短説案内

2023年11月 7日 (火)

芦原修二さんの傑作短説を

 12年ぶりに、短説の会同人の作品をアップします。われらが短説の会代表の芦原修二先生の作品です。
 すでに公式サイトにやはり12年前の6月にアップ済みですが、今更ながら作品データに誤りがあるのを発見し、訂正しました。そうした作業をしていたら、この作品だけこのブログにアップしていないことも分かりました。
 いろいろと抜けていた感じなのですが、この作品には芦原修二さんの珍しい「自作自解のこころみ」がなされていて、さらに吉田龍星さんの激烈な読後評があり、併せて「短説逍遥」の特別編として公式サイトの批評のページにアップしています。
 当初はおそらく、作品と自作自解や吉田さんの読後評も併せてブログにアップしようと、そのタイミングを計っているうちにそのままになってしまったのでしょう。今再び、芦原修二さんの代表作の一つをご堪能ください。

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2020年9月 7日 (月)

短説の会へのレクイエム(4)

 この稿を3回書いたところで、未完のまま令和元年は暮れた。そして明けた令和2年は、2月の末頃から新型コロナウイルス感染症の世界的な大流行一色になった。緊急事態宣言から外出自粛になり、五月の大型連休はすっ飛び、長い梅雨に入った。やっと梅雨が明けたと思ったら、急激な猛暑・酷暑に見舞われ、そして間髪を入れずに台風の季節に突入した。
 平成の時代を一言で総括すれば「災害の時代」だったと言われている。それは令和も続きそうで、「異常気象」もそれが常態になりつつある。しかしもちろんそれと短説の衰退は何ら関係がない。

 平成21年(2009)の7月に月刊『短説』誌が休刊になり、それは事実上廃刊を意味し、川嶋杏子さんの死を契機に(おそらく理由はそれだけではないのだろうが)上尾座会が解散した。そして、短説の会は遅まきながらインターネットに活路を見出そうとするが、一歩も踏み出せないまま本部の機能は停止した。
 それでもその後、三つの流れがあった。
 一つは最も活況を呈していた関西座会で、本部が雑誌を出さない(出せないのなら)と、関西座会独自の雑誌を出したのである。これはあっぱれであった。
 年二回、半年間の座会から一人一作のアンソロジーである。『世界で一番短い小説 短説関西第〇集』と題されている。タイトル文字のレイアウトは、「短」と「説」が大きく印字されていて、「短説」に見えるように工夫されている。基本的には昔の「作品綴り」と変わらないが、ちゃんと印刷製本されている。正直、関西は金があるんだなあと思った記憶がある。いや、会員が多いので可能であったのだ。
 本部の雑誌が休刊になった翌年の平成22年(2010)4月に創刊され、10月に第二集が順調に出て、第三集「2011夏号」が5月31日に関西代表の道野重信さんから送られてきた。24作家が参加し、すなわち24作品収録されている。初めて見る名前もあり、関西座会の活況がうかがえた。
 しかし、その後私は第4号を受け取っていないし、その存在も確認できていない。私に送られて来ていないだけなのか、それとも文字通り「三号雑誌」で終わってしまったのか、それは不明であるが、どうも後者のような気がする。いやでも、その後も座会は続いていたようだ。関西座会の雰囲気から言えば、自然消滅というのはあまり考えられないから、座会は現在でも続けれているのかもしれない。

 もう一つは、同じく若い(といっても五十を過ぎているのだが)主宰者が率いる藤代日曜座会である。私より少し年上の吉田龍星さんから相談のメールを受け取ったのは平成26年(2014)5月の連休最終日。
 この時点で、その前から芦原修二さんは病気で、「ずっと講師不在の状態が続いており、いささかマンネリで、諸般の都合から辞める人も出て参りました」とあり、「短説誌も止まってしまっていますし、先生も再起は難しい状態のようで、どうぞ好きにやってくださいと言われてしまいました」と。これには私も少々呆れてしまったが、それだけもう病状は篤かったのでしょう。その年芦原さんは79歳。
 そして、「今年の新年会で話し合った結果、これではいけないということになり、皆さん一念発起し今年度から発表の場を独自に設けることになりました。一つは年鑑集の発行。もう一つはブログなどネット上で発表を行うというものです」と。
 年鑑というのは、関西座会と同じ発想で、これはやる気と資金さえあればできる。しかしその後、それが発行された形跡はない。
 そして私への相談は、やはりインターネットの利用について。
 少々長くなるが、当時のやり取りを思い出すために、私の返信を引用する。(改行などは普通の文章のように修正)
     *
「もう一つはブログなど」ということですが、「各自で」開設するということですか?
 これも、〇〇さんなど木座の人達が短説の会を退会したあと、2006年頃、『800字のショートショート』というようなタイトルで、ブログを開設していました。
 これは、一つのブログを何人かで共有して(要するにパスワードを共有して)一つのブログに何人かの会員がそろぞれに作品をアップして、コメント欄に感想を投稿するというものです。しかしこれも、たしか半年ぐらいで尻切れトンボになって閉鎖されました。
 ブログを立ち上げるのもいいのですが、要するに、みなさんが毎日のように積極的にアクセスし、じゃんじゃんコメントなどを投稿しないと、厳しいです。(というより、やっていて空しくなってきます)
    *
 それに続いて、短説の会の公式サイトや同人会員でホームページやブログを開設したことがある人の例を説明し、それらへの他の会員の反応、アクセスの状況を書き、
    *
 要するに何が言いたいかというと、例えば藤代のみなさんも、公式サイトにアップされたご自身の作品を果たして見たことがあるのか?
 せっかくネットで発表しても、それを見られないのでは意味がありません。
 ブログを開設する場合でも、手書きの生原稿を吉田さんに送って、吉田さんがパソコンに入力して、ブログなり掲示板などにアップするのでははっきり言ってダメです。
 以前の木座の試みも、少なくとも各自が自分で家のパソコンを起動し、インターネットにアクセスし、自分で作品を投稿し、コメントも自由に投稿できるというのが、最低限の条件でした。
     *
 以下、短説関係のブログのURLを列挙した。今では閉鎖されたブログも含めて種類(運営会社)は6つ、合計9つのブログ。 
 私の長いメールは、藤代座会でプリントして回され、吉田さんから報告された由。
 それでどうなったかというと、その翌月(2014年6月6日)、『月刊 短説マガジン ~藤日版~』として開設された。
 しかし案の定というか、予想通り、私が懸念した通りになった。一回の投稿で、その月の点盛りの順番に作品が列挙されているのだが、問題はその出稿方法である。藤代ではこの時点でも生原稿しか書けない人がおり、ワープロは使えてもパソコンは出来ない人もいる。要するに、元の生原稿(ワープロ打ちのものも含み)を吉田さんが打ち直して出稿しているのである。これでは、まったくもって話にならないのである。
 6月11日と7月28日に、5月と6月の座会分の作品がアップされたが、2回目からパスワード設定がなされ、私は中身を読むことができない。だからその後別の展開があったのかどうか知る由もないが、これも「三号雑誌」で終わった。2020年現在でもブログ自体は生きているが、この三回(三日間)以降更新されていない。
 短説にこれだけ長い年月関わっていながら、私は藤代日曜座会(と上尾座会)には一度も行ったことがない。それに関しては何だか申し訳ない気がしているが、どのように行われているかの雰囲気はわかる。たぶんそう間違った想像はしていないだろう。最初から予想された通りの結果であった。しかしそれでも、その後も座会が続いているとしたなら、それは立派なことだと思う。

 そして最後にもう一つの流れ。そもそもの源流である東京座会である。
 芦原修二さんとは1960年代の『秘夢』、70年代の『海とユリ』の頃からのもっとも古い同人であるすだとしおさんを中心に、短説の作品集(単行本)を一番多く出している秋葉信雄さんに、短説ではないが随筆の書籍を三冊出している喜多村蔦枝さんなどにより、今年のすださんからの年賀状によると、少なくとも令和2年の正月まで座会が続けられている。途中には中断もあったかもしれないが、軽く300回を越しているはずである。これはまあ本当にすごいことだと思う。 
 その後コロナでどうなったか不明だが、逆に少人数で細々とやっている分、緊急事態宣言が一応解除された現在は再開されているかもしれない。
 この三つの流れ、独自の雑誌(作品集)を出す、インターネットの利用、そして従来からの座会をひたすら続ける。そのでれもが正しいように思える。
 しかし、それにしても――。

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2019年12月27日 (金)

短説の会へのレクイエム(3)

 令和元年も暮れようとしている。来年は2020年である。こんな原稿を書いても虚しいだけだ。その後頓挫したままなのも、もはやこの稿を書き継いでゆく意欲が失われているからに他ならない。しかし、尻切れトンボというわけにはいかないだろう。やはり書いておくべきであろう。


 平成19年(2007)1月5日に藤代日曜座会の横山とよ子さんが亡くなられた。それ以前にも短説の会員で亡くなった方はあったかもしれないが、同人間に仲間の死が意識された最初であった。しかしこの時はまだ会が会として活動していたころで、月刊誌も発行され、野田座会が東葛座会に統合され、その東葛も活動停止となり、ほぼ同時に通信座会も頓挫していたが、関西座会は盛況で、東京、上尾、そして横山さんがいた藤代日曜座会も健在であったから、吉田龍星さんの尽力で横山さんの短説集『すみつかれ』が遺稿集として刊行された。
 その2年後の平成21年(2009)1月27日には、短説の会創立同人というよりは詩人の相生葉留実さんが他界した。21世紀以降はそれほど短説を書いてはいないが、かつては東葛座会で存在感のある存在だった。そして、『短説』平成19年と20年の6月号の〈年鑑特集号〉には、前の年1年分の全雑誌掲載の作品を細かく読み込んで批評した長文の「年間読後評」を2年にわたって発表していたのである。
 前記の通り同年7月に、芦原さんから短説の会での出版物の発行の取りやめが発表されたのであるが、その2か月後の9月24日、今度は上尾座会の初期からのメンバーでその中心の一人だった川嶋杏子さんが亡くなった。相生さんと川嶋さんの年齢は不詳だが、おそらく芦原さんと同じくらいか少し若い70歳代であったろう。横山さんが昭和7年生まれで享年74歳、相前後のすなわち同世代だと思う。川嶋さんの死を契機に、その年の12月の座会を最後に上尾座会は解散した。平成3年の発足から18年、212回開催された。自然消滅ではなく、はっきりと解散したのである。
 雑誌もなくなり、これはもう致し方ないであろう。そしてその頃に、原始時代に戻ってしまったかのような回覧作品綴りが送られてきたのである。おやまあ、やれやれ、と思ったわけであるが、それでもまだそのようなものでも送られてきたのは良かったのである。もしかしたら僕も無反応だったからいけなかったのかもしれないが、しかしそれは2回と続かず、以後音信不通になってしまったわけである。

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2019年12月23日 (月)

崙書房出版が7月末で業務終了していた

 平成31年(つまり今年の)3月31日のYahoo!ジオシティーズ閉鎖に続き、令和元年(つまり今年の)12月15日をもってYahoo!ブログも閉鎖された。それにともなって、わがサイト「西向の山」のリンク集を更新した。そして、リンク切れの確認をしていたら、崙書房出版が今年の7月31日で業務を終了していたことを知った。
 崙書房出版といっても知る人ぞ知るだろう。千葉県流山市にある(今となっては「あった」)小さな出版社で、房総の歴史・地理・自然・人々をテーマにした図書を出していた千葉の地域に根ざしたいわゆる「地方小出版社」であるが、芦原修二氏との縁から、『短説』の月刊誌ほかを制作依頼していたのである。その書肆が、今年の7月末で業務をすでに終了(すなわち廃業)していたのである。そして、それを今日はじめて知ったのである。
 おそらく芦原修二さんもご存命ではないであろう。「短説」を伝えるものがまた一つなくなったのである。
 往年のホームページやブログの多くもアクセス不能になり、いろいろなものが終息に向かっている感の今日この頃である。それが、歳月の経過というものか。諸行無常とはよく言ったものであるが……。

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2019年7月23日 (火)

短説の会へのレクイエム(2)

 芦原修二さんから届いた「『短説』休刊のお知らせ」には、
「これを機に『短説』の発行業務を休み、まったく新たな構想で新体制に入ることに決心しました」
 とあり、
「今後は芦原の健康状態を考え、皆さまの作品を印刷物として制作することは中止し、インターネットのホームページ等で作品を読めるように工夫しようと東京座会の考えをまとめました」
 と結ばれていた。
 雑誌の発行停止はやむなしと思えた。短説の会ナンバー2のすだとしおさんにしても、おそらくナンバー3といってもいい個人集の単行本刊行に最も熱心な秋葉信雄さんにしても、月刊誌の発行を引き継ぐだけの余力はない。若手のリーダー二人、藤代日曜座会を牽引する吉田龍星さんにしても、最も若く才能豊かな関西座会の道野重信さんにしても、地方にいては「本部」の業務である雑誌発行を引き受けることはできないであろう。
 もしかしたら資質的に最も適任だったのは僕かもしれない。ML座会は担当していたが、雑務がいろいろあるリアルな座会運営からは外れていたし、もっと本質的なところで、その性格や資質の面で。しかし、自分からは声を挙げなかったし、そのような話を振られることもなかった。
 おそらく、芦原さんには、誰かに会の本部の運営を引き継いで、人に任せる気はこれっぽっちもなかったのであろう。なんとなれ、短説の会は、最初から最後まで芦原修二さんの会だったといえるのである。
 ともかく、機関誌の発行停止は致し方ないとして、会を解散するのではなく、次なる展開に移行しようと意志されていた。
 すなわちインターネットの活用である。これは僕も望むところであった。2000年の秋以降、日曜日は毎週ソフトボールをしていて、他にも地域のさまざまな行事を手伝うことになり、僕は日曜日の座会には参加できないのであった。また、平成21年当時は土曜日は仕事であった。かといって平日に、遠方の座会に出席するのも難しい。しかしインターネットであれば……。
 ところが、その年の暮れ近く、僕のもとに届いたのは、各座会の昔ながらの「作品綴り」(つまりワープロで印刷された各作品をコピーしたもの)をまとめただけの「回覧雑誌」だったのである。原始時代に戻ってしまったのかと思った。これにはもう僕は絶望した。インターネットに移行するだけの技量がまるでないのだ。

 ただ、インターネットの世界は、その後特にSNSの登場・発達・普及によってめまぐるしく変遷していて、10年前の平成21年当時はまだYahoo!のメーリングリストが無料で使えたのが、その後サービスを終了してしまった。
 短説の「メーリングリスト座会」は最初、水南森(五十嵐正人)さんの提唱で始められたものだが、2000年4月の開始当初はniftyで提供されていた有料のサービスを利用していた。翌年21世紀に入り、その機能や利用法の紹介と実演が、平成13年3月の短説15周年全国大会で披露された。その後niftyのサービス終了を受けて、西山正義がYahoo!の無料サービスを利用して運営に当たった。
 そのML座会は、リアルな座会とはまた異なったやり方ではあるが、座会として(すなわち、作品を提出して、合評会を行うという)機能だけでなく、短説の会の情報や意見交換など会の運営にも威力を発揮した。
 しかし、いかんせん参加人数が限られていた。はっきり言ってしまえば、当時、全会員が電子メールアドレスを持っていて、さらにそれを使いこなし、ML座会に参加してくれていたら状況は変わっていたであろう。
 ただしこのYahoo!メーリングリストも、そのサービス自体が2014年5月28日で終了となる。そうなると行き場を失うわけだが、もうこの頃になると、現在あるさまざまなSNSが登場しているので、みながMLに慣れていれば、他のSNSに乗り換えることは容易なことであったろう。
 SNSとはソーシャル・ネットワーキング・サービスの略で、現在では多種多様なサービスがあるが、要するに「インターネットを経由して人と人が交流できるサービスの総称」で、ウィキペディア(Wikipedia)では第一に「Web上で社会的ネットワーク(ソーシャル・ネットワーク)を構築可能にするサービスである」と説明されている。これは短説の会にもってこいではないか。使わない手はない。誰もがそう思うはずである。
 21世紀を10年以上過ぎた現在において、何らかの組織的な活動を行うなら、SNSの活用無くしてはあり得ないであろう。SNSは現在さらに進化し、パソコンよりむしろスマートホンでの活用の方が主流になってきて、最新の各種SNSはパソコン向き(つまり短説向き)ではあまりないが、広義のSNSサービスでいえば初期型のいわゆるウェブ掲示板やブログなどは平成21年当時すでに相当に普及していたのである。
 最も簡単なのはブログである。一つのブログを共有するのでもよいが、手っ取り早く各人がそれぞれにブログを開設し、そこに作品を発表し、もし通常の座会のように「点盛り」をしたければ、期日を決めて一斉にアップし、点盛りや批評は共用の掲示板を使えばよい。
 インターネットのホームページの最大の特徴は「ハイパーリンク」にあるので、公式サイトがその要になり、各個人のブログをリンクで結び、ネット上に短説の会のコミュニティを構築すればよいのである。
 そしてそれは、それほど難しいことではない。と、思っていたのは僕だけだったのでしょう。あるいは、僕と同世代かそれより下の短説の会では若い部類に入るごく少数の者だけだったのでしょう。
 もちろん、芦原修二さんも世の中そういう流れにあるというのは分かっていたはずで、だから今後は「インターネットのホームページ等で作品を読めるように工夫しようと」模索する意思はあったのだが、結局、そういう方向に、文字通り「一歩も」踏み出すことができなかったのである。これが、短説終焉の直接の理由である、と僕は思う。
 その他にも間接的な理由がいくつかあると思うが、それより、おそらく本質的な理由はもっと別なところにあるのだろうと思う。そしてそれは、文学結社としてむしろ自然な流れなのかもしれない。

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2019年7月20日 (土)

短説の会へのレクイエム(1)

 令和最初の投稿である。

 今日は令和元年(2019)7月20日。つまり、『短説』休刊から満10年が経ったわけだ。
 われらが短説の会の創始者であり主宰者である芦原修二さんが、平成21年(2009)6月21日東京座会の帰途、柏駅のホームで電車接触事故に遭い、それを契機に、翌7月21日付の書面で、文学結社の命である機関誌、月刊『短説』の休刊が発表された。
 雑誌の形として体裁を整えた月刊の『短説』は、昭和62年(1987)2月に行われた第18回座会(当時はまだ東京の神田神保町座会しかなかった)の「作品綴り」を冊子にまとめ、3月号と表示したのに始まる。
 その際、昭和60年(1985)9月の第1回座会から17回までの各座会の「作品綴り」と、それらとは別に雑誌の形で発行した季刊『短説』2冊をあわせて通巻20号とし、以後月刊化したのが雑誌『短説』である。
 以来、平成21年までの24年間、発行が大幅に遅れたり、合併号になることはあっても、休むことなく発行し続けてきた。その時々に応じて、同人の何人かが編集や校正に加わったりし、平成15年の7月号以降は数人の同人による編集担当制度が導入され、内容面でも実務面でも大きな成果を上げた。
 しかし、発刊以来常に最終的な編集作業は芦原修二さんの双肩にかかっているのには変わりなく、それどころか、発送等の雑務までほとんど一切を芦原さんが行っていた。
 その限界に突き当たったのが、芦原さんの健康上の問題であった。いや、もっとはっきり言えば、高齢化である。そこへ事故である。
 それで先の通り、平成21年7月21日付で、芦原修二さんより全会員に向けて、短説の会として印刷物制作の中止が発表された。それは直ちに発効され、その時点で編集が完了し、刊行を待つだけになっていた平成21年3月号(通巻281号)を最後にその発行がストップされた。
 因みに、その最後の号は僕が編集したもので、すでに4ヶ月も発行が遅れていたわけだ。次の道野重信さん担当の4月号はゲラ刷りまで完成していたが、未刊のままだ。さらに、すだとしおさん担当の6月号に当たる年鑑特集号も編集作業は進んでいたが、頓挫したまま。
 それから、10年が経ったのだ。
 今更、どうなるものでもない。
 短説の会の外部の人にはどうでもいいことだろう。いやそれどころか、かつて会に属していた人たちにとっても、もはや、どうでもいいことかもしれない。たぶんそうなのだろう。僕がこれだけ声を出しているのに、まるで反応がないのだから。
(その反応がないのは、かつてはパソコンとりわけインターネットがネックになっているのだろうと思っていたが、今や、そもそもこの世にいない人も多いからではないかという恐ろしい事実に突き当たるのである)。
 しかし、それでも、その後の顛末を、やはり文章に記しておきたい。

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2018年1月11日 (木)

平成30年の年頭に(「短説」復刊か?)

 新年最初の投稿。平成三十年が明けて、すでに十一日目である。年末年始にまとまった休みが取れなくなって七年になる。それ以前の五年間は、比較的長い休みがあった。今年は晦日と元日、三日、それに七草と仕事で、ほとんどお正月らしい気分は味わえなかった。やはりオンとオフは必要で、特に年末年始は一年のけじめとして、ゆっくりした時間がほしいものである。

 短説の会のすだとしおさんからの年賀状に、「『短説』の復刊を考えています」とあった。休刊からもう八年半が経つ。東京座会は今も変わらずに行われているようだ。藤代日曜や関西はどうだろう? しかし、日曜日の開催では私は参加できないのだ。たまたま開催日に雨が降らない限り。
 雑誌の復刊は望むところである。僕としては、何か手を差し伸べるべきであろう。だが、短説の会の同人みながインターネントでのやり取りに対応できないと、今やお手上げなのだ。藤代日曜座会のネット版も立ち上げたはいいがすぐに頓挫したのは、この「みな」が対応できないからだ。
 一括メール送信のシステムである「メーリングリスト」の機能も、もうとっくの昔に大手プロバイダをはじめYahoo!もサービスを打ち切り、今ではすっかり衰退してしまった。代わって現在ではLINEが普及し、メーリングリストとほぼ同じような機能を有しているわけだが、LINEは基本的にはスマートホン向けのアプリケーションであり、短いとはいえ短説のようなまとまった文章をやり取りするのには向かない。
 私はスマホを持っていないので、LINEもパソコンでやり取りするという変則的な使い方をしているので、LINEでもかつての「メーリングリスト座会」をできると思うのだが、おそらくスマホではやりにくいであろう。なら、私と同じようにパソコンでやればいいのだが、そうした使い方ひとつ、一から説明しても、結局のところ使いこなせないんだろうと思う。
 メールや掲示板などでなら、私も短説の座会に参加できるのに……。

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2010年12月 1日 (水)

短説の新しいサイト

 短説のそんな状況にもかかわらず、この期に及んでというか、遅ればせながらというか、いやだからこそ、勇気が湧いてくるというか、ともかく、思いもしないところで、短説がらみのサイトが誕生していた。
 森田カオル氏の『鶏肋亭』である。メインはもちろん小説なのだろうが、短説も二本柱になっていて(というか、そもそもそういうサイト自体ふつうにはないのだ)、22篇もの短説が連作として一挙に掲載されている。
 個々の作品の評価や「グランアルカナ」という総題の意味や是非は別にして、野心的な作品であることには間違いない。今後の展開が楽しみである。

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2010年11月29日 (月)

短説はいま何処に

 短説の公式サイトを半年ぶりに更新した。「短説の歩み」は2008年6月まででストップしていたが、その後の記事を追加した。その後はネガティブな記事しかない。「座会案内」も訂正せざるを得なくなった。
 この四年近くの間に、短説の重要な同人三名が亡くなった。座会も二つ解散し、ML座会も事実上閉鎖状態(システムは稼働しているが)。月刊『短説』が休刊になって一年半が経つ。それに代わって、今年一月から五月までは、各座会の「回覧雑誌」が送られてきていた。それも2クールで途絶えた。
 いや、途絶えたわけではなく、それに対して何も反応しなかった私に見切りをつけて送付をやめただけなのか。それならそれでいいのだが、四月以降、短説の活動がまるで見えてこない。そもそも芦原さんやすださんはお元気なのか。
 九月に、柏市のれいたく朗読グループの方から、10月2日に「短」に挑戦と題して短説の朗読会を行なうのだが、芦原さんに連絡が取れないと問い合わせがあり、私を経由して連絡が取れたということがあった。その後、その案内状が芦原さんからも回送されてきた。ということは、芦原さんは一応お元気なのだろう。
 きょう、仕事が休みで昼頃から公式サイトを更新した。そして、今年はじめに送られてきていた「回覧雑誌」に初めて目を通した。実は送られてきた当初、なぜこんなことになってしまったのか呆れていたのだ。でも、短説の会では仕方ないのだと思った。それだけ皆さん高齢なのだ。
 旧短説サイトのso-netに新たな構想でホームページをアップするという話も、話だけで一向に進んでいないようだ。公式サイトも旧URLがサーバーの都合で消滅した。すでに別のサーバーに乗り換えているのでサイトが消えてしまったわけではないのだが、公式サイトへのリンクが修正されていないと、消えてしまったかのような誤解を与えるだろう。しかし、そもそも短説の会の誰が公式サイトを丹念に見ているだろう。皆無に近いのではないか。
 
 ともかく、何か途轍もない時間が流れ去ってしまったのだ。それらがすべて無為に流れ去ったわけではないにしろ、時間だけは取り返すことはできないのだ。人は時間を失うためだけに生きているようなものなのかもしれない。
 何が残念って、それに何ほども竿を挿せない自分が……。

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2009年11月 9日 (月)

〈短説の会〉公式サイト移転

 11月5日から6日にかけて、〈短説の会〉公式サイトのサーバーとして、Lycos Japan/Tripodから引き続き利用してきたinfoseek/iswebのホームページの仕様が変わり(最上部に余計な検索バーが追加された)、Internet Explorer 8で閲覧すると、レイアウトがとんでもなく崩れることになりました。Firefoxではこの現象は見られませんが、当サイトに限ったことではないようです。
 それで、急遽サーバーを乗り換えました。当面は併存させますのでどちらでも構いませんが、レイアウトが崩れるようなら、↓でご覧ください。
〈短説の会〉Official Web Site
移転先URL:http://tansetsu.aikotoba.jp/

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