2011年12月12日 (月)
木枯らしの街
・
井上 たかし
・
鏡の前に立ったN博士は、自分の姿が写っ
ていないことを確かめ満足気に大きく頷いた。
手を伸ばし実験台の上にあるビーカーを取
り上げる。と、どうだろう、ビーカーが空中
に浮いたまま静止しているではないか。
次の瞬間ポトリポトン、床に広がる黒いシ
ミ、博士の目からあふれた嬉し涙である。
(ああ、やっと成功した)寝食を忘れ重ねた
努力と歳月、透明になる薬がやっと完成した
のだった。(…そうだ、一刻も早く彼に知ら
せなくては)研究に没頭出来るようにと惜し
みない援助を続け、研究室まで提供してくれ
た友人K氏の許へと博士は急いだ。
広々とした芝生、大きな噴水のある前庭を
横切り、K氏の住む豪邸を訪れる。いつもな
ら慇懃な態度で出迎える執事も、そ知らぬ顔
でメイド相手に下らぬ冗談を云い合っていた。
(ふふ、やはり見えぬらしい)苦笑を浮かべ
博土はK氏の部屋に入る。むっとする暖房、
ソファに寄り添う二人の男女、ねぱつく会話。
「どうだい、彼の研究の進み具合は、あれが
完成すれば、私はまたまた大儲け……」
「ええ、もうすぐらしいわ、そしたらねえー」
甘い鼻声でK氏にしなだれかかっているの
は博土の若い妻S子ではないか、そこで博土
は全てが読めたのだ。(おのれ、よくも今ま
で騙し続けてくれたな)こぶしを固め妻の顔
を殴りつけたのだが手応えがない、つるんと
顔をひと撫でしただけのS子。ワイングラス
片手に「少し暑くない」眩きながらバルコニ
ーの扉を開ける。どっと吹き込む木枯らしに
舞い上がる博士(しまった、透明になると重
力も失われるのだった)中空高く吹き飛ばさ
れながら博士はわめく(許さぬぞ二人とも…)
幼稚園帰り、幼い娘が母を見止げて囁いた。
「ママ、風さん今日は怒ってるみたいな音ね」
〔発表:平成19年(2007)1月関西座会(第5回短説お年玉文学賞受賞)/初出:「短説」2007年4月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2011.1.2〕
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2011年6月21日 (火)
オートバイ
・
須藤 京子
・
「ねえ、お父さん。もうすぐお母さんの命日
だね。お天気がよかったら、久しぶりにお墓
参りに行ってみようかしら」
体を拭いてもらって気持ちいいのか、口を
ぽっかり開けている父に恵子は声をかけた。
「ねえ、お父さん。もうずっと前のこと、私
が高校生の時のことだけど、今でも思い出す
ことがあるんだよね」
恵子はいつものように、天井に目を向けて
いるだけで何の反応もない父に話しかけた。
その時、恵子は学校帰りでバスの中から見
るともなく外を眺めていた。信号でバスが止
まった時、その脇をオートバイを押しながら
歩いている中年の女が目に入った。お母さん
に似ているとぼんやり思った。
「えっ。あっ、お母さん、何してるのよ」
恵子は慌てて次ぎの停留所でバスを降りた。
車道の端を歩く母の姿がだんだん大きくなっ
てきた。ふと恵子の心の中に昨夜帰ってこな
かった父の顔が浮かんだ。母は恵子がそこに
いるのをとうに認めたのか、近付くと何でも
ないことのようにさらりと言った。
「昨日お父さん、O町に泊まったみたいだよ。
あっちの家の前に止めてあったから持ってき
ちゃった。お母さんはこのまま歩いて帰るか
ら、お前は先に帰って、晩ごはんのお米研い
でおくれ」
恵子は多くの疑問符つきの言葉をのみこん
で、母に言われたようにしようと思った。父
はその晩遅くに戻った。翌朝は恵子が目覚め
る前から、いつもの朝が明けていた。
そして今、恵子はその頃の母と同じ年令に
なり、父はオートバイに乗れなくなっている。
「ねえ、お父さん。あの時お母さんは……」
いや。
もう答えはいらないと恵子は思った。
〔発表:平成3年(1991)1月第5回藤代座会/初出:「短説」1991年2月号/初刊:年鑑短説集〈5〉『螺旋の町』1992年4月/〈短説の会〉公式サイトupload:2009.2.3〕
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2011年4月18日 (月)
連 凧
・
檜垣 英行
・
三月の半ばのことであった。私はいつもの
とおり利根川の堤へ散歩に出かけた。そこで、
ダンボール箱を側に置き草むらに座っている
一人の人に出会った。箱の中には数十枚の凧
が入っているのが見えた。私が興味を持った
のは、この季節に、しかも白髪交じりの男と
凧の組み合わせであった。
「凧揚げですか」と声を掛けた。
「いやあ、そう思って来たんですが…」と、
照れながら応えた。
「風を待っているのですが、今日は全く風が
ありませんなぁ」と立上がり、遠くを見回し
た。傍らの枯れたススキは微動だにしない。
「子供達に一つずつ作らせ、連凧に仕上げた
ものです」
「なるほど、連凧ですか」
「もう、十年も前のことです。教室の片隅に
取っておいたのですが、私もこの春で退くこ
とになりましたので…」と凧を取り出しなが
ら一枚ずつ開いて眺めた。
凧は破れたところを修理したらしく、その
部分が際立って白く見えた。
どの凧にも、『希望』という文字がはみ出
さんばかりの大きさで書かれ躍っていた。そ
れぞれに子供達の名前があった。中には六年
二組とクラス名から書いているものもあった。
最後の凧には、小さくまとまった大人の文字
が見えた。
「全部で四十六枚あります。始末する前に、
もう一度、大空を泳がせてやりたいと思いま
して…」と心の内を明かした。
私は、十年もの間、保管してきた理由を確
かめたいと思ったが口には出さなかった。
再び四十六枚の凧が大空を泳いだ時、子供
達の歓声が聞こえてくるのではないかと、私
もそこへ座って風を待つことにした。
〔発表:平成7年(1995)6月第16回東葛座会/初出:「短説」1995年9月号(短説創立10周年記念号)通巻122号/〈短説の会〉公式サイトupload:205.3.24〕
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2011年1月 7日 (金)
鱧
・
樋渡 ますみ
・
絹子はん。烏丸の楠田はんから鱧やて魚茂
から届いたえ。いやぁ、ええ鱧やわ。夏は、
やっぱしこれやねぇ。生麩の炊いたん有るし、
はよ食べて宇治川の花火見に行きよし。雪江
はんかて千代子はんかて出かけたえ。
へえ、おおきに。…けど、うちよろしおす。
うちほんまは花火きらいや。美しほど終うと
淋しなって一遍に辛気臭うなるよって。
へえぇ。そないなもんかいな。そやお礼の
電話入れとき。ええ旦さんや、お金持で男前
で気配りがようて、あんたにぞっこんやし。
…ぞっこんて、何え? 惚れてるって、何
え? 一昨日お座敷で楠田はん、奥様を空気
のよなもんやて。人さん空気無うたら生きら
れひん。いの一番の誉め言葉ぬけぬけと言わ
はって…。男はんは狡いわ。一番大切なんは
お蚕ぐるみにして、ちゃあんと仕舞うてはる
んや。さやから、祇王さんかて佛御前かて早
々に仏門に入りはってん。うちよりずっと若
うて色恋の果敢なさ悟りはって…。宇治川の
花火と一緒や。あほらし。
絹子はん、あんたほんま鱧みたいやなぁ。
白うて美しいて美味しいて…。げど油断して
食べとったら小骨が喉に刺さってチクチクし
て敵んのや。…そやし、生きとう中はするり
と逃げていきよるしな。
うふ。そうかも知れへん。おかあはん上手
い事言わほるわ。流石上七軒志づ乃の女将や。
梅肉作るん手ったお。ああ風鈴の音、ええね
え。ほんまに涼しなる様な気ィするもん。こ
の、気ィするいうのんが大切なんよ。ほんま
に涼しわけや無うても…騙し上手や。
またそないな、どこぞのおじゅっさんよな
事言うて。仕様むないお人や。
ほんまやのうても、ほんまやて気ィにさし
て欲して言うてるだけや。……女子やもん。
〔発表:平成19年(2007)8月関西座会/初出:「短説」2007年11月号/WEB版初公開〕
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2010年12月 3日 (金)
コーヒーショップ
・
木口 正志
・
ひとりの男がドアを開ける時からそれは始
まる。
物音がたたず、ドアのノブがきしむ音がマ
スターの注意を引く。男は即座にその店を判
断する。マスターも客も観察する。
この店は駅の裏にあり、コーヒーだけしか
出さない事で有名だ。
男は「アメリカン」とカウンターごしにい
う。マスターはすぐさま、サイフォンにあら
びきにしたコーヒー豆を入れ、熱湯をフラス
コ状のビンの中に注ぐ。
水が上流し、上ビンの中を時計回しにヘラ
で三回かきまわす。
全ての水が上流し終って、四十三秒。火を
細くして待つ。
サイフォンを火からおろし、下流を待つ。
コーヒーの温度は百度に近い。あたたまった
カップにコーヒーを注ぐ。
九十五度に下がる。
客の前へはこんでゆく。ミルクポットはカ
ウンターの左端に一つ置いてある。砂糖は、
グラニュー糖と茶色のコーヒーシュガーがあ
る。男は砂糖を二つ入れた。八十五度にコー
ヒーの温度は下がる。
男は手帳を胸ポケットから取り出して、何
事かつぶやき、書きはじめる。
コーヒーの湯煙が消えている。これ以上時
間がたてばコーヒーはさめてしまう。
マスターはよごれたサイフォンを洗いなが
ら、男に「はやく、召しあがらないとさめま
すよ」と言う。
男は手帳をおいて、右手でスプーンをもち
時計回しにコーヒーをかきまぜ、そしてカッ
プのえを右手でつかみ、半回転させてのみは
じめた。
マスターは「六十度だな」と思った。
〔発表:昭和62年(1987)10月第26回東京座会/初出:「短説」1987年11月号/再録:年鑑短説集(2)『青いうたげ』1988年7月/*編集者の裁量で一部表記の統一と改行を二箇所付加させていただきました。/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.1.1〕
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2010年6月29日 (火)
夢おとこ
・
坂木 昌子 ・
「あなた、共働きだと男性も少しは家事を分
担しないと、奥さんがダウンしちゃうって」
「君ィゲーテはそんなこと言わなかったよ」
「いやだあー、笑っちゃうわァ」
「ソクラテスの妻は、そこで笑っちゃいけな
いノ」
夢おとことの新婚生活が始まった。以来、
三十年間、貘のように太った夢おとこは、夢
も食べるが、ご飯もいっばい食べる。酒もい
っぱい飲む。
「秀雄も光子も、本人次第だけど、大学ぐら
い出してあげたいわねえ。もう少し月給が、
あがるといいんたけど、お父さん」
「一体、全体、どれだけ必要なんだね?」
「そうね。少なくとも今の二倍」
「そうか……そんなら小説でも書いて、ボー
ンと原稿料でも稼ぐか」
「また始まった。もうすぐ停年ですよ。お父
さん」
五年後、零細企業なので、二百万円だが退
職金が出た。早速、企業学術委員会とかの電
話がはいった。
「あなたは、当委員会の審査で、講師の推薦
を受けました。当会の講師になりますと、各
中小企業等で経営コンサルタントとして、人
材養成講座の講師が務められます」
「いやあ、私らにゃあ、そんな資格はありま
せんから……」
「私どもの審査会で十分検討した結果、あな
た様の実力なら申し分ないということでして」
言葉巧みな要請で、四十万円の登録料を振
り込んだ。が、一年たった今も講師の依頼は
一件もない。一回五万円の講師料は……問い
合わせると「何分不況のせいか経費節減で、
企業からの依頼がこないもので……」
初老になっても、夢おとこであった。
〔発表:平成5年(1993)5月第33回藤代日曜座会/初出:「短説」1993年7月号/
初刊:年鑑短説集〈6〉『函中の函』1993年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2009.2.3〕
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2010年5月20日 (木)
船
・
見崎 漣
・
「ほら、みて、おふね」
お菓子の空箱で作った船を、聡は自優げに
祖母に見せる。お世辞にも船に見える代物で
はなかったけれど、祖母はいつも優しく微笑
んで褒めてくれた。
「あらぁ、上手にできたねえ」
聡の家は共稼ぎ。帰りの遅い両親。聡は祖
母のひざに座って、お菓子の空き箱やマッチ
箱で飛行機や船を作るのが好きだった。
両親の方針で、近所の子供達のように好き
な玩具を与えられた事がない聡は、欲しい物
は何でも自分で作るのが当たり前になってい
た。そんな聡を不欄に思ってか、祖母が与え
てくれた唯一のものがあった。
それは、五十円の小さなセロテープ。
すぐに、何でもくっつけることができるそ
れは、聡のもの作りに大活躍していたが、無
駄づかいも多く、一週問ももたなかった。
「おばあちゃん、テープなくなっちやった」
「はいよ」
祖母は仏壇の引き出しから真新しいテープ
を取り出すと、聡の手に握らせてくれた。テ
ープが切れていたことは一度もなかった。
僅かな小遣いをもらうようになり、聡の行
動半径が広がると、祖母と過ごす時間やセロ
テープの出番は少なくなった。いつしか、祖
母と話す時間はほとんどなくなっていた。
あれから二十五年、祖母は今日、小さな箱
に納まり、聡のひざに載って家に帰ってきた。
祖母がいつもお経を唱えていた仏壇を家族
と共に整理していると、古ぼけたセロテープ
の小さな箱が、引き出しの奥にそっと納めら
れていた。
テープがボロボロに剥がれかかり、すっか
り色裡せたマッチ箱の船と一緒に……。
〔発表:平成15年(2003)10月木座会/初出:2004年1月号「短説」/再録:2004年5月号「短説」〈年鑑特集号〉*2004年の代表作選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.11.15〕
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2010年5月 5日 (水)
セイジの魂失い
・
原 葵
・
じっさい、花盛りのころにはいろいろなこ
とがあった。村はずれの森には無数の鳥たち
が棲んでいて、花盛りのころになると、森中
で気ちがいのように朝から夕方まで騒ぎたて
た。しかし森のいちばん奥はたくさんのフク
ロウたちの暗い棲家となっていたから、そこ
へ入ると急にしいんと静まりかえって、森へ
たびたび来馴れている村人ででもなければ、
自分の耳が壊れたのではないかと思い、動転
のあまりやみくもに走り出したりした。
そんなわけで、村の人たちは森の奥から一
目散に走り出してくる行商人を見ても、侮り
の目付きをしたり、嘲ったりすることなく、
結婚調査員には決して見せることのない人な
つっこい笑みを浮かべて、行商人たちを自分
の家の玄関先へ誘い入れ、人形祭りの支度に
必要な品々を買い込みながら、巧みに稀代の
腹話術師ヤマトケサイチと、彼にさらわれた
セイジのことを知っているかどうか探りを入
れた。乞食さえもが、どうかするとこの村で
は話を聞かせてくれる大事な訪問者だった。
小鳥の森は、西の方からやがて小高い山に
なっていたが、その小山は春になると、それ
までのくすんだ枯野の色を払拭して、一挙に
山全体が淡い色の薄物をまとったように花で
覆われ、いのちのときめきに山じゅうが狂い
たつばかりになるのだった。その山ひだの道
ともいえぬ道を、人けもない春の昼下がりに、
ごく年端もいかない者などが一人で歩いてい
るうちに、突然姿を消してしまったりするこ
ともあって、村人たちはそれを魂失いとよん
で畏れていた。村の子どもたちは常日ごろか
ら花の山には一人では決して行かないように
といわれていた。
「祭門セイジが魂失いしたのも、あの山だぞ」
と村人たちは終始いってきかせるのだった。
〔発表・初出:平成元年(1989)7月「銀の竜」16号/初刊:年鑑短説集〈4〉『海の雫』1990年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2009.12.22〕
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2010年3月 9日 (火)
ミルクココア
・
小滝 英史
・
モコちゃん、そんなに笑ってはいけないよ。
あまり笑いすぎると泣いてるみたいだから。
僕の胸は苦しい。
「――そうよ。悲しすぎて泪も出なかったわ」
モコちゃんの透き通った声。アパートの前
の空き地で野球をする子どもたちの歓声が連
れ去ってしまう。毎日がじりじりと暑かった。
冷蔵庫もない一間っきりのアパート。夕風に
やっと生き返るような生活。冷たいものは自
動販売器。でもあまり陽差しが強いと、外に
いくのがおそろしい。貧乏は恐ろしい。そん
なとき、モコちゃんはあまーいミルクココア
を作る。沸騰したては熱くて飲めないからと、
把手のついた鍋を、水を溜めたボールに浸け、
水道を細くして冷やすことにしたんだっけね。
僕は早く飲みたくて、台所へいってようすを
見る。そして冷め具合を見るんだけど、生ぬ
るい水道水じゃなかなか冷えない。それで、
つい蛇口をゆるめてしまう。すると、増した
水の浮力で小さな鍋は荒波の上の漂流ボート
のようにゆらゆらとなって、水道の水が鍋に
入ってしまう。するとモコちゃんは「駄目ね」
といいながら鍋の位置を戻す。が一度バラン
スを失った鍋はモコちゃんの手をすり抜け、
さらに傾いてボールの水が縁から入ってしま
う。こんなに水が入ったら、せっかくの甘い
ミルクココアも水っぽくて飲めやしない。そ
れじゃ、というので、床に置いて自然に冷め
るのを待つことにする。が、床に置いたとた
ん、僕の足が、赤い糸に絡みつかれたように
鍋の把手を蹴り、その弾みで回転した鍋を掴
もうとして伸ばしたモコちやんの手が、ズボ
ッとミルクココアの中に嵌まりこむ。そのま
ま鍋は倒れ、とうとうミルクココアは、全部
床の上にこぼれてしまった――。
そしてモコちゃん、笑ったんだっけね。
〔発表:平成10年(1998)6月東京座会/初出:「短説」1998年8月号/再録:「短説」1999年5月号〈年鑑特集号〉*1998年の代表作選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.5.6〕
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2009年12月24日 (木)
三角クジ
糸井 幸子
あれは確か、三年前の暮れだ。
洋子は、夫の達夫と一緒に冷蔵庫を買いに
行った。買物を済ませ、洋子が急いで帰ろう
とすると、達夫は、貰った券で三角クジを引
いて来ると引き返した。
「賞品だってよ」
葉書より少し大きめの白い封筒をブラブラ
させながら戻って来た。
「なあに?」
中を覗くと、スポンジの板が入っている。
「なにかしら?」
引っぱり出してみると、紺の絣を着た忍者
が出てきた。体はきせかえ人形のようにバラ
バラに刷られている。胴体、顔、頭、チョン
マゲ、腕、手甲と黒いはばき、それに、直径
三センチ程の葉っぱが二つ。いずれも切り抜
くようになっていた。
「そんなの、捨てちゃえば」
しかし達夫は、洋子の目を盗むようにして、
ポケットヘ突っ込んだ。
夕飯を済ませると、達夫は、白い封筒から
スポンジ板を取り出し、忍者の切り抜きを始
めた。切り離しては組み立てていく。
達夫の家の風呂に忍者が住みついたのはそ
の晩からだ。
達夫の後の風呂に入るたび、忍者は交通整
理のおまわりさんよろしく腕を上げたり下げ
たりしている。そして今夜は、葉っぱに乗り、
湯舟の中に浮かんでいた。洋子は達夫の幼稚
さに呆れた。
湯を汲もうとした時、ポロッと忍者の手が
落ちた。拾い上げると、一文字に結んだ口元、
大きく見開いた目、瞳を中心に寄せた忍者が、
洋子に笑いかけた。
八歳のとき交通事故で死んだ息子は、叱ら
れると、よくこんな表情をしておどけた。
〔発表:平成9年(1997)12月藤代木曜座会/初出:「短説」1998年2月号/再録:「短説」1999年5月号〈年鑑特集号〉*1998年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.2.18〕
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