短説論・作品批評

2020年9月 7日 (月)

短説の会へのレクイエム(4)

 この稿を3回書いたところで、未完のまま令和元年は暮れた。そして明けた令和2年は、2月の末頃から新型コロナウイルス感染症の世界的な大流行一色になった。緊急事態宣言から外出自粛になり、五月の大型連休はすっ飛び、長い梅雨に入った。やっと梅雨が明けたと思ったら、急激な猛暑・酷暑に見舞われ、そして間髪を入れずに台風の季節に突入した。
 平成の時代を一言で総括すれば「災害の時代」だったと言われている。それは令和も続きそうで、「異常気象」もそれが常態になりつつある。しかしもちろんそれと短説の衰退は何ら関係がない。

 平成21年(2009)の7月に月刊『短説』誌が休刊になり、それは事実上廃刊を意味し、川嶋杏子さんの死を契機に(おそらく理由はそれだけではないのだろうが)上尾座会が解散した。そして、短説の会は遅まきながらインターネットに活路を見出そうとするが、一歩も踏み出せないまま本部の機能は停止した。
 それでもその後、三つの流れがあった。
 一つは最も活況を呈していた関西座会で、本部が雑誌を出さない(出せないのなら)と、関西座会独自の雑誌を出したのである。これはあっぱれであった。
 年二回、半年間の座会から一人一作のアンソロジーである。『世界で一番短い小説 短説関西第〇集』と題されている。タイトル文字のレイアウトは、「短」と「説」が大きく印字されていて、「短説」に見えるように工夫されている。基本的には昔の「作品綴り」と変わらないが、ちゃんと印刷製本されている。正直、関西は金があるんだなあと思った記憶がある。いや、会員が多いので可能であったのだ。
 本部の雑誌が休刊になった翌年の平成22年(2010)4月に創刊され、10月に第二集が順調に出て、第三集「2011夏号」が5月31日に関西代表の道野重信さんから送られてきた。24作家が参加し、すなわち24作品収録されている。初めて見る名前もあり、関西座会の活況がうかがえた。
 しかし、その後私は第4号を受け取っていないし、その存在も確認できていない。私に送られて来ていないだけなのか、それとも文字通り「三号雑誌」で終わってしまったのか、それは不明であるが、どうも後者のような気がする。いやでも、その後も座会は続いていたようだ。関西座会の雰囲気から言えば、自然消滅というのはあまり考えられないから、座会は現在でも続けれているのかもしれない。

 もう一つは、同じく若い(といっても五十を過ぎているのだが)主宰者が率いる藤代日曜座会である。私より少し年上の吉田龍星さんから相談のメールを受け取ったのは平成26年(2014)5月の連休最終日。
 この時点で、その前から芦原修二さんは病気で、「ずっと講師不在の状態が続いており、いささかマンネリで、諸般の都合から辞める人も出て参りました」とあり、「短説誌も止まってしまっていますし、先生も再起は難しい状態のようで、どうぞ好きにやってくださいと言われてしまいました」と。これには私も少々呆れてしまったが、それだけもう病状は篤かったのでしょう。その年芦原さんは79歳。
 そして、「今年の新年会で話し合った結果、これではいけないということになり、皆さん一念発起し今年度から発表の場を独自に設けることになりました。一つは年鑑集の発行。もう一つはブログなどネット上で発表を行うというものです」と。
 年鑑というのは、関西座会と同じ発想で、これはやる気と資金さえあればできる。しかしその後、それが発行された形跡はない。
 そして私への相談は、やはりインターネットの利用について。
 少々長くなるが、当時のやり取りを思い出すために、私の返信を引用する。(改行などは普通の文章のように修正)
     *
「もう一つはブログなど」ということですが、「各自で」開設するということですか?
 これも、〇〇さんなど木座の人達が短説の会を退会したあと、2006年頃、『800字のショートショート』というようなタイトルで、ブログを開設していました。
 これは、一つのブログを何人かで共有して(要するにパスワードを共有して)一つのブログに何人かの会員がそろぞれに作品をアップして、コメント欄に感想を投稿するというものです。しかしこれも、たしか半年ぐらいで尻切れトンボになって閉鎖されました。
 ブログを立ち上げるのもいいのですが、要するに、みなさんが毎日のように積極的にアクセスし、じゃんじゃんコメントなどを投稿しないと、厳しいです。(というより、やっていて空しくなってきます)
    *
 それに続いて、短説の会の公式サイトや同人会員でホームページやブログを開設したことがある人の例を説明し、それらへの他の会員の反応、アクセスの状況を書き、
    *
 要するに何が言いたいかというと、例えば藤代のみなさんも、公式サイトにアップされたご自身の作品を果たして見たことがあるのか?
 せっかくネットで発表しても、それを見られないのでは意味がありません。
 ブログを開設する場合でも、手書きの生原稿を吉田さんに送って、吉田さんがパソコンに入力して、ブログなり掲示板などにアップするのでははっきり言ってダメです。
 以前の木座の試みも、少なくとも各自が自分で家のパソコンを起動し、インターネットにアクセスし、自分で作品を投稿し、コメントも自由に投稿できるというのが、最低限の条件でした。
     *
 以下、短説関係のブログのURLを列挙した。今では閉鎖されたブログも含めて種類(運営会社)は6つ、合計9つのブログ。 
 私の長いメールは、藤代座会でプリントして回され、吉田さんから報告された由。
 それでどうなったかというと、その翌月(2014年6月6日)、『月刊 短説マガジン ~藤日版~』として開設された。
 しかし案の定というか、予想通り、私が懸念した通りになった。一回の投稿で、その月の点盛りの順番に作品が列挙されているのだが、問題はその出稿方法である。藤代ではこの時点でも生原稿しか書けない人がおり、ワープロは使えてもパソコンは出来ない人もいる。要するに、元の生原稿(ワープロ打ちのものも含み)を吉田さんが打ち直して出稿しているのである。これでは、まったくもって話にならないのである。
 6月11日と7月28日に、5月と6月の座会分の作品がアップされたが、2回目からパスワード設定がなされ、私は中身を読むことができない。だからその後別の展開があったのかどうか知る由もないが、これも「三号雑誌」で終わった。2020年現在でもブログ自体は生きているが、この三回(三日間)以降更新されていない。
 短説にこれだけ長い年月関わっていながら、私は藤代日曜座会(と上尾座会)には一度も行ったことがない。それに関しては何だか申し訳ない気がしているが、どのように行われているかの雰囲気はわかる。たぶんそう間違った想像はしていないだろう。最初から予想された通りの結果であった。しかしそれでも、その後も座会が続いているとしたなら、それは立派なことだと思う。

 そして最後にもう一つの流れ。そもそもの源流である東京座会である。
 芦原修二さんとは1960年代の『秘夢』、70年代の『海とユリ』の頃からのもっとも古い同人であるすだとしおさんを中心に、短説の作品集(単行本)を一番多く出している秋葉信雄さんに、短説ではないが随筆の書籍を三冊出している喜多村蔦枝さんなどにより、今年のすださんからの年賀状によると、少なくとも令和2年の正月まで座会が続けられている。途中には中断もあったかもしれないが、軽く300回を越しているはずである。これはまあ本当にすごいことだと思う。 
 その後コロナでどうなったか不明だが、逆に少人数で細々とやっている分、緊急事態宣言が一応解除された現在は再開されているかもしれない。
 この三つの流れ、独自の雑誌(作品集)を出す、インターネットの利用、そして従来からの座会をひたすら続ける。そのでれもが正しいように思える。
 しかし、それにしても――。

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2019年12月27日 (金)

短説の会へのレクイエム(3)

 令和元年も暮れようとしている。来年は2020年である。こんな原稿を書いても虚しいだけだ。その後頓挫したままなのも、もはやこの稿を書き継いでゆく意欲が失われているからに他ならない。しかし、尻切れトンボというわけにはいかないだろう。やはり書いておくべきであろう。


 平成19年(2007)1月5日に藤代日曜座会の横山とよ子さんが亡くなられた。それ以前にも短説の会員で亡くなった方はあったかもしれないが、同人間に仲間の死が意識された最初であった。しかしこの時はまだ会が会として活動していたころで、月刊誌も発行され、野田座会が東葛座会に統合され、その東葛も活動停止となり、ほぼ同時に通信座会も頓挫していたが、関西座会は盛況で、東京、上尾、そして横山さんがいた藤代日曜座会も健在であったから、吉田龍星さんの尽力で横山さんの短説集『すみつかれ』が遺稿集として刊行された。
 その2年後の平成21年(2009)1月27日には、短説の会創立同人というよりは詩人の相生葉留実さんが他界した。21世紀以降はそれほど短説を書いてはいないが、かつては東葛座会で存在感のある存在だった。そして、『短説』平成19年と20年の6月号の〈年鑑特集号〉には、前の年1年分の全雑誌掲載の作品を細かく読み込んで批評した長文の「年間読後評」を2年にわたって発表していたのである。
 前記の通り同年7月に、芦原さんから短説の会での出版物の発行の取りやめが発表されたのであるが、その2か月後の9月24日、今度は上尾座会の初期からのメンバーでその中心の一人だった川嶋杏子さんが亡くなった。相生さんと川嶋さんの年齢は不詳だが、おそらく芦原さんと同じくらいか少し若い70歳代であったろう。横山さんが昭和7年生まれで享年74歳、相前後のすなわち同世代だと思う。川嶋さんの死を契機に、その年の12月の座会を最後に上尾座会は解散した。平成3年の発足から18年、212回開催された。自然消滅ではなく、はっきりと解散したのである。
 雑誌もなくなり、これはもう致し方ないであろう。そしてその頃に、原始時代に戻ってしまったかのような回覧作品綴りが送られてきたのである。おやまあ、やれやれ、と思ったわけであるが、それでもまだそのようなものでも送られてきたのは良かったのである。もしかしたら僕も無反応だったからいけなかったのかもしれないが、しかしそれは2回と続かず、以後音信不通になってしまったわけである。

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2019年7月23日 (火)

短説の会へのレクイエム(2)

 芦原修二さんから届いた「『短説』休刊のお知らせ」には、
「これを機に『短説』の発行業務を休み、まったく新たな構想で新体制に入ることに決心しました」
 とあり、
「今後は芦原の健康状態を考え、皆さまの作品を印刷物として制作することは中止し、インターネットのホームページ等で作品を読めるように工夫しようと東京座会の考えをまとめました」
 と結ばれていた。
 雑誌の発行停止はやむなしと思えた。短説の会ナンバー2のすだとしおさんにしても、おそらくナンバー3といってもいい個人集の単行本刊行に最も熱心な秋葉信雄さんにしても、月刊誌の発行を引き継ぐだけの余力はない。若手のリーダー二人、藤代日曜座会を牽引する吉田龍星さんにしても、最も若く才能豊かな関西座会の道野重信さんにしても、地方にいては「本部」の業務である雑誌発行を引き受けることはできないであろう。
 もしかしたら資質的に最も適任だったのは僕かもしれない。ML座会は担当していたが、雑務がいろいろあるリアルな座会運営からは外れていたし、もっと本質的なところで、その性格や資質の面で。しかし、自分からは声を挙げなかったし、そのような話を振られることもなかった。
 おそらく、芦原さんには、誰かに会の本部の運営を引き継いで、人に任せる気はこれっぽっちもなかったのであろう。なんとなれ、短説の会は、最初から最後まで芦原修二さんの会だったといえるのである。
 ともかく、機関誌の発行停止は致し方ないとして、会を解散するのではなく、次なる展開に移行しようと意志されていた。
 すなわちインターネットの活用である。これは僕も望むところであった。2000年の秋以降、日曜日は毎週ソフトボールをしていて、他にも地域のさまざまな行事を手伝うことになり、僕は日曜日の座会には参加できないのであった。また、平成21年当時は土曜日は仕事であった。かといって平日に、遠方の座会に出席するのも難しい。しかしインターネットであれば……。
 ところが、その年の暮れ近く、僕のもとに届いたのは、各座会の昔ながらの「作品綴り」(つまりワープロで印刷された各作品をコピーしたもの)をまとめただけの「回覧雑誌」だったのである。原始時代に戻ってしまったのかと思った。これにはもう僕は絶望した。インターネットに移行するだけの技量がまるでないのだ。

 ただ、インターネットの世界は、その後特にSNSの登場・発達・普及によってめまぐるしく変遷していて、10年前の平成21年当時はまだYahoo!のメーリングリストが無料で使えたのが、その後サービスを終了してしまった。
 短説の「メーリングリスト座会」は最初、水南森(五十嵐正人)さんの提唱で始められたものだが、2000年4月の開始当初はniftyで提供されていた有料のサービスを利用していた。翌年21世紀に入り、その機能や利用法の紹介と実演が、平成13年3月の短説15周年全国大会で披露された。その後niftyのサービス終了を受けて、西山正義がYahoo!の無料サービスを利用して運営に当たった。
 そのML座会は、リアルな座会とはまた異なったやり方ではあるが、座会として(すなわち、作品を提出して、合評会を行うという)機能だけでなく、短説の会の情報や意見交換など会の運営にも威力を発揮した。
 しかし、いかんせん参加人数が限られていた。はっきり言ってしまえば、当時、全会員が電子メールアドレスを持っていて、さらにそれを使いこなし、ML座会に参加してくれていたら状況は変わっていたであろう。
 ただしこのYahoo!メーリングリストも、そのサービス自体が2014年5月28日で終了となる。そうなると行き場を失うわけだが、もうこの頃になると、現在あるさまざまなSNSが登場しているので、みながMLに慣れていれば、他のSNSに乗り換えることは容易なことであったろう。
 SNSとはソーシャル・ネットワーキング・サービスの略で、現在では多種多様なサービスがあるが、要するに「インターネットを経由して人と人が交流できるサービスの総称」で、ウィキペディア(Wikipedia)では第一に「Web上で社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築可能にするサービスである」と説明されている。これは短説の会にもってこいではないか。使わない手はない。誰もがそう思うはずである。
 21世紀を10年以上過ぎた現在において、何らかの組織的な活動を行うなら、SNSの活用無くしてはあり得ないであろう。SNSは現在さらに進化し、パソコンよりむしろスマートホンでの活用の方が主流になってきて、最新の各種SNSはパソコン向き(つまり短説向き)ではあまりないが、広義のSNSサービスでいえば初期型のいわゆるウェブ掲示板やブログなどは平成21年当時すでに相当に普及していたのである。
 最も簡単なのはブログである。一つのブログを共有するのでもよいが、手っ取り早く各人がそれぞれにブログを開設し、そこに作品を発表し、もし通常の座会のように「点盛り」をしたければ、期日を決めて一斉にアップし、点盛りや批評は共用の掲示板を使えばよい。
 インターネットのホームページの最大の特徴は「ハイパーリンク」にあるので、公式サイトがその要になり、各個人のブログをリンクで結び、ネット上に短説の会のコミュニティを構築すればよいのである。
 そしてそれは、それほど難しいことではない。と、思っていたのは僕だけだったのでしょう。あるいは、僕と同世代かそれより下の短説の会では若い部類に入るごく少数の者だけだったのでしょう。
 もちろん、芦原修二さんも世の中そういう流れにあるというのは分かっていたはずで、だから今後は「インターネットのホームページ等で作品を読めるように工夫しようと」模索する意思はあったのだが、結局、そういう方向に、文字通り「一歩も」踏み出すことができなかったのである。これが、短説終焉の直接の理由である、と僕は思う。
 その他にも間接的な理由がいくつかあると思うが、それより、おそらく本質的な理由はもっと別なところにあるのだろうと思う。そしてそれは、文学結社としてむしろ自然な流れなのかもしれない。

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2019年7月20日 (土)

短説の会へのレクイエム(1)

 令和最初の投稿である。

 今日は令和元年(2019)7月20日。つまり、『短説』休刊から満10年が経ったわけだ。
 われらが短説の会の創始者であり主宰者である芦原修二さんが、平成21年(2009)6月21日東京座会の帰途、柏駅のホームで電車接触事故に遭い、それを契機に、翌7月21日付の書面で、文学結社の命である機関誌、月刊『短説』の休刊が発表された。
 雑誌の形として体裁を整えた月刊の『短説』は、昭和62年(1987)2月に行われた第18回座会(当時はまだ東京の神田神保町座会しかなかった)の「作品綴り」を冊子にまとめ、3月号と表示したのに始まる。
 その際、昭和60年(1985)9月の第1回座会から17回までの各座会の「作品綴り」と、それらとは別に雑誌の形で発行した季刊『短説』2冊をあわせて通巻20号とし、以後月刊化したのが雑誌『短説』である。
 以来、平成21年までの24年間、発行が大幅に遅れたり、合併号になることはあっても、休むことなく発行し続けてきた。その時々に応じて、同人の何人かが編集や校正に加わったりし、平成15年の7月号以降は数人の同人による編集担当制度が導入され、内容面でも実務面でも大きな成果を上げた。
 しかし、発刊以来常に最終的な編集作業は芦原修二さんの双肩にかかっているのには変わりなく、それどころか、発送等の雑務までほとんど一切を芦原さんが行っていた。
 その限界に突き当たったのが、芦原さんの健康上の問題であった。いや、もっとはっきり言えば、高齢化である。そこへ事故である。
 それで先の通り、平成21年7月21日付で、芦原修二さんより全会員に向けて、短説の会として印刷物制作の中止が発表された。それは直ちに発効され、その時点で編集が完了し、刊行を待つだけになっていた平成21年3月号(通巻281号)を最後にその発行がストップされた。
 因みに、その最後の号は僕が編集したもので、すでに4ヶ月も発行が遅れていたわけだ。次の道野重信さん担当の4月号はゲラ刷りまで完成していたが、未刊のままだ。さらに、すだとしおさん担当の6月号に当たる年鑑特集号も編集作業は進んでいたが、頓挫したまま。
 それから、10年が経ったのだ。
 今更、どうなるものでもない。
 短説の会の外部の人にはどうでもいいことだろう。いやそれどころか、かつて会に属していた人たちにとっても、もはや、どうでもいいことかもしれない。たぶんそうなのだろう。僕がこれだけ声を出しているのに、まるで反応がないのだから。
(その反応がないのは、かつてはパソコンとりわけインターネットがネックになっているのだろうと思っていたが、今や、そもそもこの世にいない人も多いからではないかという恐ろしい事実に突き当たるのである)。
 しかし、それでも、その後の顛末を、やはり文章に記しておきたい。

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2007年2月12日 (月)

評論「カエルの鳴き声から」芦原修二

-第五回藤代短説講座(平成三年一月)座会要約より-

茨城県北部の『艶笑小話』「カエルの鳴き声」から……
芦原 修二

 春の田んぼで、カエルが「ゲロゲロ、ゲロゲロ」と賑やかに鳴いています。あれはいったい、どんな会話をしているのでしょうか。これは茨城県北部の美和村に住む長岡正夫さんが父から伝え聞いたという話です。美和村のあたりでは裸のことをデンコというそうです。そして、
「田んぼの若いオスガエルは『デンコで来(こ)、デンコで来。裸で来、裸で来』と鳴いているそうです。それにメスガエルがこたえて『どこでやんの、どこでやんの、~~』。そこでオスガエルが『どこでもいい、どこでもいい、~~』。この騒ぎをきいて舅のカエルがつぶやきます。『バカバカシッ、バカバカシッ、~~』」
 話はこれだけです。きわめて短い。だいたい口承文芸はこんなふうに短いことが肝要で、短くなければ飽きられます。
 ここで気をつけてほしいのはなぜ「バカバカシイ」のか、舅の気持ちのよってきた理由が説明されていないことです。すなわち原葵さんのいう「ストーリーはあるがプロットがない」という言葉を思い返してほしいのです。つまり、舅のつぶやきの理由を書けば、それは説明です。説明文ほど読者を退屈させるものはありません。
 ところで、ここのところで舅の気持ちがよく解るという方がおられたら、その方はもう人生をだいぶやってこられた方に違いありません。
 子供にはわからないでしょう。子供はおそらく「デンコでこ」というあたりを理由なく面白がります。
 そして十八、九の若者なら「どこでもいい」という気持ちを心底理解するはずです。
 この話には『短説』に対するいくつかのサジェスチョンが含まれています。世間は、舅の「バカバカシイ」という気持ちもわかるようでなければ、小説は書けないとしています。それも事実です。が、さらに「どこでもいい」というような情熱も作者には必要で、それがなければ、書くという行為は持続できません。



〔発表:平成3年(1991)1月第5回藤代短説講座/初出:「短説」1991年3月号〕
Copyright (C) 1991-2007 ASHIHARA Shuji. All rights reserved.

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2006年11月23日 (木)

短説〈年鑑特集号〉について

 月刊『短説』12月号(のうち8月座会分)の編集を終え、さきほど芦原さんに入稿しました。
 以下、五十嵐正人同人からいただいたコメントに応えて、コメント欄ではなくあえて本欄に書き込みます。
 
 年鑑についてはご覧の通りです。他選集は、「年鑑」という意味では、記録的な側面だけでも意味のあるものだと思いますが、やはり自選集ですね。それと「三位選」への参加。
 今年で8回目ですが、年々減っています。会員数は増えてもいない代わりに減ってもいない。つまり、入れ替わってはいるのですが。ためしに数えてみました。
 99年(98年分)の35人から、2000年・21人、2001年・23人、2002年・18人、2003年・18人、2004年・13人、2005年・15人、そして今年も15人。特に今回は、荒井郁さん(通信座会)、道野重信さん(関西座会)を除くと、あとはすべて東京とMLのみです。
 そもそも、会員の間で月刊『短説』がどのようなポジションにあるのか。それは人それぞれでもいいと思いますが、他選はともかく、自選集は「作品発表の機会」でもあるわけだから、「総見」的に盛り上がってほしいと思うのは僕だけなのでしょうか。
 自選は有料ですが、自分たちで雑誌を出すことを思えば極めて安いもので、編集の手間がかかるわけでもなし、月刊誌でボツにされた作品を直して、ボツにした編集者をぎゃふんと言わせればいいじゃないか。いやそこまででなくても、昨年一年間に書いた自作で、出来不出来はともかく、個人的に愛着のある作品をみんなに読んでもらおうという気にならないのか。
 短説は、なにも〈短説の会〉に属していなくても書けるものです。最近ではブログなんていう手軽なものもあり、〈短説の会〉の座会にも出ず、個人的にウェブ上で発表することも可能です。実際そうした人もいますが、そして、それだけでいいと思うなら、それはそれでいいのですが……。
 短説は、座会に出て、批評や意見を聞いて、全面的に改稿したり、あっちこっち直したり、つまり推敲によって作品を磨くことが何よりも大事だと思うのだが。それはつまり他ならぬ自分と自分の作品のためだ。
 座会がまずその最初の機会だとすれば、雑誌はその次の機会です。雑誌発表作というのは、その時点での最終稿ではあるが、さらに直される可能性があっていいものです。
 これが長い小説だと、そうは言っても同人雑誌では次の発表の機会がないに等しい。僕は、『日&月』という雑誌に発表した小説を、その後相当手を入れていますが、手元に残しておくことしかできません(個人サイトに一部アップしてはいますが、誰が読むんじゃい!)。そこで合評会を開いても、その批評には虚しさがつきまとう。それが従来の小説同人雑誌の悩みだったのです。それを短説は、長さの関係もありますが、画期的なシステムを生み出し、クリアーしたのです。それにはワープロの登場とコピー機の普及なしには考えられないのですが、芦原修二氏を短説にかりたてたそもそもの原動力はそこにあったと思われます。(実際、短説の最初の〈雑誌〉である『季刊短説』創刊号の編集後記にそのようなことが記されています。最近の会員はなかなか目にすることはできないでしょうが)。
 だから、年鑑も会を盛り上げようとか、会に属しているからとかいうことではなく、作品をよりよくするための一つのチャンスなのです。そのために設けられているといってもいいものです。芦原さんの〈自選作〉や喜多村蔦枝さんの〈他選作〉をご覧ください。月刊誌掲載からさらに推敲され、タイトルが変更されています。一方は片仮名から平仮名へ、一方は逆に平仮名から片仮名への、一見小さな変更のようにしか見えませんが、その効果は確実に違います。喜多村さんは〈自選作〉もタイトルを一度変更し、さらに意見を聞いて元に戻しています。
 今度の12月号、実は、関西座会からはなんと22作も集まって来ていたのですが、結局1作しか選べませんでした。理由は、どう考えてももう少し直しが必要だろうというものばかりだったからです。関東の座会ではあまり見られないようなユニークな作品が多く、それなりに面白いのですが、まったく勿体ないことです。逆に上尾座会は4作でしたが、2作採用しました。しかし、〈天〉に選ばれた作品は、かつて通信座会に出されもので、そこでの批評がまったく活かされていない(というより推敲されていない)ものだったので、不採用としました。これもいいところがあるものだけに、“まったく”勿体ない限りです。

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2005年3月11日 (金)

通信座会/短説の書式/点盛りについて

 ML座会で、以下のような投稿がありました。それに関連して、その他+α気づいたことがありますので書き出しておきます。

 作品「○○○」についての通信座会での批評文読ませていただきました。作者があらかじめ判っているML座会との違いが面白いと思いました。MLでは点盛り座会の形式は難しいでしょうね。作者名があるかないかで、コメントも違ってくると思うのです。東葛の一月座会はかなり大胆な作品が出ます。匿名で、自分の作品を読み上げなくて済むからでしょうか。(東葛座会は普段は点盛りをせず、作者が自作を朗読して、合評を始める)

■通信座会のこと
 
 通信座会(これは現在では郵便座会といった方がいいかもしれませんが)も、長い間には若干メンバーの入れ代わりはあっても、ほぼ常連メンバーで固定されていますので、無記名で提出されていても、実際には作者が誰かというのはすぐ分かってしまいます。
 今回、私は6年ぶりに参加したのですが、月刊誌の編集で見ていたこともあり、ほかの8名の作者は完璧に分かりました。文章を読んで分かる以前に、ワープロの印字の特徴で、見ただけで分かってしまうものもあります。
 それでも、封筒を開け、一枚一枚作品を手に取るまでは、誰が参加しているかは分からないので、そういう意味ではほかの座会と違った面白みがあります。
 そこへ、予期せぬ参加者があると、これは誰だということになる。今回の私のはまさにそういう感じで、三位選が届くまでは誰も私だとは分からなかったと思います。通座もたまに飛び入り参加があると、刺激になっていいようですので、参加費が1,600円(80円切手20枚同封)かかってしまいますが、たまに参加してみると面白いですよ。
 
■短説のワープロ書式について
 
 無記名であろうとも、同じワープロで印刷しようが、よく読めば作者はたいてい分かりますので、それとは別の観点からですが、もう少しワープロの書式を合わせられないものかと思います。
 これはほかの座会のもそうですが、文字のレイアウトによってはスキャナーでよく読み取れないものがあります。また、ワープロはすでに製造されていないので、古いものを使っていて文字が潰れていたり、印字が薄いものなどは、まったく読み取れません。
 短説の縦書き二段組の書式・レイアウトは、もうずっと以前に、芦原さんが統一書式の見本を提示していて、「短説への招待」や単行本の年鑑、月刊「短説」のバックナンバーにも縮小版が載っています。機種による微妙な違いは仕方ないとして、なるべくこれに合わせてほしい、というのが編集部の希望です。
 
 全体的に、みなさん文字間隔や行間隔をとり過ぎている。注意を要するのは、この統一書式は、現在の月刊誌の「巻頭作」の二段組書式とは異なるということと、芦原さんの説明では数値が切り上げされているので、その通りに設定すると芦原さんの原稿より広くなってしまうという点です。
 公式サイトの「原稿の書き方」にも詳しく載っていますので、もう一度確認してみてください。
 まとめておくと以下の通り。(文字の大きさは10.5ポイント)
 
文字間隔は、3.72〜3.87mm
20字分で一行の長さが、74.4〜77.4mm
 
行間隔は、5.4〜5.9mm
20行分の横幅が、108〜118mmm
 
定型で書式設定できるなら、
文字間隔、20字あたり76mm
行間隔、20行あたり110mm
にすると、上記の平均値ぐらいになります。
 
 B5の用紙いっぱいに印刷すると、たしかにもっと文字間隔も行間隔もとれるのですが、余白が多めにあった方が美しいですし、スキャナーとの相性もいい。 
 
■MLでの点盛りについて
 
 これは可能です。Yahoo!グループには投票の機能がついていますので、それを利用すればできます。ただし、全員がYahoo! IDを所得して、新システムに移行し、ブラウザのMLのページから各メニューにアクセスしてくれないことには使えません。
 しかし、現状のままでも、もう一つできる方法があります。
 まず、締め切りを決める。各自は、それまでに私個人宛にメールで作品を送る。私はそれをまとめて(1通のメールにして)MLに配信する。送信者名は私になりますので、個々の作品は一応誰のだか分からないことになる。三位選(天・地・人・我を選ぶだけ)も各自は私個人に送り、集計して配信する。作品の感想は、集計後に各自がばらばらにアップしてもらえばいい(つまりいつもの通り)
 
 まあそこまでしなくても、ある程度作品が集まってくると、月ごとに、天・地・人・我の投票をしてもいいかもしれませんね。作者が分かっていても、自分の好みで選べばいいし、ほかの座会に出した作品も含めて、やってみるもの面白いでしょう。
 点盛りについては賛否がありますが、私は芦原さん同様に賛成派です。なぜその作品を選出するのか、なぜこの作品はいただけないのかということで、選ぶ方もより作品を読み、考えることになるからです。
 
 通信座会では全作品にコメントをつけるのですが、これが批評どころか感想にもなっていない方がいます。こういう方は上達しませんね。よく理解できないような作品でも、好みじゃない作品でも、一所懸命言葉を尽くしてコメントを書いてくる人は、やがて確実にいいものを書くようになっています。これは通座で実証されているといってもいいでしょう。
 ほかの座会でも同じことですが、人前ではなかなか発言できないという人もいます。そういう意味でも通座は勉強になります。しかし、かといって、感想を文章にするのはもっと難しいという方もいるでしょう。ある作品を読んで、思ったことを率直に述べよと言われても、思うように文章にできない。しかしこれは、自分の思いを作品でどう相手に伝えるかということにつながります。思いをなかなか伝えられないというのは、やはりその前に読みが足りないのではないか。
 だから感想も、ただ「なんとなく心ひかれた」とか「おもしろく読みました」とか、また「難しかったです」とか「よく分かりませんでした」といった一言だけで済ませずに、どこがどう心ひかれたのか、どこがどういうふうに面白かったのか、どこがどう難しいと思ったのか、よく分からないのはどういう部分なのか、ちゃんと言う(考える)べきだと思う。
 通座の寸評だって、相当時間をかけて考えないと書けない。かなりのエネルギーを要する。そんなことに労力を使うなら、自分の作品を書いた方がいいのじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、それはやがて自分に跳ね返ってくると思います。
 それに短説の場合、いずれみんな同人仲間なんだから、よく分からないような作品でも、細かいところまでもっとよく読んであげてもいいんじゃないか。と、そんなことを思ったりします。

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2005年3月 7日 (月)

「暗黒の井戸」論議

 先程紹介した短説のML座会に、2月17日付けでこのブログに書き込んだ「中井英夫の『無用者のうた』論から」を、同時に配信していました。月刊「短説」誌上でも活字になる予定ですが、まだ先のことなので、まずはここで、それについての芦原修二さんと私のやりとりを再現しておきます。
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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後1時15分
Subject: Re: [短説][00919] 中井英夫の「無用者のうた」論から
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 ―「無用者のうた」論から― 拝見しました
 
 西山さんから表記論文をお配りいただきありがとうございました。
 たいへんなつかしい気分で拝読しました。それというのは、当時「暗黒の井戸」といった認識が評判になり、私もそれを当時読んでいたからでしょう。どこで、いつ読んだかなどの細部は忘れておりましたが……西山さんのご指摘によって、44年前のことだったと知り、驚き、かつなつかしい気分になった次第です。
 もう間もなく半世紀前のことになるのですね。しかし、この論旨は、いまも真理であり、私自身にとっては、その根底にありつづけてきた、書くということの岩盤的認識でありました。
 ただ、短説を20年もつづけてきますと、会員に「よき家庭人」「よき市民」といった方々が多くなってきて、じつはこれが難問題になっています。「暗黒の井戸」これが、文章を書く事の根本理念だ、ということが、常識として理解されていないからです。そこでは、常套句花ざかりの、そしてちょっと気のきいた形容詞にあふれた、つまりどこに出しても、あたりさわりのない身辺雑事の「お上手なご報告文」ばかりになってきます。
 私が「形容詞」をできるだけ削るようにすすめ、また、常套句はまず第一に削ってしまうようすすめているのも、じつは、そうしたことによって、一見「よき家庭人」「よき社会人」も実は皆、その存在の奥に「暗黒の井戸」を持っていることを気づいてほしい、という思いがあるからです。その存在を気づいたところから、ほんとうに書く事、考えることがはじまるのだと信じているからです。人は、みんな、ことと場合によっては、刃物を持って学校に押し掛けないでもない存在です。そこに気づいていないと、読者にとって有意義な作品など生まれてくるはずがないのです。
 逆に、いくら探しても、自分の内側に、そのような「暗黒の井戸」がまったくないという方が、もしおられたとしたら、そうであること自体を追及さるべきでしょう。すると、そのこと自体が、その人にとっての「暗黒の井戸」であることが理解されてくでしょう。
 釈尊は自分の息子に「悪魔(ラゴラ)」という名をつけ、捨てています。
 自分は、「暗黒の井戸」を持たないと言えることは、自分が「釈尊をも凌ぐ聖人」だと自負することなのです。だとしたら、そのこと自体が、前記したとおりに、その人にとっての「暗黒の井戸」でなくて何でしょう。
 西山さん、いい時期にいい論文をいただきました。感謝します。
 
【芦原修二】
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From: 西山 正義
Date: 2005年2月21日(月) 午後5時31分
Subject: Re: [短説][00936] 「無用者のうた」論から
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 芦原様 お忙しい中ご返信ありがとうございます。
 
 一言申し添えておくと、私も芦原さんも、「よき家庭人」「よき市民」を批判しているわけではありません。昔は文学者は無頼漢どころか時に犯罪者でもあったのですが、現在ではそんなことはありません。職業作家といえども、実生活ではごく普通の市民であり、よき家庭人だったりします。
 むしろ、そうしたごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要です。
 
 先頃の寝屋川市の小学校教職員殺傷事件にしても、池田小の事件にしても、酒鬼薔薇事件にしても、小学生の子供を持つ親としては、全く許しがたい事件ですが、その犯罪が自分とは無関係だと考えるのは不遜というものです。佐世保の小学生が同級生を殺してしまった事件も、大人の目からは驚愕に値するように見えますが、本当にそうか。多くのニュースや各種報道に不満を覚えるのは、アナウンサーもコメンテーターも聖人面していることです。
 たしかに、実際に犯罪を犯すか犯さないかの違いは、大きな違いかもしれない。しかし、単に小心だから犯罪を犯さずに済んでいる場合もある。可能性として心の裡に秘めているのと、ある意味では五十歩百歩といえる。だから、キリスト教では心に思っただけで罪とされるわけで、この認識は正しい。
 キリスト教ではそれを懺悔という形で救済するわけだが、文学もこれと同じ機能を担っているといえる面がある。芦原さんも「少年達はなぜ小説を書くのか」で同じようなことをおっしゃっておられますが、もしかしたら小説は犯罪を犯さないで済ませるための装置かもしれない。
 実際、自分の親やきょうだい、子供、友人、恋人、妻や夫を、心の中で一度でも殺したことがない人などいるでしょうか。
 だからこそ、その取り扱いには厳格な注意が必要だということだ。 
 
 佐世保の小学生がホームページ内で実際にどんなやりとりをしていたのかは詳らかではありませんが、「言葉」によって人を殺人に駆り立てることもあるということではないか。
 インターネットで一つ危惧されるのは、誰もが簡単に情報・意見を発信できるようになったのはいいとしても、ものを書くに当たって、それ相当の覚悟と、言葉が持つ魔的な作用を認識していないと、一部の掲示板ですでにそうなっているように、全くの無法地帯になってしまうということだ。たとえ匿名でも、その責任の所在は作者自身にあるのは変わらない。ただ、匿名ネットでは、その所在の追求が難しいというだけに過ぎない。
 最初の論点からちょっとズレますが、車を運転するには免許が必要だ。文章を書いて発表するのに免許は要らない。しかし本当はそうではないのだ。なぜなら言葉は剣と同じだから。ところが、学校でもどこでも誰も教えてくれない。無免許運転はともかく、それでも事故が起きる。小学生でも簡単にホームページが開ける時代になった。ことばは悪いですが「キチガイに刃物」状態にもなりかねないのだ。
 
 しかし、こう考えてくると、当たり障りのないもの以外、何も発言できないことになってしまう。そこでわれわれ短説は、もう一歩進めなければならない。
 言葉によって人を傷つ、自分をも傷つけるということを十分認識した上で、なおかつ言葉の剣ではらわたを抉り出さなければいけないのだ。
 これを自覚しているのと、無意識・無自覚・単に無知でやるのでは大違いである。まともな職業作家はそれを承知しているから、時に抑制することもあるが、素人が無自覚でやると前述の通り危険なことになる。しかし、危険を承知で、それでも「書かざるを得なくなる」のが文学である。いや、私は文学をやっているつもりはないという議論もあるでしょうから、文章と言い直してもいい。
 
 現在は、小説よりもゲームの方が正直かもしれない。今回の小学校事件もゲームの影響が云々されているけれども、ゲームのシュミレーションやバーチャル体験によって、逆に犯罪に走らないでいるケースもあるのではないか。犯罪に到っていないのだから、検証の仕様がないが。ビートルズのある歌を聞いていたら人を殺したくなって殺したという事件が、かつて実際に起こったが、実は逆のケース、つまり犯罪が起こらなかったということの方が多いのではないか。
 
【西山正義】
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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後9時14分
Subject: Re: [短説][00937] 「無用者のうた」論から
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 ふたたび「暗黒の井戸」について
 
 西山さん、今度の論考で、いっそう問題点を明らかにされたことをうれしく思います。おっしゃる通りに《ごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要》で、そのとおりなんです。
 私は、西山さんの今回の論考を「月刊短説」に転載させてもらいたいと思います。ネットを読んでいない人にも、この問題を十分に考えてもらいたいと思います。この論義を経過した後になら、きっと文章を書く事に覚悟を持った人が出てくるだろうと思います。
 よき家庭人、よき社会人に、なぜ《暗黒の井戸》を覗き込んで、短説を書く事をすすめているのか、その本当の意味もわかってくるように思います。
(後略)
 
【芦原修二】
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(以上「短説ML座会」より)

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2005年2月17日 (木)

中井英夫の「無用者のうた」論から

 1月30日付の記事「歌人論・歌人伝について」の最後に、「本当は今日、本題にしたかったのは、中井英夫が六十年代初頭に書いた『現代短歌論』の中に、小説や詩の現在にも通ずる問題点が書かれてあったので、引用しようと思ったのだが、それはまたこの次に譲る」と書いた。原典を図書館に返却しなければならないので、とりあえず抜き書きしておく。
 2001年11月発行の国文社版「現代歌人文庫(第2期)40」の『中井英夫短歌論集』所収、「無用者のうた−戦後新人白書」(初出は「短歌」1961年12月号)より。

 いまでも概ねはそうだが、歌人は一様に人格者で、健康すぎるほど晴朗な社会人にあふれている。久しい間、平明な生活詠が第一条件とされてきた歌壇には、むしろそれも当然のことで、律儀な身辺報告に終始している以上、異端の意識は入りこむ隙もない。だが、文学者としてはこれくらい滑稽な話はなく、裡に深い暗黒の井戸も持たず、何を創ろうというのだろう。川端康成が今度の文化勲章を受けるに際して、文学者というのは無頼漢ですからね、といった意味での、精神の無頼性をつゆ(原文傍点あり)持つことなく、小心で身仕舞のいい人格者が、何を人に語ろうというのか。いまなお、もろもろの結社誌では、人格陶冶のための作歌とか、誠実な生活だけがすぐれた短歌を生むとかいうスローガンを恬然と掲げているけれども、思い上がりも甚だしいといわねばならぬ。(中略)塚本でも葛原でも、その後の中城ふみ子でも、編集者としてその登場に希ったのは、前衛派の擡頭だの反写実だのということではない。文学はもう少しダメな魂の産物だという、最初からの約束事を確かにしておきたいだけといってもよい。

 どうだろう。今から四十四年前に書かれた論考である。が、現在でも概ねそうだといわねばらぬ。私は現代歌壇に明るいわけではない。だから、ここにいう歌人/短歌を、作家/小説・エッセイ、詩人/詩、俳人/俳句、いや、物書き全般と読み替えればいい。すべてがそうだとは言わぬまでも、見事に正鵠を射っている。
 短説はどうか。私の興味は実はそこにある。少なくとも、主宰者の芦原修二氏をはじめ一部の書き手は、川端康成が言ったような意味での無頼漢であり、その作品の裡には深い暗黒の井戸があり、ぽっかりと深淵が口を開けている。しかし、短説の会全体で言えば、やはり中井英夫が指摘したようなことが言えるのだ。
 短説は、短歌や詩ほどではないが、小説に較べてより広い書き手を得た。芦原氏もそれを推進してきた。文芸評論家の小川和佑氏が批判するところの「参加の文学」をあえて許容してきた。しかし、物書きとしての根本的な姿勢という点で、芦原氏にもジレンマがあるのだ。
 つまり、両者の言う「参加の文学」は、微妙に意味合いが異なり、芦原氏も小川氏が批判するような「参加の文学」を認めているわけではなく、実は小川氏も芦原氏も中井英夫も、まったく同じ地平に立脚していると言わざるを得ないのである。
 そもそもここで「物書き」などという言葉を持ち出す時点で、おそらく意識の違いが出てくるのだろうが、ものを書いて発表するということは、それがたとえ小集団の中であっても、プロだろうがアマチュアだろうが、意識が違かろうがお遊びや道楽のつもりだろうが、事情はまったく一緒で、すべてに適用される厳しい掟がある。一言で言ってしまえば、それはいずれにしろ、地獄への片道切符、である(はずなのだが)。

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2005年2月 4日 (金)

時節を詠む短説:節分

 もう昨日になってしまいましたが、昨日は節分。短説のメーリングリスト座会にも、沖縄の二十歳の学生が、豆まきの行事に関する「節分」という作品をアップしてくれました。その作品をここで公開するわけにはいきませんが、その読後評を若干補足して、このブログにアップします。
 
「節分」拝読
 
 実は今日、近隣氏子の世話人になっているので、氏神様である神社の節分祭に行ってきました。神殿でお祀りし、御祓いを受けた福豆を貰い受け、近所の氏子に配るのです。
 家内は昔から新選組フリークで、NHKの「新選組!」で土方歳三と井上源三郎を演じた役者が来るというので、わざわざ日野の高幡不動尊まで行きました。
 神主が祝詞を奏上している間も、短説のことを考えていたのでが、先を越されましたね。
 
 節分に限らず祭礼行事や習俗は、地方によってやり方がかなり違ったりするものですが、沖縄も基本的には変わらないんですね。
 太巻きを必ず食べるとか、鰯の頭を柊の枝に串刺しにしたものを玄関に飾るというような風習は関東にはありません。また、仙台では、撒く豆が落花生だったりします。殻つきの落花生なら,たしかに撒いたあと拾って食べられるのですが、何か違うような変な感じ。
 
 さて、作品ですが、会話だけで十分わかります。というより、会話だけにして正解だと思います。最後言いたかったことを地の文で書いてしまったら、テーマの説明になってしまいますし、光彦爺ちゃんの悲哀のようなものが余韻として残らないでしょう。
 爺ちゃんの言うのは正しく、「伝統行事はちゃんとせねばならんのじゃ」。
 
 それから、豆まきの掛け声ですが、僕も語感としては、「鬼は外、福は内」で違和感はないのですが、正式?には、最初に「福は内、福は内、福は内」と三回復唱し、次に「鬼は外、鬼は外」と二回復唱するようです。いやこれにはいろいろやり方があるのでしょうが。
 また、豆を投げる時、「福は内」の時は、掌を上向きに下手投げで、福が逃げないようになるべく近くに撒き、「鬼は外」の時は、野球のオーバースローのようになるべく遠くに投げるというような作法もあるようです。
 まあ家庭でやる場合はそんな作法にとらわれる必要はないのですが、こうした祭礼行事には、すべて意味があり、日本人の生活に密着したものです。たとえ現代では自然と離れた生活をしていても、だからこそ逆に、次代にも受け継いでいくべきものでしょうね。
 余談ですが、高幡不動の豆はふっくらしていて美味しかったです。最近「タウンワーク」のCMに出ているドラマーのつのだひろ(あの伝説のバンド・ジャックスのドラマー)は、地元らしく毎年高幡不動の豆まきに参加しているそうです。それにしても、年の数だけ食べるのが年々きつくなってきました。
 タイムリーないい作品でした。

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