン”ベースを高々と持ち上げたポールが登場。もうそれだけで感動ものです。
 1曲目は“Eight Days a Week”。最近はネットでセットリストなんかも知れ渡っていますが、この曲を1曲目に持ってくるのは意外な感じがします。1964年当時はまだジョンとポールがクレジット通り共同で曲作りをしていたのでしょうが、この曲はジョンのリード・ヴォーカル曲で、つまりジョンの曲という印象がありますから。でもだから、なおさら、ぐっと来ちゃうんですね。それをポールが歌うんですから。
 2曲目は早くもニュー・アルバム冒頭の“Save Us”。最近では、直前のワールド・ツアーの模様なんかもすぐにYouTubeにアップされちゃったりしますが、やはり生の音は格別なのでした。
 3曲目、“All My Loving”。もう会場中大合唱ですさ。偶然でしょうか、11年前も3曲目はこの曲でした。
 4曲目は“Listen to What the Man Said”。19日は“Jet”だったそうですが、この日は18日同様この曲に。個人的には、ヒットしているのをリアルタイムで聴いた最初の曲なので、懐かしいという点では一番懐かしい曲です。
 5曲目はレスポールに持ち替えて、“Let Me Roll It”。ハムバッキングのエレクトリック・ギターの音が心地よい。
 そして6曲目は、1966年のビートルズ来日でもやった当時最新曲だった“Paperback Writer”。それを、ポールがあのエピフォン・カジノで演奏。あのギターはジョン・ポール・ジョージ三人が持っていて、ビートルズ・サウンドを象徴する楽器の一つですが、最初に導入したのはポール。この曲ではポールの早弾きのハイトーン・ベースも聴きたいですが、1966年の来日公演に行った人には涙もんの光景ですね。

(と、1曲ずつ書いていたら大変なことになってしまいます。この稿、続くかもしれませんが、ひとまず今日はここまで)

 とにかく今回は、大スクリーンや照明以外には特別な演出はなく(唯一“Live and Let Die”の花火はありますが)、ひたすら演奏。日本語を交えたトークも最小限で、本編終了までまったく休みなく、曲と曲のあいだに一息つくとかもなく、水すら飲まなかった(ように思います)、楽器を取っ替えひっかえ、ひたすら歌と演奏。凄いの一言に尽きます。
 肉眼では米粒のようでも、動いているビートルを生で見られるなんて、本当に夢のようでした。
Sn3n0289

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2012年9月27日 (木)

ボブ・ディランが新譜を!

何だか急に涼しくなってきた。
あまりにも苛烈な暑さが続いていたので、そう感じるだけなのかもしれないが。
実際にはもうだいぶ前から秋の気配はしていた。
暑さ寒さも彼岸まで、とはよく言ったものだ。

暑かったけれども、しかし、暑かったからこそ、
今年は、夏の終わりが名残惜しい。

ボブ・ディランの新譜が出た。
御歳71歳である。
日本版も昨日発売された。
ラジオで何曲か聞いたが、久しぶりに興奮した。凄いと思った。
最近では「ニューアルバム」をわくわくして買うことがなくなっていたが、
これは買いたいと思った。

ボブ・ディランの最初のレコードが出たのが1962年3月。
つまり今年はデビュー50周年というわけだ。半世紀!
ビーチ・ボーイズのファースト・アルバムが出たのもこの年の暮れ。
現役で50周年を迎えた。
そのボブ・ディランの新譜に、ジョン・レノンのことを歌った曲があるが、
(曲のさわりは聴いたが、詩の内容は不明)、
ビートルズも10月5日でレコード・デビューから丸50年。
来年はローリング・ストーンズが50年を迎える。

うーん、ということは、僕も50になるわけだが……。

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2007年3月14日 (水)

あの絶叫ヴォーカルが……

 今、ネットのニュースを見ていたら、元モップスの鈴木ヒロミツさんがお亡くなりになった由。びっくりした。本日午前10時2分、肝細胞がんのため死去、享年60歳とのこと。ショックだ。
 僕は「ザ・モップス」が大好きなのだ。パソコンにも取り込んで、いつでも聴けるようにしている。今も追悼に名曲「朝まで待てない」~「あの娘のレター」「ベラよ急げ」「朝日よさらば」「消えない想い」をかけながらこれを書いている。
 いわゆる“グループサウンズ”の一バンドとして1967年にデビュー。GSは、リバプールサウンズ系、ベンチャーズやビーチボーイズ系、カレッジフォーク系に分かれるが、モップスはウッドストックに象徴されるヒッピー・ムーブメントに影響されて出てきた。あるいはそういう路線を売り込み戦略としていた。GSとしてはインテリ揃いで、音の傾向は異なるが、のちのはっぴえんどや頭脳警察など、本格的なロックへの移行を孕んでいた。
 1968年4月に発売されたファーストアルバム「サイケデリック・サウンド・イン・ジャパン」は、現在でも海外の“ガレージ・パンク”ファンの間では最高傑作と讃えられている。ジェファーソン・エアプレインのカバー「あなただけを(Somebody To Love)」は、オリジナルも素晴らしいのだが、鈴木ヒロミツのヴォーカルはそれをも凌ぐほどである。それと星勝のファズ・ギター。最高にカッコいいのだ。バンド解散後、鈴木ヒロミツはコメディアンに近い俳優・司会業に転身してしまったが、あのヴォーカルは日本のロック史上に残るものでしょう。
 ともかく、ご冥福をお祈り申し上げます。最近、この台詞が多くて……。

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2005年4月22日 (金)

短説「雨と寝る桜」(成田弥宇さん追悼)推敲作

   雨と寝る桜
 
            
西山 正義
 
 あの日もこんな雨の日だった。
 今日四月十二日は、LIBIDOの成田弥
宇さんの命日。十六回忌である。LIBID
Oとは、一九八〇年代のインディーズ黎明期
において、一際異彩を放っていた伝説のロッ
クバンド。成田さんはそのリーダーで、作詞
作曲・ボーカル・ベースを担当。
 そのボーカルは一見金属的であるが、生な
肉声そのものだった。ベースは滑らかにうね
り、変則リズムを支えた。視覚的には、黒づ
くめの出で立ちに、白塗りの顔。そのライブ
は見る者、聞く者をゾクむぞッとさせた。
 詩人とロックンローラーは三十までに死な
なくてはならない。成田さんの場合、病死で
あるが、まさかそれを地で行くとは。
 はじめて会ったのは、僕が二十歳、成田さ
んが二十三。当時僕はある先輩の舎弟のよう
になっていたのだが、その先輩が成田さんと
幼馴染みだった。僕がロック少年であったの
で引き合わせてくれたのだ。
 ライブは欠かさず行った。内輪の打ち上げ
にも参加した。朝まで飲んだ。みんなへべれ
けになり、下戸の僕が機材を積んだバンドの
車を運転して帰ったこともある。
 最後に会ったのは、亡くなる五か月前。小
田原の病院に見舞いに行った。癌であった。
三十歳の誕生日を一ト月後に控え、その歌詞
「ぼくはこの道を あまりに急ぎすぎたか」
の通り、夭逝してしまった。
 実家はお寺さんで、住職を継いでいた。そ
の通夜の日、今日と同じような春の雨が降っ
ていた。境内に桜の大木があった。花はなか
ば散らずに残っていた。それが雨に濡れそぼ
っていた。夜の桜。桜に雨。「雨と寝る桜」
−というフレーズが僕に浮かんだ。「死んで
生まれた」と、成田さんも歌っていた。

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2005年4月12日 (火)

雨と寝る桜(成田弥宇さん追悼)

  雨と寝る桜
 
            西山 正義
 
 あの日もこんな雨の日だった。
 今日四月十二日は、LIBIDOの成田弥
宇さんの命日。十六回忌。LIBIDO(リ
ビドー)とは、一九八〇年代のインディーズ
・シーンにあって、独特な光芒を放ち、一種
カリスマ的存在でもあった伝説のロックバン
ド。成田さんはそのリーダーで、作詞作曲・
ボーカル・ベースを担当。暗黒舞踏を思わせ
る、黒づくめの出で立ちに、白塗りの顔。そ
のライブは見るものをゾクむぞッとさせた。
 詩人とロックンローラーは三十までに死な
なくてはならない。成田さんの場合、病死で
あるが、まさかそれを地で行くとは。
 はじめて会ったのは、僕が二十歳、成田さ
んが二十三。当時僕はある先輩の舎弟のよう
になっていたのだが、その先輩が成田さんと
幼馴染みだった。僕がロック少年であったの
で引き合わせてくれたのだ。最初からぶっ飛
んでしまった。
 ライブは欠かさず行った。内輪の打ち上げ
にも参加した。朝まで飲んだ。みんなへべれ
けになり、下戸の僕が機材を積んだバンドの
車を運転して帰ったこともある。
 最後に会ったのは、亡くなる五か月前。小
田原の病院に見舞いに行った。癌であった。
壮絶な闘病だったという。若かったので進行
が速かった。三十歳の誕生日を一ト月後に控
え、その歌詞「ぼくはこの道を あまりに急
ぎすぎたか」の通りに、夭逝してしまった。
 実家はお寺さんで、住職を継いでいた。御
通夜は、今日と同じような春の雨が降ってい
た。境内に桜の大木があった。花はなかば散
らずに残っていた。それが雨に濡れそぼって
いた。夜と雨と桜。「雨と寝る桜」−という
イメージが僕に浮かんだ。以来、このフレー
ズが僕の頭から離れなくなった。

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