この稿を3回書いたところで、未完のまま令和元年は暮れた。そして明けた令和2年は、2月の末頃から新型コロナウイルス感染症の世界的な大流行一色になった。緊急事態宣言から外出自粛になり、五月の大型連休はすっ飛び、長い梅雨に入った。やっと梅雨が明けたと思ったら、急激な猛暑・酷暑に見舞われ、そして間髪を入れずに台風の季節に突入した。
平成の時代を一言で総括すれば「災害の時代」だったと言われている。それは令和も続きそうで、「異常気象」もそれが常態になりつつある。しかしもちろんそれと短説の衰退は何ら関係がない。
平成21年(2009)の7月に月刊『短説』誌が休刊になり、それは事実上廃刊を意味し、川嶋杏子さんの死を契機に(おそらく理由はそれだけではないのだろうが)上尾座会が解散した。そして、短説の会は遅まきながらインターネットに活路を見出そうとするが、一歩も踏み出せないまま本部の機能は停止した。
それでもその後、三つの流れがあった。
一つは最も活況を呈していた関西座会で、本部が雑誌を出さない(出せないのなら)と、関西座会独自の雑誌を出したのである。これはあっぱれであった。
年二回、半年間の座会から一人一作のアンソロジーである。『世界で一番短い小説 短説関西第〇集』と題されている。タイトル文字のレイアウトは、「短」と「説」が大きく印字されていて、「短説」に見えるように工夫されている。基本的には昔の「作品綴り」と変わらないが、ちゃんと印刷製本されている。正直、関西は金があるんだなあと思った記憶がある。いや、会員が多いので可能であったのだ。
本部の雑誌が休刊になった翌年の平成22年(2010)4月に創刊され、10月に第二集が順調に出て、第三集「2011夏号」が5月31日に関西代表の道野重信さんから送られてきた。24作家が参加し、すなわち24作品収録されている。初めて見る名前もあり、関西座会の活況がうかがえた。
しかし、その後私は第4号を受け取っていないし、その存在も確認できていない。私に送られて来ていないだけなのか、それとも文字通り「三号雑誌」で終わってしまったのか、それは不明であるが、どうも後者のような気がする。いやでも、その後も座会は続いていたようだ。関西座会の雰囲気から言えば、自然消滅というのはあまり考えられないから、座会は現在でも続けれているのかもしれない。
もう一つは、同じく若い(といっても五十を過ぎているのだが)主宰者が率いる藤代日曜座会である。私より少し年上の吉田龍星さんから相談のメールを受け取ったのは平成26年(2014)5月の連休最終日。
この時点で、その前から芦原修二さんは病気で、「ずっと講師不在の状態が続いており、いささかマンネリで、諸般の都合から辞める人も出て参りました」とあり、「短説誌も止まってしまっていますし、先生も再起は難しい状態のようで、どうぞ好きにやってくださいと言われてしまいました」と。これには私も少々呆れてしまったが、それだけもう病状は篤かったのでしょう。その年芦原さんは79歳。
そして、「今年の新年会で話し合った結果、これではいけないということになり、皆さん一念発起し今年度から発表の場を独自に設けることになりました。一つは年鑑集の発行。もう一つはブログなどネット上で発表を行うというものです」と。
年鑑というのは、関西座会と同じ発想で、これはやる気と資金さえあればできる。しかしその後、それが発行された形跡はない。
そして私への相談は、やはりインターネットの利用について。
少々長くなるが、当時のやり取りを思い出すために、私の返信を引用する。(改行などは普通の文章のように修正)
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「もう一つはブログなど」ということですが、「各自で」開設するということですか?
これも、〇〇さんなど木座の人達が短説の会を退会したあと、2006年頃、『800字のショートショート』というようなタイトルで、ブログを開設していました。
これは、一つのブログを何人かで共有して(要するにパスワードを共有して)一つのブログに何人かの会員がそろぞれに作品をアップして、コメント欄に感想を投稿するというものです。しかしこれも、たしか半年ぐらいで尻切れトンボになって閉鎖されました。
ブログを立ち上げるのもいいのですが、要するに、みなさんが毎日のように積極的にアクセスし、じゃんじゃんコメントなどを投稿しないと、厳しいです。(というより、やっていて空しくなってきます)
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それに続いて、短説の会の公式サイトや同人会員でホームページやブログを開設したことがある人の例を説明し、それらへの他の会員の反応、アクセスの状況を書き、
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要するに何が言いたいかというと、例えば藤代のみなさんも、公式サイトにアップされたご自身の作品を果たして見たことがあるのか?
せっかくネットで発表しても、それを見られないのでは意味がありません。
ブログを開設する場合でも、手書きの生原稿を吉田さんに送って、吉田さんがパソコンに入力して、ブログなり掲示板などにアップするのでははっきり言ってダメです。
以前の木座の試みも、少なくとも各自が自分で家のパソコンを起動し、インターネットにアクセスし、自分で作品を投稿し、コメントも自由に投稿できるというのが、最低限の条件でした。
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以下、短説関係のブログのURLを列挙した。今では閉鎖されたブログも含めて種類(運営会社)は6つ、合計9つのブログ。
私の長いメールは、藤代座会でプリントして回され、吉田さんから報告された由。
それでどうなったかというと、その翌月(2014年6月6日)、『月刊 短説マガジン ~藤日版~』として開設された。
しかし案の定というか、予想通り、私が懸念した通りになった。一回の投稿で、その月の点盛りの順番に作品が列挙されているのだが、問題はその出稿方法である。藤代ではこの時点でも生原稿しか書けない人がおり、ワープロは使えてもパソコンは出来ない人もいる。要するに、元の生原稿(ワープロ打ちのものも含み)を吉田さんが打ち直して出稿しているのである。これでは、まったくもって話にならないのである。
6月11日と7月28日に、5月と6月の座会分の作品がアップされたが、2回目からパスワード設定がなされ、私は中身を読むことができない。だからその後別の展開があったのかどうか知る由もないが、これも「三号雑誌」で終わった。2020年現在でもブログ自体は生きているが、この三回(三日間)以降更新されていない。
短説にこれだけ長い年月関わっていながら、私は藤代日曜座会(と上尾座会)には一度も行ったことがない。それに関しては何だか申し訳ない気がしているが、どのように行われているかの雰囲気はわかる。たぶんそう間違った想像はしていないだろう。最初から予想された通りの結果であった。しかしそれでも、その後も座会が続いているとしたなら、それは立派なことだと思う。
そして最後にもう一つの流れ。そもそもの源流である東京座会である。
芦原修二さんとは1960年代の『秘夢』、70年代の『海とユリ』の頃からのもっとも古い同人であるすだとしおさんを中心に、短説の作品集(単行本)を一番多く出している秋葉信雄さんに、短説ではないが随筆の書籍を三冊出している喜多村蔦枝さんなどにより、今年のすださんからの年賀状によると、少なくとも令和2年の正月まで座会が続けられている。途中には中断もあったかもしれないが、軽く300回を越しているはずである。これはまあ本当にすごいことだと思う。
その後コロナでどうなったか不明だが、逆に少人数で細々とやっている分、緊急事態宣言が一応解除された現在は再開されているかもしれない。
この三つの流れ、独自の雑誌(作品集)を出す、インターネットの利用、そして従来からの座会をひたすら続ける。そのでれもが正しいように思える。
しかし、それにしても――。
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