僕の原体験

2014年4月 8日 (火)

多摩川と51

51
多摩川左岸の調布市と狛江市の境目あたり

 僕の原風景のひとつ。
 このあたりから、川を挟んで右手(南西側)によみうりランドの観覧車が聳える多摩丘陵と、左手(東南側)に今はなき向ヶ丘遊園と鶯色の世田谷通り(津久井道)の多摩川河原橋が見える風景は、僕にとって掛け替えのない風景です。いやもちろん僕だけでなく、地元の誰もが愛してやまない景色です。

 さて、本日は花祭り、お釈迦様の生誕を祝福する潅仏会の日ですが、私の誕生日でもあります。
 満五十一歳ですよ、ほんとうにもう、正真正銘のオジサンで、老年の域に入りつつあります!
 もはや抱負もクソもありませんね。でも、でもね、それでも、やっぱり、ちょっとはまだ、そのォ、ね、……。

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2012年9月13日 (木)

ラジオ (「僕の原体験」2)

調べてみたら
(今は簡単に調べられますね)
ソニーのスカイセンサー5900が出たのは
1975年の10月とのこと
すなわち昭和50年だ
子供に言ったら
「昭和時代」と笑われるだろう

誰だったのかは覚えていないが
クラスの一人が発売すぐに手に入れたはずだ
ということは
季節は晩秋から冬
12月頃だったのかもしれない
もしかしたら
クリスマスのプレゼントで手に入れたのかも
そうだとすると
12月も暮れに近い
冬休みに入ってからか
小学生が夜に集まるなんて
やはり休み中のことかもしれない

僕のクーガ115は
ステンレスのヘアーラインを貼ったような
メタリック調のフロントパネルが特徴で
真ん中に16cmのダブルレンジスピーカーが
どーんと嵌まっている
ジャイロアンテナなんていう
回転式のアンテナが付いているのが
特徴の一つだった

この手の機種の中では
音がよかった
とはいっても
その外部入力にマイクロホンをぶち込み
時には二股ソケットを使い二本ぶち込み
ボーカル・アンプにしていたのは無茶な話だった
でも十分に使えた
そんな時代

中学三年から高校時代にやっていたバンド
その活動場所は自宅に限られていた
(スタジオミュージシャンを気取っていたのか?)
とにかくひたすら曲を作り
(コピーは一切せず
オリジナルしかやっていなかった)
ひたすら「アルバム」の“レコーディング”に
いそしんでいた
没頭していたと言った方がいいかもしれない

いや、その話は別にしよう
僕のクーガ115は
のちにボーカル用のスピーカーとして
大活躍することになるのだった

そう、この昭和50年の12月
僕は十二歳と八か月
そう、たぶん、この頃から
僕は(幸か不幸か)「目覚める」ことになる
音楽に「出会った」のもこの頃だ

その発端の一つがラジオだったといえる
(ほかに、天文学や鉄道なんていうのもあるけど)
国際的なニュースに耳を傾け
極東地区への布教を目的とした
キリスト教の宗教放送まで熱心に聴いていた

でもね、それにはね
わけがあるのですよ

僕は小学四年の終わりから
中学受験のための勉強を始め
当時は今以上に特殊な存在だった
「四谷大塚」なんていうところにも通っていた
最初は嬉々として
しかし、いよいよ受検が迫ったこの頃になって
僕は息切れがしていたのだ

試験前になると
関係のない本が読みたくなる式のあれだが
それだけでなく
おそらく、いわゆる第三次性徴の発現
とも関わっていたのだろう
四月生まれの僕は同級生の中では早熟で
この頃すでに声変りしていた

そこに
ラジオ(聴取に加えて、作る方も)
それに、天文学、鉄道
(それらの専門的な難しい雑誌を読むこと)
そして、音楽(洋楽)
さらには宗教に考古学

つまり「知」の世界に導かれたのだ
誰もが多かれ少なかれ経験があるだろう
最近では「中二病」なんて言葉もある
若気の至りのようなものだ
でも、僕は人並み以上に
その深いところで
本質的に影響されてしまったのだ
それは掛け替えのないものではあるけれど
ある意味では
それが不幸の始まりともいえる
生きづらさの……


※僕の作品ではないけど
向山葉子氏の短説に「ラジオ」という作品がある

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2012年9月11日 (火)

夜の散歩 (「僕の原体験」1)

夜の散歩に出たんだ
晩飯の腹ごなしにね

四十五年も住んでいる町さ
目新しいものなんて何もないのに
いちいち感傷的になってしまうんだ

十代のころも
街を彷徨っては
感傷的になっていたけど
四十九の今は
その質が違うんだ
決定的に違うんだ

猫がいたんで
誘われて
お山公園に入ったのさ
正式な名称があるわけじゃないんだが
むかしから「山公」って言われている
団地の中の小さな公園だ

久しぶりに来たら
新しい遊具が設置されていた
ここ十五年ぐらいの間に
何度か整備改修されているが
全体のイメージは四十年前とそう変わらない

真ん中に
コンクリートの小山があるのさ

小学六年生のころ
BCLが流行っていたんだ
今ではBCLって何だって言われそうだけど
Broadcasting Listening または Listener の略で
ラジオ放送(なかでも短波による海外放送)を聴取し
受信報告書を書いて(エアメールで送り)
いろんな放送局のベリカードを集める趣味さ

あとから思い返せば
海外のニュース(宗教や人種問題、紛争
東西冷戦だの緊張緩和だの)よくわからなくても
洋楽や英語に目覚めるきっかけになった
小学生にしては高級な趣味だったね

午後八時にはじまるBBCの日本語放送
これが電波状況によって
なかなかきれいに聴くことが出来なかったんだ
季節は忘れたが
同じクラスの仲間五六人で集まったのさ
その小山に

ソニーのスカイセンサー5800が憧れで
僕は対抗しあえて
“ナショナル” パナソニックのクーガ115
でも当時最新機種の5900を買ってもらった奴がいて
たぶんそれも持ち寄ったんではなかったか

午後八時
小学生が外に出るには遅い時間だ
ダイヤル(もちろんアナログだ)を合わせる
ビッグ・ベンの鐘の音が公園に響く
BBC放送の始まりの合図だ
そう、遥かロンドンからの音!
僕らは狂喜乱舞し
そう、本当に踊ったのさ
輪になって
その小山で

その小山は改修され
つまり上からコンクリートが塗られ
少し大きくなったような気がする
洗練されてしまってはいるが
基本は変わらない
それが今でもそこにある

ただそれだけのことなんだけど……

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2005年11月 5日 (土)

短説:作品「蓮沼海岸」(西山正義)

   蓮沼海岸
 
            
西山 正義
 
 また幽霊の話である。大学二年の夏、サー
クルの合宿で、外房の蓮沼海岸に行った。
 僕らが作ったサークルである。大学側には、
歴史・民俗・文化研究会ということで登録し
ていたが、自分たちでは「自分の中の社会を
見つめる会」と名乗っていた。政治・宗教的
な色彩はない。一口で説明するのは難しいが、
主旨としては、従来の組織のあり方を否定し、
新たな個対個のコミュニケーションのあり方
を模索するというものであった。
 時はジョージ・オーエルの『1984』年。
構造主義とニュー・アカデミズムが一世を風
靡していた頃である。ポスト・モダンの影響
は確かに受けていたが、もちろん、それと幽
霊の話とは関係ないし、僕らは青白い顔をし
て海にも入らなかったということではない。
 朝のうち一回目の討論会をし、日中はたっ
ぷり泳いだ。関百合子の均整のとれたプロポ
ーションと、奥村靖子が相当なグラマーなの
には目を見張るものがあったが、男同士の時
にもそういう話題に興ずる連中ではなかった。
 三日目、夕焼けを背に海から上がってきた。
丈の高い葦に囲まれた小径を抜け、宿の前の
道に出る。横切れば民宿の前庭。僕は、中学
からの親友・草野と最後尾にいた。埃っぽい
その道は、海岸線らしく、その辺りで大きく
蛇行し、道幅も狭くなっている。
 まさに黄昏だった。宿の前庭西側に、傾き
かけた木製の電柱があった。見上げたのは草
野と殆ど同時だった。ちょうど電線を繋ぐガ
イシがある辺り。ほの白く漂うものがあった。
幽霊! 草野と顔を見合わせて頷きあった。
 その夜、宿の前で自動車事故があった。サ
ーファー同士の正面衝突。僕は民宿の電話で
警察に連絡したりしていたが、草野が指差し
た。事故現場は、例の電柱の真下だった。

〔発表:平成17(2005)年1月ML座会(原題「蓮沼」)/初出:2005年4月号「短説」/再録:2005年7月号「月刊TOWNNET」通巻368号/再録:「西向の山」upload:2005.8.25〕
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2005年9月30日 (金)

短説:作品「流山」(西山正義)

   流 山
 
            
西山 正義
 
 昭和維新を夢見て、壮士気取りの若者が四
人。リーダー格の田端は眼光鋭く、口髭を蓄
え、戦時中の国民服を模した服を着ていた。
平川は羽織袴に朴歯の高下駄。麻生はいわゆ
る戦闘服。間宮はごく普通の学生服だったが、
蝋で固めた学帽を目深に被っていた。
 間宮の運転するターボ・チャージャー付の
最新型スカイラインに乗っていても、とても
みな一九八〇年代の学生には見えない。
 流山に来ていた。間宮にとっては初めての
土地である。地元出身千葉商大国防部の平川
のつてで、ある民族派の老人と会っていた。
 和志丸剛毅と名乗るいかにも老翁然とした
その老人は、夥しい古文書に囲まれて鎮座し
ていた。若衆の訪問に老人は気を吐いた。本
職は郷土史家だというが、間宮は胡散臭いと
思った。天下国家を論じれば、田端も黙って
はいない。いつもの大言壮語がはじまる。
「そもそもヤルタ・ポツダム体制が……」
 しかしいつの間にか、なぜか幽霊の話にな
っていた。もう夜も更けていた。
「では、これから幽霊を見に行こう」という
ことになり、間宮の車で出掛けた。田圃の向
こうに小高い丘があった。農道脇に駐車する。
 稲穂の匂いが薫った。鬱蒼とした木立の向
こう、それは居た! まるで待っていたかの
ように。甲冑姿の黒い影。見たのは間宮だけ
ではなかった。からだが硬直し、動けなくな
った。麻生が引き寄せられるように、ふらふ
ら前を行く。間宮は危うく引き止めた。こん
なにはっきり見たのは初めてだと、和志丸剛
毅も声を震わせた。――あれは何だったのか。
確かに見た。幻影とは思えない。そこは戦国
時代の古戦場跡らしいが、武州多摩郡に生ま
れ育った間宮には、もっと近しい、もっと生
々しい、そして血腥いもののように感じた。

〔発表:平成17(2005)年1月ML座会/初出:2005年5月号「短説」〈年鑑特集号〉/再録:「西向の山」upload:2005.8.25〕
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2005年4月22日 (金)

短説「雨と寝る桜」(成田弥宇さん追悼)推敲作

   雨と寝る桜
 
            
西山 正義
 
 あの日もこんな雨の日だった。
 今日四月十二日は、LIBIDOの成田弥
宇さんの命日。十六回忌である。LIBID
Oとは、一九八〇年代のインディーズ黎明期
において、一際異彩を放っていた伝説のロッ
クバンド。成田さんはそのリーダーで、作詞
作曲・ボーカル・ベースを担当。
 そのボーカルは一見金属的であるが、生な
肉声そのものだった。ベースは滑らかにうね
り、変則リズムを支えた。視覚的には、黒づ
くめの出で立ちに、白塗りの顔。そのライブ
は見る者、聞く者をゾクむぞッとさせた。
 詩人とロックンローラーは三十までに死な
なくてはならない。成田さんの場合、病死で
あるが、まさかそれを地で行くとは。
 はじめて会ったのは、僕が二十歳、成田さ
んが二十三。当時僕はある先輩の舎弟のよう
になっていたのだが、その先輩が成田さんと
幼馴染みだった。僕がロック少年であったの
で引き合わせてくれたのだ。
 ライブは欠かさず行った。内輪の打ち上げ
にも参加した。朝まで飲んだ。みんなへべれ
けになり、下戸の僕が機材を積んだバンドの
車を運転して帰ったこともある。
 最後に会ったのは、亡くなる五か月前。小
田原の病院に見舞いに行った。癌であった。
三十歳の誕生日を一ト月後に控え、その歌詞
「ぼくはこの道を あまりに急ぎすぎたか」
の通り、夭逝してしまった。
 実家はお寺さんで、住職を継いでいた。そ
の通夜の日、今日と同じような春の雨が降っ
ていた。境内に桜の大木があった。花はなか
ば散らずに残っていた。それが雨に濡れそぼ
っていた。夜の桜。桜に雨。「雨と寝る桜」
−というフレーズが僕に浮かんだ。「死んで
生まれた」と、成田さんも歌っていた。

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2005年1月24日 (月)

短説:作品「三具一柳子」(西山正義)

   三具一柳子
 
            
西山 正義
             サング
 母方の祖父の筆名である。三具とは珍しい
姓だが、これは本名。一柳子は俳号。祖父が
亡くなったのは、もう二十年近く前になるが、
現在、僕が同人雑誌をやったり、文芸ゼミの
OB会の世話役などをしているのは、実は、
このお祖父さんからの隔世遺伝かもしれない。
 明治三十六年、日本橋生まれの麻布育ち。
大正九年明治薬専卒。本職は薬剤師だが、薬
局経営の傍ら、今でいうレタリングやスチー
ル写真の現像はなかばプロだった。当時は珍
しい八ミリを戦時中も持ち歩いていたという。
そして俳句とヴァイオリン。多芸多才な粋人
で、祖母とともに世話好きでもあった。
 祖父の記憶は、薬とインクと煙草と万年床
の匂いとともにある。それと映写機が廻る音。
麻雀牌を掻き回す音。懐かしい牛込のあの家。
下町らしく、そこにはいつも人が集まり、そ
の中心に祖父と祖母の笑顔があった。
 同居していた幼児期は、祖父と都電に乗る
のが愉しみで、神保町へも都電で行った。僕
にとっては因縁の街。古書店街を初体験した
のだった。小学生になると、リトマス紙の実
験や将棋を教えてくれたり。最晩年、僕は高
校生。僕がエレキ・ギターを自慢しに行くと、
ヴァイオリンを取り出して、「荒城の月」を
弾きはじめた。そう、得意気に……。
 遺伝というより環境だろう。今思えば、知
らず知らずに一番影響を受けていたのは、薬
臭い調剤室で、ガリ版を切っていた姿かも。
祖父が関わった句誌の初期の号は、みな祖父
の手によって刷られている。僕が知る当時も
会報などはガリ版。所属する結社の庶務会計
等の事務一切を担当していたのだった。これ
は、まさに僕が今やっていることではないか。
 どうしてくれよう! ジジちゃん。
 時には疲れます。笑ってないで……。

〔発表:2000年2月第72回東葛座会/初出:2000年6月号「短説」&2000年6月「日&月」第8号/「西向の山」upload2005.1.25〕
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