2009年11月 1日 (日)
待って
川嶋 杏子
「また来ておくれ」
ばあちゃんは何回もそう言っていた。次の
日から毎日道の方を見ていた。
あのお姉さんはもう来ない。僕は思ってい
た。僕の母さんのように。もう決してあの知
らないお姉さんはここへは来ない。お姉さん
はやがてお嫁に行き、男の子を産んでよその
男と駆け落ちする。僕の母さんのように。
母さんはやがてばあちゃんのようになる。
黙って炊事をし、しゃがんで洗濯をし、庭
先へ出ては通る人を呼び止める。
誰が来ても同じ話を、今日もあしたも同じ
話を、やがて誰も居なくなっても話し続ける。
風に向かって。音に向かって。
僕は母さんの事をあまり憶えていない。僕
はこのままでいい。
ばあちゃんは言っている。
誰にも人生は有るのだよ。誰の人生もそう
変わりはしない。ブラスマイナスゼロだよと。
始めは身の上話だった。話の中身はだんだ
ん変わって行った。でも誰の人生も同じって、
本当にそう思っているかどうかは分からない。
僕はやがて大人になって街へ出て行く。
僕はもっと大人になってばあちゃんの所へ
帰って来る。そして僕は考え続ける。
誰か女を不幸にしなかったかと。
ばあちやんはもう待つこと自体が生活にな
って、自分が何の為に庭先から道を見ている
のか分からない。でも僕にはその方がよかっ
た。来ない人を待つのは辛かろうから。
お姉さんは気まぐれに寄っただけ。通りが
かりに、ただ話しかけられたから。
でも時々思う。またあのおばあさんと話し
たい。また行きたいと思っているかもしれな
い。けれどそれは多分お姉さんが不幸だから。
お姉さんはもうここへ来なくていい。
〔発表:平成17年(2005)7月上尾座会/初出:「短説」2005年10月号/WEB版初公開(追悼)〕
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2009年2月21日 (土)
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初めの一歩
館 としお
昨年度の業績の分析が終わったと思ってキ
ーボードから手を離した時、目の前に見えた
のは天井の蛍光灯だ。目を下に向けると書類
が立て掛けられた八人分の机が見える。私の
机はニメートル位の高さにあって、頭が天井
に当たりそうだ。
ワープロの電源コードは一メートル半位だ
ったが、コンセントは外れていないのか、私
が作った報告書の一部が写っている。
夢だと思って頬をつねったら痛い。何が起
こったのか分からなくなった。今日の朝食は
いつものと同じ、パンとコーヒー、それにト
マトとレタス、チーズを一切れだった。
体を少し持ち上げて椅子の上に落としてみ
たが、体は少ししか上げられなかった。椅子
と机は少しだけ上下に揺れたが、高さは変わ
らなかった。
次に体を左右に揺すった。椅子と机も左右
に揺れた。体を止めると椅子と机も止まった
が、高さは変わらなかった。私は数分間その
ままの状態でいた。
周りを見回しても、誰もいなかった。誰か
が来たら降ろして貰おうと思ったが、誰も現
れる様子はない。八人の部下は皆出払って、
いつ帰って来るのかは分からない。私一人に
なってしまった。
しばらくそのままにしていたが、このまま
では仕方がないので、椅子から離れて歩くこ
とにした。初めの一歩をそっと踏み出すと、
空中に浮かんで足が止まった。そのままもう
一歩歩いた。また浮かんで止まった。私はそ
のまま歩いて部屋から出た。
部屋を出てから気づいたことだが、伺じ高
さを歩いている人が他にもいた。皆普通に歩
いている。私は今でも慣れないので、一歩ず
つ踏み締めて歩いている。
〔発表:平成8年(1996)5月通信座会/初出:「短説」1996年7月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.4.20〕
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2009年2月 2日 (月)
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丸亀うどん店
相生 葉留実
暖簾を下げるために戸口に近づくと、客が
戸を開けた。女が入り、男がつづいた。
「はい、いらっしゃい、こちらへどうぞ」
と奥の席に案内した。
私はすぐに熱い茶を出す。女が一気に飲む。
「天麩羅うどん二つ」
「天麩羅二つ」奥にいる妻に声をかけた。
調理場に入って、ガスをひねる。入り口の
戸が少し開いた。鳥打帽の男Kだ。妻にコン
ロの火を指さして戸ロヘいき、外へ出た。
「今入った客ね。女は、スパイだから気をつ
けろ。ほら、手帳を出している」
Kはそれだけ言うと、くるりと背を向けて、
去った。
調理場では、うどんがあつあつに仕上がっ
ている。海老天をのせて熱いだしをたっぷり
とかける。いつもならお盆に箸と、唐辛子を
添えるのだが、小瓶は棚においた。
「おまたせしました」
客は余程腹が空いていたらしい、うどんを
口いっぱいにほうばる。
見計らって、唐辛子の瓶を持っていく。
丼鉢には海老天が残っている。東京もんは、
先に天麩羅を食べる。うどん好きの関西人は
矢も楯もたまらなくなって、うどんを先に平
らげる。
お品書きを下げようとすると、
「あっ、見せてください」
「なにか注文でも」
「いえ、もうお腹一杯」
手帳にメニューと値段を写している。
支払いを済ませ立ち去った。
すぐに製麺所へ電話をした。
「もしもしうどんを先に食べました」
次は天麩羅屋に掛ける。
「もしもし、海老天を尻尾から食べました」
〔発表・初出:平成20(2008)年5月号「短説」(巻頭招待席)/WEB版初公開(追悼)〕
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2009年1月23日 (金)
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かがやく銀河の夜
河江 伊久
おばあちゃんが旅に出るといったとき、
「誰と? 何処へ?」と、つい聞いてしまっ
た。一人で――へ行く、といったが――の部
分は聞こえなかった。聞きかえすのがためら
われる何かが、おばあちゃんにはあった。
出発の日がきて、ザックに荷物をつめ白い
上着をきたおばあちゃんをみたとき、なぜか
胸がいたんだ。一人で行くと言いはったので、
ぼくはこっそり駅まで後をつけた。おばあち
ゃんの白い服が濃い闇の中にふわりふわりと
浮かんで、魂のゆらめきのように見えた。
おばあちゃんの乗った汽車には、頭の白い
老人ばかりが座っていた。弁当を食べたり、
笑いさざめいているようだが音は聞こえない。
水底にゆらいでいる生き物のようだった。
ぼくはその夜、秘密の老人列車がこっそり
旅立つ夢をみた。老人列車は闇の中をひた走
って、海峡線で乗り換えだった。
「秘密が肝心、極楽は銀河の向こうに」と、
夢幻列車はすすんで行った。
「身延山へ参詣に行ったのよ」と、隣家のお
ばさんはぼくをなだめてくれたが、ぼくには
おばあちゃんは帰って来ないように思えてな
らなかった。
衰弱しきったおばあちゃんが帰ってきたの
は、それから十日もたってからだ。心配する
ぼくに、「夢のような音楽がながれ、いい匂
いの食べ物があった。心配なんか何もない」
といった。
おばあちゃんの旅はその後、何度か続いた。
ぼくはその度に、秘密の老人列車の夢をみた。
ほの白く輝く列車の窓に、老人たちの銀髪が
光り、「秘密が肝心、極楽は銀河の向こうに」
というひそひそ声が聞こえた。夢から覚める
度にぼくは、一人で生きてゆく覚悟を固めて
いたような気がする。
〔発表:平成元年(1989)6月第46回東京座会/初出:「短説」1989年7月号/初刊:年鑑短説集〈3〉『乗合船』1989年10月/再刊:河江伊久短説集『小春日和の庭で』1995年12月/upload:2008.9.22〕
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2009年1月12日 (月)
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猫の絨毯
五十嵐 正人
レインボーブリッジを下りて、夜の湾岸線
に。いつになく、心地よい走り。タイヤは路
面に無理なく吸いつき、小石一つの振動も伝
えてくる。
二人が目指すのは、浦安ベイエリアの高級
ホテル。同じようにクリスマスを迎える車が
前後に群れをなしている。
「ねえ見て、東京湾も、夜はこんなに縞麗に
なるのね」
助手席の彼女が、運転席の彼に身を寄せた。
オートマチックの左ハンドル。男の右手が女
を抱きとめる。と、一瞬体が揺れた。
「どうしたの?」
「いやっ、何でもない。猫を礫いただけさ」
「なーんだ」
高速道路に猫。ちょっと変な感じはしたが、
間違いないだろう。あのボコッという感触。
「あれっ、まただ」
「寒くなると多いのよね。猫って、どうして
避けないのかしら」
見ると、前方の車が凸凹道を走るように跳
ねている。
ボコボコッ。
二人の車も跳ねはじめた。路面を確認する
勇気はない。おそらくは、一面に敷きつめら
れた猫の絨毯。目にしなければ、それですむ。
息を殺して、走り抜けよう。
ボコボコボコッ、ボコボコッ。
女の視線が、追い越し車線のドライバーの
目にあった。困った顔同士、会釈を交わす。
ボコッ、ボコボコボコッ。
未開の平原を走るバッファローの群れのよ
うに、恋人たちもオアシスを夢見て走る。
ボコッ。最後の一匹をプレスした音。
「ほらっ、シンデレラ城が見えてきた。明日
はスプラッシュマウンテンに乗りましょう」
〔発表:平成7(1995)年2月第12回東葛座会/初出:1995年5月号「短説」/WEB版初公開〕
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2008年10月13日 (月)
女ひとり
桂 千香
女が引っ越してきたのは二月の終わり頃、
小春日和の日曜だった。引っ越し業者の一〇
トントラックから数え切れない程の箱が流れ
出している。
「ねえ、あなた。隣、越してきたみたいよ。
すっごい荷物。何人家族かしら。タカシに新
しいお友達ができたらいいわね」
ゆうこは、そうつぶやきながらカーテンの
隙間から様子をじっと窺っている。夕方、イ
ンターホーンが鳴った。「そらきた。引っ越
しのご挨拶よ!」ゆうこはインターホーンに
映る見知らぬ女に、「はい、どちら様でしょ
うか」と静かな調子で言った。
細身の女だった。ゆうこと同じ三十半ば位
だろう。長い髪を一つにまとめ酒落たバンダ
ナで結んでいる。人なつっこい笑顔で女は、
よろしくと言って台所用洗剤を差し出した。
扉を閉めるなりゆうこは言った。
「普通、旦那と一緒に挨拶に来るものよね。
いいえ一人ってことはないわ。だってベラン
ダに黒のゴルフバッグが立てかけてあるもの。
やだ人聞きの悪いこと言わないで。首をちょ
っと出すと見えちゃうんだもの」
一ヶ月が過ぎた。ゆうこはせわしなく爪を
噛みながら言った。「ねえ、あれから隣の人
見たことある? おかしいのよ。ベランダに
一度も洗濯物干してないの。いいえ、いるは
ずよ。新聞も郵便も毎日とってあるもの。な
のにドアの音も掃除機の音も聞こえないの」
そして、またそろそろと暗がりのベランダに
出て隣をこっそり覗き見た。明かりは点って
いるが物音ひとつしない。
ゆうこは諦めて部屋に戻った。明かりもつ
いていないがらんとした部屋に一人、肩をす
くめてつぶやいた。
「ねえ、あなた。変わった人もいるものね」
〔発表:平成10年(1998)5月通信座会/初出:「短説」1998年8月号/再録:「短説」1999年5月号〈年鑑特集号〉*1998年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.2.18〕
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2008年10月 7日 (火)
赤とんぼ
道野 重信
雨が夕日を消したのだ。
だから雲が出てるのだ。
アミと虫カゴがぼくのタカラモノなのだ。
今日も赤とんぼをつかまえるのだ。
父ちゃんは焼酎を飲んで泣くのだ。
男は涙を見せてはいけないのだ。
それでも泣くほどつらいときは、子どもは
見ちゃいけないのだ。
だから、ぼくは出かけるのだ。
ぼくの家には傘がないのだ。
だから濡れても平気なのだ。
いつも赤とんぼが舞っている、坂の上のお
寺に行くのだ。
「ぼく、どうしたの?」
と、声がしたのだ。
ふりかえると、もも色の傘をさした女の人
が立っているのだ。
ぼくはどうもしていないので、なんて答え
ていいかわからないのだ。
坂をかけあがって、お寺の土塀によじのぼ
ったのだ。
そして、アミを旗のよつにふったのだ。
早くどっかに行ってほしいのだ。
あんたはぼくの母ちゃんじゃないのだ。
もも色の傘が遠ざかって行くのだ。
それで、ぼくはやっとアミをふるのをやめ
るのだ。
今日も赤とんぼをつかまえるのだ。
ぼくは母ちゃんを待っているのではないの
だ。
赤とんぼをさがしているのだ。
〔発表:平成18年(2006)3月通信座会/2006年5月号「短説」/再録:「短説」2007年6月号〈年鑑特集号〉*2006年の代表作「人」位選出作品/WEB版初公開〕
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2008年9月27日 (土)
黒 曲
美野里 亜子
「親方、借りていいすか」
佐介は使いこまれて手になじみの良い曲尺
を持ち、親方亮吉の丸い背に声をかけた。
「まぁたおめぇは、人の道具で仕事すってか」
「なしてだが、わがんねぇけど、親方の借り
っと、按配いいんだやね」
「親方、オラの方さも貸してくんねぇが」
今度は駒吉が墨壼を手に声をかける。
「おめぇら何持って仕事さ来てんだか。道具
は職人の命だべさ、んだけど良がったら使え
ばいいべさ。なんぼでもな」
亮吉の道具箱は角がすり減って丸みをおび
黒光りしていた。手入れの行き届いた大工道
具がいつもきっちりと並べられている。やっ
と墨付けが許されるようになった駒吉もまだ
自分の墨壺を持っていない。玄能、鋸ぎり、
鉋、曲尺、のみ。仕事を覚えるたびに道具の
数が増え、やっと大工らしくなってきた駒吉
だった。
「だども、親方みでに道具持ちになんねぇど
いい仕事師になれねんだべな。駒兄ぃだって
だんだん持ってけんど、オラなんてまだ釘袋
だけだ。早く自分の曲尺持ちてぇな」
「持ったってやっと一本だけだべさ、オラも」
駒吉は言いながら親方の腰の釘袋に目をや
った。亮吉の腰にはいつも一本の黒曲が差し
込まれている。何十年も使いこまれてほとん
どはげ落ち、角もすっかり丸くなっている。
肝心な目盛は大方消えて役立ちそうもない。
「数でねぇ……一本あればいい」
亮吉は黒曲を手に胡座をかいた。
「自分に合ったの一本でな……。大工が目盛
の無い曲尺持ってだって仕方ねぇと思うんだ
べ。だどもやっと自分だけの目盛が読めるよ
うになったんだ。こいつのおかげでやっとな」
黒曲はしっくりとごつい手になじんでいた。
*黒曲=くろがね(黒い曲尺) *曲尺=かねじゃく *玄能=げんのう *鉋=かんな
〔発表:平成5年(1993)3月第31回藤代日曜座会/初出:「短説」1993年5月号/初刊:年鑑短説集〈6〉『函中の函』1993年12月/*初刊稿は一行超越しているため、語句を二箇所削除し、句読点を三箇所付加しました。/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.7.12〕
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2008年9月18日 (木)
尾売り横丁
すだ としお
暗い道を折れ曲がり、小さなネオンの門を
くぐり抜けると、尾売り横丁がある。尾を売
れば、生えるまで出てくる事は出来ない。生
えたらまた売る事になるのかもしれない。
「旦那、尾売りですかい?」
顔のひん曲がった男が、縮み上がっている
私の尾を見ながら、言った。うなずくと、男
は指さした。そこには、血の色をした尾切リ
台があった。尾を切るのが、その男の仕事だ
ったのだ。同じような顔をした男が何人も、
うろつっいている。台に尾を乗せ、目を閉じ
る。男の手が尾をつかむ。
「痛くなんかありませんぜ」
そう言った途端に、斧が振り降ろされてい
た。尻にばんそう膏を張ってもらい、油紙に
包んだ尾を持って、横丁を歩いていく。もう
戻れない。尾を売れば、食い物には困らない
と聞いている。呼び込みに手を引っ張られて、
店に連れ込まれ、尾を売った。広間へ案内さ
れ、酒の用意された膳の前に座らされた。男
達が騒いでいる。一人になりたくて、そっと
立ち上がって、歩き出した。
「奥へいくにはまだ早過ぎます。もっと楽し
んでからの方がいいですよ」
そう言われたにもかかわらず、奥へと歩い
ていった。部屋は幾つもあり、段々に小さく
なっていく。最後には人がようやっと横にな
れれるくらいの大きさの部屋になった。その
部屋へ入っていき、横になり、眠った。
「体ごと売るつもりになったんですかい。尾
なし人は泣き事は言えませんぜ」
そう言う声が聞こえ、体が持ち上げられた。
あわてて、暴れようとしたが、手足が縛られ
ていた。
「この尾なし人からはいい冷汗が取れるぜ。
尾を切ったばかりだからな」
〔発表:昭和61年(1986)10月第14回東京座会/初刊:年鑑短説集(1)『旅のはじまり』1987年7月/再刊:すだとしお短説集『やわらかい鉛筆』1995年3月/WEB版初公開〕
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2008年9月 8日 (月)
蚊
五十嵐 まり子
さっきから一匹の蚊が晴子の周りを飛び回
っている。掴まえようとしたが逃げられてし
まった。台所から防虫スプレーを持って来て、
机の下へ一吹きした。趣味の刺繍の会の名簿
をパソコンで作って、明日持っていかなけれ
ばならない。
五分ほどして目の前を蚊がふらふら飛んで
いるのに気が付いた。思い切り手を叩いた。
掌につぶれた蚊と少しの血がついていた。晴
子はまだ血を吸われていない。誰の血だろう。
息子の部屋だったここは、パソコンを使うと
きぐらいしか使わない。独立して五年も経っ
ている息子の血であるはずがない。正月にし
か来ないのだから。
パソコンの置いてある机は、息子の置いて
いったものだ。机と並んで、壁には確かロー
ドバイクと言っていたような気がするが、自
転車が立てかけてある。青と白と赤の派手な
ヘルメットも、サドルに掛けられたままだ。
フランスで四千キロメートル前後の距離を白
転車で走り抜けるツール・ド・フランスを息
子と二人、夜遅くテレビでみたことがあった。
こんなスポーツがある事を初めて知った。ま
た、電車で一時間はかかる高校までこの自転
車で登校したこともあった、タイヤはもうす
っかり潰れている。
その隣にある本棚には、ほんお少しの本の
ほかに、二着のウエットスーツがハンガーで
引っ掛けてある。まだ使えるのかどうか知ら
ないが、何年もそこに下がっている。
一週間後の三連休に、今付き合っている女
性を連れて来るという。赴任先の博多で知り
合った人だということだ。結婚を考えている
らしい。
晴子は掌の血に一瞬生々しいものを感じ、
急いで拭い取った。
〔発表:平成18年(2006)7月上尾座会/初出:「短説」2006年11月号/WEB版初公開〕
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