短説論・作品批評

2007年2月12日 (月)

評論「カエルの鳴き声から」芦原修二

-第五回藤代短説講座(平成三年一月)座会要約より-

茨城県北部の『艶笑小話』「カエルの鳴き声」から……
芦原 修二

 春の田んぼで、カエルが「ゲロゲロ、ゲロゲロ」と賑やかに鳴いています。あれはいったい、どんな会話をしているのでしょうか。これは茨城県北部の美和村に住む長岡正夫さんが父から伝え聞いたという話です。美和村のあたりでは裸のことをデンコというそうです。そして、
「田んぼの若いオスガエルは『デンコで来(こ)、デンコで来。裸で来、裸で来』と鳴いているそうです。それにメスガエルがこたえて『どこでやんの、どこでやんの、~~』。そこでオスガエルが『どこでもいい、どこでもいい、~~』。この騒ぎをきいて舅のカエルがつぶやきます。『バカバカシッ、バカバカシッ、~~』」
 話はこれだけです。きわめて短い。だいたい口承文芸はこんなふうに短いことが肝要で、短くなければ飽きられます。
 ここで気をつけてほしいのはなぜ「バカバカシイ」のか、舅の気持ちのよってきた理由が説明されていないことです。すなわち原葵さんのいう「ストーリーはあるがプロットがない」という言葉を思い返してほしいのです。つまり、舅のつぶやきの理由を書けば、それは説明です。説明文ほど読者を退屈させるものはありません。
 ところで、ここのところで舅の気持ちがよく解るという方がおられたら、その方はもう人生をだいぶやってこられた方に違いありません。
 子供にはわからないでしょう。子供はおそらく「デンコでこ」というあたりを理由なく面白がります。
 そして十八、九の若者なら「どこでもいい」という気持ちを心底理解するはずです。
 この話には『短説』に対するいくつかのサジェスチョンが含まれています。世間は、舅の「バカバカシイ」という気持ちもわかるようでなければ、小説は書けないとしています。それも事実です。が、さらに「どこでもいい」というような情熱も作者には必要で、それがなければ、書くという行為は持続できません。



〔発表:平成3年(1991)1月第5回藤代短説講座/初出:「短説」1991年3月号〕
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2006年11月23日 (木)

短説〈年鑑特集号〉について

 月刊『短説』12月号(のうち8月座会分)の編集を終え、さきほど芦原さんに入稿しました。
 以下、五十嵐正人同人からいただいたコメントに応えて、コメント欄ではなくあえて本欄に書き込みます。
 
 年鑑についてはご覧の通りです。他選集は、「年鑑」という意味では、記録的な側面だけでも意味のあるものだと思いますが、やはり自選集ですね。それと「三位選」への参加。
 今年で8回目ですが、年々減っています。会員数は増えてもいない代わりに減ってもいない。つまり、入れ替わってはいるのですが。ためしに数えてみました。
 99年(98年分)の35人から、2000年・21人、2001年・23人、2002年・18人、2003年・18人、2004年・13人、2005年・15人、そして今年も15人。特に今回は、荒井郁さん(通信座会)、道野重信さん(関西座会)を除くと、あとはすべて東京とMLのみです。
 そもそも、会員の間で月刊『短説』がどのようなポジションにあるのか。それは人それぞれでもいいと思いますが、他選はともかく、自選集は「作品発表の機会」でもあるわけだから、「総見」的に盛り上がってほしいと思うのは僕だけなのでしょうか。
 自選は有料ですが、自分たちで雑誌を出すことを思えば極めて安いもので、編集の手間がかかるわけでもなし、月刊誌でボツにされた作品を直して、ボツにした編集者をぎゃふんと言わせればいいじゃないか。いやそこまででなくても、昨年一年間に書いた自作で、出来不出来はともかく、個人的に愛着のある作品をみんなに読んでもらおうという気にならないのか。
 短説は、なにも〈短説の会〉に属していなくても書けるものです。最近ではブログなんていう手軽なものもあり、〈短説の会〉の座会にも出ず、個人的にウェブ上で発表することも可能です。実際そうした人もいますが、そして、それだけでいいと思うなら、それはそれでいいのですが……。
 短説は、座会に出て、批評や意見を聞いて、全面的に改稿したり、あっちこっち直したり、つまり推敲によって作品を磨くことが何よりも大事だと思うのだが。それはつまり他ならぬ自分と自分の作品のためだ。
 座会がまずその最初の機会だとすれば、雑誌はその次の機会です。雑誌発表作というのは、その時点での最終稿ではあるが、さらに直される可能性があっていいものです。
 これが長い小説だと、そうは言っても同人雑誌では次の発表の機会がないに等しい。僕は、『日&月』という雑誌に発表した小説を、その後相当手を入れていますが、手元に残しておくことしかできません(個人サイトに一部アップしてはいますが、誰が読むんじゃい!)。そこで合評会を開いても、その批評には虚しさがつきまとう。それが従来の小説同人雑誌の悩みだったのです。それを短説は、長さの関係もありますが、画期的なシステムを生み出し、クリアーしたのです。それにはワープロの登場とコピー機の普及なしには考えられないのですが、芦原修二氏を短説にかりたてたそもそもの原動力はそこにあったと思われます。(実際、短説の最初の〈雑誌〉である『季刊短説』創刊号の編集後記にそのようなことが記されています。最近の会員はなかなか目にすることはできないでしょうが)。
 だから、年鑑も会を盛り上げようとか、会に属しているからとかいうことではなく、作品をよりよくするための一つのチャンスなのです。そのために設けられているといってもいいものです。芦原さんの〈自選作〉や喜多村蔦枝さんの〈他選作〉をご覧ください。月刊誌掲載からさらに推敲され、タイトルが変更されています。一方は片仮名から平仮名へ、一方は逆に平仮名から片仮名への、一見小さな変更のようにしか見えませんが、その効果は確実に違います。喜多村さんは〈自選作〉もタイトルを一度変更し、さらに意見を聞いて元に戻しています。
 今度の12月号、実は、関西座会からはなんと22作も集まって来ていたのですが、結局1作しか選べませんでした。理由は、どう考えてももう少し直しが必要だろうというものばかりだったからです。関東の座会ではあまり見られないようなユニークな作品が多く、それなりに面白いのですが、まったく勿体ないことです。逆に上尾座会は4作でしたが、2作採用しました。しかし、〈天〉に選ばれた作品は、かつて通信座会に出されもので、そこでの批評がまったく活かされていない(というより推敲されていない)ものだったので、不採用としました。これもいいところがあるものだけに、“まったく”勿体ない限りです。

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2005年3月11日 (金)

通信座会/短説の書式/点盛りについて

 ML座会で、以下のような投稿がありました。それに関連して、その他+α気づいたことがありますので書き出しておきます。

 作品「○○○」についての通信座会での批評文読ませていただきました。作者があらかじめ判っているML座会との違いが面白いと思いました。MLでは点盛り座会の形式は難しいでしょうね。作者名があるかないかで、コメントも違ってくると思うのです。東葛の一月座会はかなり大胆な作品が出ます。匿名で、自分の作品を読み上げなくて済むからでしょうか。(東葛座会は普段は点盛りをせず、作者が自作を朗読して、合評を始める)

■通信座会のこと
 
 通信座会(これは現在では郵便座会といった方がいいかもしれませんが)も、長い間には若干メンバーの入れ代わりはあっても、ほぼ常連メンバーで固定されていますので、無記名で提出されていても、実際には作者が誰かというのはすぐ分かってしまいます。
 今回、私は6年ぶりに参加したのですが、月刊誌の編集で見ていたこともあり、ほかの8名の作者は完璧に分かりました。文章を読んで分かる以前に、ワープロの印字の特徴で、見ただけで分かってしまうものもあります。
 それでも、封筒を開け、一枚一枚作品を手に取るまでは、誰が参加しているかは分からないので、そういう意味ではほかの座会と違った面白みがあります。
 そこへ、予期せぬ参加者があると、これは誰だということになる。今回の私のはまさにそういう感じで、三位選が届くまでは誰も私だとは分からなかったと思います。通座もたまに飛び入り参加があると、刺激になっていいようですので、参加費が1,600円(80円切手20枚同封)かかってしまいますが、たまに参加してみると面白いですよ。
 
■短説のワープロ書式について
 
 無記名であろうとも、同じワープロで印刷しようが、よく読めば作者はたいてい分かりますので、それとは別の観点からですが、もう少しワープロの書式を合わせられないものかと思います。
 これはほかの座会のもそうですが、文字のレイアウトによってはスキャナーでよく読み取れないものがあります。また、ワープロはすでに製造されていないので、古いものを使っていて文字が潰れていたり、印字が薄いものなどは、まったく読み取れません。
 短説の縦書き二段組の書式・レイアウトは、もうずっと以前に、芦原さんが統一書式の見本を提示していて、「短説への招待」や単行本の年鑑、月刊「短説」のバックナンバーにも縮小版が載っています。機種による微妙な違いは仕方ないとして、なるべくこれに合わせてほしい、というのが編集部の希望です。
 
 全体的に、みなさん文字間隔や行間隔をとり過ぎている。注意を要するのは、この統一書式は、現在の月刊誌の「巻頭作」の二段組書式とは異なるということと、芦原さんの説明では数値が切り上げされているので、その通りに設定すると芦原さんの原稿より広くなってしまうという点です。
 公式サイトの「原稿の書き方」にも詳しく載っていますので、もう一度確認してみてください。
 まとめておくと以下の通り。(文字の大きさは10.5ポイント)
 
文字間隔は、3.72〜3.87mm
20字分で一行の長さが、74.4〜77.4mm
 
行間隔は、5.4〜5.9mm
20行分の横幅が、108〜118mmm
 
定型で書式設定できるなら、
文字間隔、20字あたり76mm
行間隔、20行あたり110mm
にすると、上記の平均値ぐらいになります。
 
 B5の用紙いっぱいに印刷すると、たしかにもっと文字間隔も行間隔もとれるのですが、余白が多めにあった方が美しいですし、スキャナーとの相性もいい。 
 
■MLでの点盛りについて
 
 これは可能です。Yahoo!グループには投票の機能がついていますので、それを利用すればできます。ただし、全員がYahoo! IDを所得して、新システムに移行し、ブラウザのMLのページから各メニューにアクセスしてくれないことには使えません。
 しかし、現状のままでも、もう一つできる方法があります。
 まず、締め切りを決める。各自は、それまでに私個人宛にメールで作品を送る。私はそれをまとめて(1通のメールにして)MLに配信する。送信者名は私になりますので、個々の作品は一応誰のだか分からないことになる。三位選(天・地・人・我を選ぶだけ)も各自は私個人に送り、集計して配信する。作品の感想は、集計後に各自がばらばらにアップしてもらえばいい(つまりいつもの通り)
 
 まあそこまでしなくても、ある程度作品が集まってくると、月ごとに、天・地・人・我の投票をしてもいいかもしれませんね。作者が分かっていても、自分の好みで選べばいいし、ほかの座会に出した作品も含めて、やってみるもの面白いでしょう。
 点盛りについては賛否がありますが、私は芦原さん同様に賛成派です。なぜその作品を選出するのか、なぜこの作品はいただけないのかということで、選ぶ方もより作品を読み、考えることになるからです。
 
 通信座会では全作品にコメントをつけるのですが、これが批評どころか感想にもなっていない方がいます。こういう方は上達しませんね。よく理解できないような作品でも、好みじゃない作品でも、一所懸命言葉を尽くしてコメントを書いてくる人は、やがて確実にいいものを書くようになっています。これは通座で実証されているといってもいいでしょう。
 ほかの座会でも同じことですが、人前ではなかなか発言できないという人もいます。そういう意味でも通座は勉強になります。しかし、かといって、感想を文章にするのはもっと難しいという方もいるでしょう。ある作品を読んで、思ったことを率直に述べよと言われても、思うように文章にできない。しかしこれは、自分の思いを作品でどう相手に伝えるかということにつながります。思いをなかなか伝えられないというのは、やはりその前に読みが足りないのではないか。
 だから感想も、ただ「なんとなく心ひかれた」とか「おもしろく読みました」とか、また「難しかったです」とか「よく分かりませんでした」といった一言だけで済ませずに、どこがどう心ひかれたのか、どこがどういうふうに面白かったのか、どこがどう難しいと思ったのか、よく分からないのはどういう部分なのか、ちゃんと言う(考える)べきだと思う。
 通座の寸評だって、相当時間をかけて考えないと書けない。かなりのエネルギーを要する。そんなことに労力を使うなら、自分の作品を書いた方がいいのじゃないかと思う人もいるかもしれませんが、それはやがて自分に跳ね返ってくると思います。
 それに短説の場合、いずれみんな同人仲間なんだから、よく分からないような作品でも、細かいところまでもっとよく読んであげてもいいんじゃないか。と、そんなことを思ったりします。

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2005年3月 7日 (月)

「暗黒の井戸」論議

 先程紹介した短説のML座会に、2月17日付けでこのブログに書き込んだ「中井英夫の『無用者のうた』論から」を、同時に配信していました。月刊「短説」誌上でも活字になる予定ですが、まだ先のことなので、まずはここで、それについての芦原修二さんと私のやりとりを再現しておきます。
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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後1時15分
Subject: Re: [短説][00919] 中井英夫の「無用者のうた」論から
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 ―「無用者のうた」論から― 拝見しました
 
 西山さんから表記論文をお配りいただきありがとうございました。
 たいへんなつかしい気分で拝読しました。それというのは、当時「暗黒の井戸」といった認識が評判になり、私もそれを当時読んでいたからでしょう。どこで、いつ読んだかなどの細部は忘れておりましたが……西山さんのご指摘によって、44年前のことだったと知り、驚き、かつなつかしい気分になった次第です。
 もう間もなく半世紀前のことになるのですね。しかし、この論旨は、いまも真理であり、私自身にとっては、その根底にありつづけてきた、書くということの岩盤的認識でありました。
 ただ、短説を20年もつづけてきますと、会員に「よき家庭人」「よき市民」といった方々が多くなってきて、じつはこれが難問題になっています。「暗黒の井戸」これが、文章を書く事の根本理念だ、ということが、常識として理解されていないからです。そこでは、常套句花ざかりの、そしてちょっと気のきいた形容詞にあふれた、つまりどこに出しても、あたりさわりのない身辺雑事の「お上手なご報告文」ばかりになってきます。
 私が「形容詞」をできるだけ削るようにすすめ、また、常套句はまず第一に削ってしまうようすすめているのも、じつは、そうしたことによって、一見「よき家庭人」「よき社会人」も実は皆、その存在の奥に「暗黒の井戸」を持っていることを気づいてほしい、という思いがあるからです。その存在を気づいたところから、ほんとうに書く事、考えることがはじまるのだと信じているからです。人は、みんな、ことと場合によっては、刃物を持って学校に押し掛けないでもない存在です。そこに気づいていないと、読者にとって有意義な作品など生まれてくるはずがないのです。
 逆に、いくら探しても、自分の内側に、そのような「暗黒の井戸」がまったくないという方が、もしおられたとしたら、そうであること自体を追及さるべきでしょう。すると、そのこと自体が、その人にとっての「暗黒の井戸」であることが理解されてくでしょう。
 釈尊は自分の息子に「悪魔(ラゴラ)」という名をつけ、捨てています。
 自分は、「暗黒の井戸」を持たないと言えることは、自分が「釈尊をも凌ぐ聖人」だと自負することなのです。だとしたら、そのこと自体が、前記したとおりに、その人にとっての「暗黒の井戸」でなくて何でしょう。
 西山さん、いい時期にいい論文をいただきました。感謝します。
 
【芦原修二】
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From: 西山 正義
Date: 2005年2月21日(月) 午後5時31分
Subject: Re: [短説][00936] 「無用者のうた」論から
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 芦原様 お忙しい中ご返信ありがとうございます。
 
 一言申し添えておくと、私も芦原さんも、「よき家庭人」「よき市民」を批判しているわけではありません。昔は文学者は無頼漢どころか時に犯罪者でもあったのですが、現在ではそんなことはありません。職業作家といえども、実生活ではごく普通の市民であり、よき家庭人だったりします。
 むしろ、そうしたごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要です。
 
 先頃の寝屋川市の小学校教職員殺傷事件にしても、池田小の事件にしても、酒鬼薔薇事件にしても、小学生の子供を持つ親としては、全く許しがたい事件ですが、その犯罪が自分とは無関係だと考えるのは不遜というものです。佐世保の小学生が同級生を殺してしまった事件も、大人の目からは驚愕に値するように見えますが、本当にそうか。多くのニュースや各種報道に不満を覚えるのは、アナウンサーもコメンテーターも聖人面していることです。
 たしかに、実際に犯罪を犯すか犯さないかの違いは、大きな違いかもしれない。しかし、単に小心だから犯罪を犯さずに済んでいる場合もある。可能性として心の裡に秘めているのと、ある意味では五十歩百歩といえる。だから、キリスト教では心に思っただけで罪とされるわけで、この認識は正しい。
 キリスト教ではそれを懺悔という形で救済するわけだが、文学もこれと同じ機能を担っているといえる面がある。芦原さんも「少年達はなぜ小説を書くのか」で同じようなことをおっしゃっておられますが、もしかしたら小説は犯罪を犯さないで済ませるための装置かもしれない。
 実際、自分の親やきょうだい、子供、友人、恋人、妻や夫を、心の中で一度でも殺したことがない人などいるでしょうか。
 だからこそ、その取り扱いには厳格な注意が必要だということだ。 
 
 佐世保の小学生がホームページ内で実際にどんなやりとりをしていたのかは詳らかではありませんが、「言葉」によって人を殺人に駆り立てることもあるということではないか。
 インターネットで一つ危惧されるのは、誰もが簡単に情報・意見を発信できるようになったのはいいとしても、ものを書くに当たって、それ相当の覚悟と、言葉が持つ魔的な作用を認識していないと、一部の掲示板ですでにそうなっているように、全くの無法地帯になってしまうということだ。たとえ匿名でも、その責任の所在は作者自身にあるのは変わらない。ただ、匿名ネットでは、その所在の追求が難しいというだけに過ぎない。
 最初の論点からちょっとズレますが、車を運転するには免許が必要だ。文章を書いて発表するのに免許は要らない。しかし本当はそうではないのだ。なぜなら言葉は剣と同じだから。ところが、学校でもどこでも誰も教えてくれない。無免許運転はともかく、それでも事故が起きる。小学生でも簡単にホームページが開ける時代になった。ことばは悪いですが「キチガイに刃物」状態にもなりかねないのだ。
 
 しかし、こう考えてくると、当たり障りのないもの以外、何も発言できないことになってしまう。そこでわれわれ短説は、もう一歩進めなければならない。
 言葉によって人を傷つ、自分をも傷つけるということを十分認識した上で、なおかつ言葉の剣ではらわたを抉り出さなければいけないのだ。
 これを自覚しているのと、無意識・無自覚・単に無知でやるのでは大違いである。まともな職業作家はそれを承知しているから、時に抑制することもあるが、素人が無自覚でやると前述の通り危険なことになる。しかし、危険を承知で、それでも「書かざるを得なくなる」のが文学である。いや、私は文学をやっているつもりはないという議論もあるでしょうから、文章と言い直してもいい。
 
 現在は、小説よりもゲームの方が正直かもしれない。今回の小学校事件もゲームの影響が云々されているけれども、ゲームのシュミレーションやバーチャル体験によって、逆に犯罪に走らないでいるケースもあるのではないか。犯罪に到っていないのだから、検証の仕様がないが。ビートルズのある歌を聞いていたら人を殺したくなって殺したという事件が、かつて実際に起こったが、実は逆のケース、つまり犯罪が起こらなかったということの方が多いのではないか。
 
【西山正義】
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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後9時14分
Subject: Re: [短説][00937] 「無用者のうた」論から
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 ふたたび「暗黒の井戸」について
 
 西山さん、今度の論考で、いっそう問題点を明らかにされたことをうれしく思います。おっしゃる通りに《ごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要》で、そのとおりなんです。
 私は、西山さんの今回の論考を「月刊短説」に転載させてもらいたいと思います。ネットを読んでいない人にも、この問題を十分に考えてもらいたいと思います。この論義を経過した後になら、きっと文章を書く事に覚悟を持った人が出てくるだろうと思います。
 よき家庭人、よき社会人に、なぜ《暗黒の井戸》を覗き込んで、短説を書く事をすすめているのか、その本当の意味もわかってくるように思います。
(後略)
 
【芦原修二】
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(以上「短説ML座会」より)

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2005年2月17日 (木)

中井英夫の「無用者のうた」論から

 1月30日付の記事「歌人論・歌人伝について」の最後に、「本当は今日、本題にしたかったのは、中井英夫が六十年代初頭に書いた『現代短歌論』の中に、小説や詩の現在にも通ずる問題点が書かれてあったので、引用しようと思ったのだが、それはまたこの次に譲る」と書いた。原典を図書館に返却しなければならないので、とりあえず抜き書きしておく。
 2001年11月発行の国文社版「現代歌人文庫(第2期)40」の『中井英夫短歌論集』所収、「無用者のうた−戦後新人白書」(初出は「短歌」1961年12月号)より。

 いまでも概ねはそうだが、歌人は一様に人格者で、健康すぎるほど晴朗な社会人にあふれている。久しい間、平明な生活詠が第一条件とされてきた歌壇には、むしろそれも当然のことで、律儀な身辺報告に終始している以上、異端の意識は入りこむ隙もない。だが、文学者としてはこれくらい滑稽な話はなく、裡に深い暗黒の井戸も持たず、何を創ろうというのだろう。川端康成が今度の文化勲章を受けるに際して、文学者というのは無頼漢ですからね、といった意味での、精神の無頼性をつゆ(原文傍点あり)持つことなく、小心で身仕舞のいい人格者が、何を人に語ろうというのか。いまなお、もろもろの結社誌では、人格陶冶のための作歌とか、誠実な生活だけがすぐれた短歌を生むとかいうスローガンを恬然と掲げているけれども、思い上がりも甚だしいといわねばならぬ。(中略)塚本でも葛原でも、その後の中城ふみ子でも、編集者としてその登場に希ったのは、前衛派の擡頭だの反写実だのということではない。文学はもう少しダメな魂の産物だという、最初からの約束事を確かにしておきたいだけといってもよい。

 どうだろう。今から四十四年前に書かれた論考である。が、現在でも概ねそうだといわねばらぬ。私は現代歌壇に明るいわけではない。だから、ここにいう歌人/短歌を、作家/小説・エッセイ、詩人/詩、俳人/俳句、いや、物書き全般と読み替えればいい。すべてがそうだとは言わぬまでも、見事に正鵠を射っている。
 短説はどうか。私の興味は実はそこにある。少なくとも、主宰者の芦原修二氏をはじめ一部の書き手は、川端康成が言ったような意味での無頼漢であり、その作品の裡には深い暗黒の井戸があり、ぽっかりと深淵が口を開けている。しかし、短説の会全体で言えば、やはり中井英夫が指摘したようなことが言えるのだ。
 短説は、短歌や詩ほどではないが、小説に較べてより広い書き手を得た。芦原氏もそれを推進してきた。文芸評論家の小川和佑氏が批判するところの「参加の文学」をあえて許容してきた。しかし、物書きとしての根本的な姿勢という点で、芦原氏にもジレンマがあるのだ。
 つまり、両者の言う「参加の文学」は、微妙に意味合いが異なり、芦原氏も小川氏が批判するような「参加の文学」を認めているわけではなく、実は小川氏も芦原氏も中井英夫も、まったく同じ地平に立脚していると言わざるを得ないのである。
 そもそもここで「物書き」などという言葉を持ち出す時点で、おそらく意識の違いが出てくるのだろうが、ものを書いて発表するということは、それがたとえ小集団の中であっても、プロだろうがアマチュアだろうが、意識が違かろうがお遊びや道楽のつもりだろうが、事情はまったく一緒で、すべてに適用される厳しい掟がある。一言で言ってしまえば、それはいずれにしろ、地獄への片道切符、である(はずなのだが)。

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2005年2月 4日 (金)

時節を詠む短説:節分

 もう昨日になってしまいましたが、昨日は節分。短説のメーリングリスト座会にも、沖縄の二十歳の学生が、豆まきの行事に関する「節分」という作品をアップしてくれました。その作品をここで公開するわけにはいきませんが、その読後評を若干補足して、このブログにアップします。
 
「節分」拝読
 
 実は今日、近隣氏子の世話人になっているので、氏神様である神社の節分祭に行ってきました。神殿でお祀りし、御祓いを受けた福豆を貰い受け、近所の氏子に配るのです。
 家内は昔から新選組フリークで、NHKの「新選組!」で土方歳三と井上源三郎を演じた役者が来るというので、わざわざ日野の高幡不動尊まで行きました。
 神主が祝詞を奏上している間も、短説のことを考えていたのでが、先を越されましたね。
 
 節分に限らず祭礼行事や習俗は、地方によってやり方がかなり違ったりするものですが、沖縄も基本的には変わらないんですね。
 太巻きを必ず食べるとか、鰯の頭を柊の枝に串刺しにしたものを玄関に飾るというような風習は関東にはありません。また、仙台では、撒く豆が落花生だったりします。殻つきの落花生なら,たしかに撒いたあと拾って食べられるのですが、何か違うような変な感じ。
 
 さて、作品ですが、会話だけで十分わかります。というより、会話だけにして正解だと思います。最後言いたかったことを地の文で書いてしまったら、テーマの説明になってしまいますし、光彦爺ちゃんの悲哀のようなものが余韻として残らないでしょう。
 爺ちゃんの言うのは正しく、「伝統行事はちゃんとせねばならんのじゃ」。
 
 それから、豆まきの掛け声ですが、僕も語感としては、「鬼は外、福は内」で違和感はないのですが、正式?には、最初に「福は内、福は内、福は内」と三回復唱し、次に「鬼は外、鬼は外」と二回復唱するようです。いやこれにはいろいろやり方があるのでしょうが。
 また、豆を投げる時、「福は内」の時は、掌を上向きに下手投げで、福が逃げないようになるべく近くに撒き、「鬼は外」の時は、野球のオーバースローのようになるべく遠くに投げるというような作法もあるようです。
 まあ家庭でやる場合はそんな作法にとらわれる必要はないのですが、こうした祭礼行事には、すべて意味があり、日本人の生活に密着したものです。たとえ現代では自然と離れた生活をしていても、だからこそ逆に、次代にも受け継いでいくべきものでしょうね。
 余談ですが、高幡不動の豆はふっくらしていて美味しかったです。最近「タウンワーク」のCMに出ているドラマーのつのだひろ(あの伝説のバンド・ジャックスのドラマー)は、地元らしく毎年高幡不動の豆まきに参加しているそうです。それにしても、年の数だけ食べるのが年々きつくなってきました。
 タイムリーないい作品でした。

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