短説〈西山正義作品〉

2023年11月25日 (土)

短説「九月二〇日は僕の創作記念日」


九月二〇日は僕の創作記念日
       (2012.9.20/2023.11.17/25)
            
西山 正義

 今日、九月二〇日という日は僕にとって、
一一月二五日と一二月八日とともに、最も
大切にしている記念日の一つだった。
 手紙を書いた。もちろん便箋に万年筆で。
僕が「永遠の少女」と呼んでいる今月六日に
九二歳になられた詩人に。山梨は市之蔵村の
『村のアルバム』の堀内幸枝さんである。
 昨日、突然、葉書が届いたのだ。九年半ぶ
りの音信だった。びっくりした。嬉しかった。
それ以上に、何んと言うのか……。
 初対面から二五年が経っている。僕が二四、
三〇、三七の時にお会いしている。最初は小
川和佑先生が講演された昭和文学の学会。次
は小川ゼミの堀内幸枝紀行合宿。創作者とし
て「桃の花会」の自宅サロンにも出席した。
 いつも電話だった。そのお声は少し甲高く、
ちょっと素っ頓狂な感もあったが、その言動
も立ち振る舞いもいかにも詩人らしかった。
お便りをいただくのは初めてかもしれない。
 僕が九年前の平成一五年春にウェブ日記に
書いて、七年後の平成二二年(今から二年半
前)に「おきざりにされたまゝの少女」の稿
を書き加えてホームページに掲載してあった
文章が、今頃になって目に留まったらしい。
 有名人でもあるまいし、インターネット上
に文章を公開していて何になるんだと思うが、
しっかり本名を名乗っていると、時にはこう
いうこともあるのだ。
 僕が作詞作曲して初めて曲らしい曲が出来
上がったこの日を、僕は《僕の創作記念日》
と称しているが、この日はその三四年目だっ
た。当日のブログにそう書いている。
 そしてその日が、二年後にまさか小川和佑
先生のご命日になろうとは! しかし、だか
ら、この日は僕の創作記念日であることに完
全に動かなくなったのである。

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2023年10月31日 (火)

短説「老母を定期健診に」


   老母を定期健診に
            (2023.2.7/10.31)
            
西山 正義

 昨年十二月で八十三歳になった母を病院に
連れて行った。七年前に雪で転んで大腿骨を
骨折したアフターケアの定期健診で、三か月
に一回薬をもらいに行くほか、年に一回、骨
密度のレントゲン検査をしている。腰椎や大
腿骨の骨密度は同年齢の標準より少しいいぐ
らいなのだが、昨年より落ちている。
 骨より筋力の衰えが甚だしい。散歩もあま
りできなくなってきたので、電動で脚を漕い
でくれる運動器具を購入し、少しは対処して
いるのだが、筋肉の方が問題だと思う。
 しかし、もっと問題なのは頭の方である。
 ――と、ここまで二月に書いてから、三か
月ごとの定期健診を五月、八月、十一月と終
えた。健診と言っても身体を見るわけではな
く、ごく簡単な問診をするだけなのだが。
 頭が問題というのは、明らかにアルツハイ
マーの症状が出ていることだ。傍目にも分か
るほどになったのは、新型コロナが発生する
少し前。近頃は筋力の衰えが著しいのだが、
耳が相当に遠いのも問題なのだろうと思う。
もともと右耳が若いころの疾患で聞こえない
ので尚更である。言葉や音の情報が入ってこ
ないから、脳が刺激されず、ボケが進む。
 食事に連れて行っていつも喧嘩になるのは、
何が食べたいと訊いても答えられないことだ。
写真付きのメニューを見せても決められない。
過去に類似のものを食べておいしかったとい
う記憶がなくなっていて、今の気分ではこれ
が食べたいということに結び付かないのか。
悲しかったり辛い記憶がなくなるのはいいと
して、楽しかった記憶も失せてしまったら、
生きるハリがなくなるのも肯ける。眼に生気
がない。それが一番の元凶かもしれない。人
は(いや動物は)記憶の積み重ねで生きてい
る。それが失せていくというのは……

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2023年10月15日 (日)

短説「掲示板(その後)」

   掲示板(その後)
           
(2023.7.20/10.15)
            
西山 正義

 私たち夫婦のホームページ「西向の山」で
利用している〈83レンタルBBS〉という
無料の掲示板がいつの間にか消滅していた。
今年の四月には稼働していたと思うのだが、
知らぬ間に閉鎖されていて、わがサイトの掲
示板もアクセス不能になっていた。
 よって、サイトのコンテンツから外した。
昨年十一月以来、八か月ぶりにホームページ
を更新した。ついでにリンク集も更新。
 私がサイトを開設したのは二〇〇二年の四
月だが、それから二十一年の間に、私が好き
だったサイトがどんどん閉鎖されている。意
図的に閉鎖された場合もあるが、プロバイダ
ーやサーバーの都合で消滅したものも多い。
いずれにしろアクセス不能で、もはやインタ
ーネット上に存在しない。掲示板といい、リ
ンク集といい、かつてはホームページの必須
コンテンツであったが、今や無くてもいいよ
うなものになっている。
 ところが、先の〈83レンタルBBS〉は
個人経営のもので、どうやら一時的なサーバ
ーダウンだったようである。その後稼働して
いるのが確認されたので、サイトからのリン
クを再開させた。
 しかし、サイト訪問者からの投稿は二〇一
四年四月以来ない。私がもう一つ運営してい
る短説の会の公式サイトで使っている掲示板
は、企業が運営している老舗のBBSだが、
こちらも二〇一三年八月以来誰からも投稿が
ない。十年である。全く不要といってもいい
のであるが、思うところあり残しておく。
 引用など、インターネット上の参考文献の
提示はURLを明記することになっているが、
元のページがいとも安易に移転したり、十年
ももたずに消滅してしまっては意味がない。
学術利用には信が置けないことになる。

 

※第三稿(最終段再推敲):令和5年(2023)10月17日(火)~12:35

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2023年4月 8日 (土)

短説「六十歳の誕生日に」


   六十歳の誕生日に
 

            
西山 正義

 六十になった。令和五年皇紀二六八三年、
西暦では二〇二三年、四月八日土曜日午前六
時四十分。その朝を迎えた。きのうとは打っ
て変わって朝から快晴である。久しぶりにノ
ートに万年筆で書いている。
 数えでいえば六十一歳で、生まれた年の干
支「癸卯」に戻ったのだ。すなわち還暦であ
る。泣いても笑っても、もはや老年で、この
先どうもならないだろう。あとは健康で、せ
いぜい長生きするしかないようだ。
 もうどうともなるまいが、僕としては、や
はり書いておくべきだろう。何であれ、もの
を書くしかない。音楽にはできない。絵にも
描けない。ほかに表現できないのだから。
 六十歳の誕生日の前日、すなわちきのうは、
春たけなわのきょうこの頃にしては冷たい雨
がそぼ降る中、山中湖の三島由紀夫文学館に
行ってきた。もちろん隣の徳富蘇峰館も訪ね
た。そのことについてはまた語ろう。
 この一週間休みを取り、先週の土曜(四月
一日)は乗務明けでほとんど寝ないままソフ
トボールの妻がやっている女子チームの練習
に参加し、翌日曜は自チームの春季大会があ
った。今年から新編成で臨むチームの初戦で、
市内最底辺の三部であるが勝利した。そして
二回戦があしたあるのだ。つまり、日曜ごと
のソフトボールの大会を挟んだ、あいだの平
日に還暦記念ツアーと称して出かけてきたの
だ。それについても改めて書こう。
 本当はその前に書くべきことがあるのであ
る。先月突然起きたこと、それが書けなくて、
というよりそのことが僕の心をずっと曇らせ
て、停滞していたのだ。どの道、個人的な日
記のようなものだから、あえて「短説」にす
る必要もないのだが、やはり遡って順番に短
説の形で書き残しておこうと思う。

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2023年3月16日 (木)

短説「車検の話から」 


   車検の話から
           
(2023.1.19/2.16)
            
西山 正義

 二〇一九年一月(は平成三一年)に、一一
年落ちで本体三四万円で購入した中古車を、
初登録から一五年の車検に出した。タイヤの
側面に罅割れができていて、まだスリップサ
インは出ていないのだが、高速でバーストの
危険があるため、やむなく交換することにし
た。もちろん四本とも。痛い出費である。
 走行距離は出ていない。一一年で二万八千
キロしか走っていなかった。一五年で五万キ
ロ弱。うちで乗り始めて四年で二万二千キロ。
息子が仕事で使っていた時はかなり走ってい
たが、その後はたいして走っていない。維持
費がばかにならない。
 息子が大学を出て最初に就職した先は地方
であったので、自家用車の持込みが必須であ
った。以来三年間、わが家には車がなく、そ
れでも何とかなっていたので、維持費を考え
れば車などなくてもいいのだが、高齢の母を
抱えているし、ソフトボールの道具運びもあ
るし、やはり自家用車は手放せない。
 その息子だが、きのうで二八歳の誕生日を
迎えた。現在は結婚して京都に住んでいるた
め、LINEでごく簡単なやり取りをしたのみ。
 きょうは、昼すぎから妻と市役所に行き、
妻のマイナンバーカードを受け取り、ついで
にあちこちで買い物し、最後に日帰り温泉に
入ってきた。買い物先は「しまむら」「ダイ
ソー」「サンドラック」という超庶民的なと
ころばかり。それと、イトーヨーカドーに寄
ってペットボトルをリサイクル回収してきた。
 日帰り温泉も一応天然温泉ということにな
っているが、温泉は一部だけで、実態はスー
パー銭湯だ。僕は併設されている理容室で散
髪し、妻はアカスリをした。これも加齢のせ
いか、最近は湯疲れしやすく、八時までいて
家に帰ってきたが、もう寝ようと思う。

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2023年1月29日 (日)

短説「息子の嫁から(そして靖國神社と浅草寺へ)」


息子の嫁から(そして靖國神社と浅草寺へ)
 

            
西山 正義
 
 息子のお嫁さんからまたまた素晴らしい物
が届いた。元日うちの車を使用した際、私の
ETCカードで支払った高速代として京都のお
土産を送ってきてくれたのだ。そんなのはい
いのに。そのつもりで年末に洗車しガソリン
を満タンにしカードも刺しておいたのだから。
でもその気遣いが嬉しいじゃないの。
 小倉山荘のおかきの詰合せ。正月にも百人
一首のカルタあられと京都のお茶に岡谷のわ
かさぎの佃煮を手土産に持ってきてくれた。
昨年のお歳暮には加賀麩汁。小倉山荘といえ
ばもちろん藤原定家の「小倉百人一首」ゆか
りの場所である。平安文学を専攻するお嫁さ
んならではのチョイスであるが、私たち夫婦
が文学を愛好するというのを知ってのことで
ある。還暦を迎える令和五年の正月、年の始
めから雅やかに美味に過ごせている。
 そして十二日、元日と二日に目の前まで行
って参拝をあきらめた靖國神社に詣でること
ができた。ちょうど正午に着いたのだが、外
苑参拝者駐車場にすんなり入れた。まずは拝
殿にお参りし、国の安からんことをお祈りす
る。遊就館に寄り、今年の奉納のための新作
刀剣の展示を鑑賞した。お昼は、遊就館の茶
寮「結」の海軍カレーにするか迷ったが、外
苑休憩所の「靖國八千代食堂」で海老かき揚
げそば(女房は同うどん)をいただいた。
 それから、浅草へ。女房が新春浅草歌舞伎
を観るため、浅草公会堂まで送った。時間が
あったので、浅草寺に参拝し、仲見世通りは
避けて、伝通院通りから浅草公会堂のあるオ
レンジ通りを少し歩いた。浅草一の目抜き通
りである雷門通りのパーキングエリアに待つ
ことなく駐車できたのはラッキーだった。三
年ぶりに行動制限のない正月。浅草はさすが
に賑わいを取り戻しつつあるように見えた。

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2023年1月 7日 (土)

短説「富士塚とスンドゥブと壁当て」


富士塚とスンドゥブと壁当て
 
            
西山 正義

 
 千駄ヶ谷の鳩森八幡神社の周辺はむかしか
ら仕事でも馴染みの所だが、よくよく参拝し
たことはなかった。問題は駐車場だが、最寄
りの有料パーキングが空いていた。
 境内に入ればまず目に付くのだが、そうだ
った、富士塚で有名なのを思い出した。寛政
元年(一七八九)の築造といわれ、都内に現
存するものでは最も古く、都指定の有形民俗
文化財になっているとのこと。まずは本殿に
参拝し、富士塚に登頂する。
 将棋堂という六角形の御堂に大きな王将の
駒が祀られているが、なぜと思ったら、日本
将棋連盟の本部がすぐ近くにあるのだった。
初夏には紫陽花がよろしいらしい。
 二時半をすぎた。近くの国立競技場前にあ
るホープ軒が正月もやっているようだ。雑煮
やお節もいいけれど、やはり飽きるもので、
無性にラーメンが食べたくなった。しかし考
えることはみな同じで、長蛇の列であった。
あきらめてまた車を走らせた。
 靖国神社も当然のことながら駐車場渋滞。
神楽坂は車輌進入禁止になっていた。それは
そうだろう。そうやって走っていると、また
早稲田方面に来てしまったが、高田馬場なら
車が停められて食事できるところがあるだろ
うと目星を付けていた。高田馬場は、私たち
夫婦にとって「青春」の場所なのであった。
二人とも早稲田の学生ではないのだが……。
 正月とは全く関係ないが、韓国料理のスン
ドゥブ(純豆腐)チゲ(鍋)の店に入った。
さすがは学生街で、量に比してお手軽な値段
であった。辛い鍋はからだが温まった。
 そして三日。妻は午後から歌舞伎の観劇は
じめに銀座へ。私はソフトボールの投球はじ
めに、ウォーキングを兼ねて少し離れた団地
の公園へ。六十代もこんな感じになろう。

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短説「穴と鳩の森の八幡さま詣」


  穴と鳩の森の八幡さま詣
 

            
西山 正義

 令和五年の元日は、ちょうど一年前に結婚
した息子夫婦が京都から年始に来て、合わせ
て娘も呼び、五人でお雑煮とお節を囲んだ。
最後には別棟に同居している私の母と妹も呼
んで、コロナゆえ短時間であるが歓談した。
 五時には家を出、京都に帰る息子夫婦を車
で東京駅へ送った。新幹線乗り場まで見送っ
たのは六時をまわっていた。八重洲の地下に
駐車するのは初めてであった。駅はにぎわっ
ていたが、店はほとんどやっていない。残っ
た妻と私は、めったに来ない所なので少し見
物しようかと思ったが、やはり人混みは避け
たかったのですぐに駐車場を出た。
 東京駅から多摩地区の自宅へ向かって皇居
の北から西側で初詣となれば、一番の候補は
靖国神社である。大鳥居から参道には入れる
ようであったが、拝殿への門はすでに閉じら
れていた。それで、私の生まれ故郷である早
稲田は牛込高田町鎮座の穴八幡宮に参詣した。
 こちらも拝殿前の門は閉まっていた。それ
でも急な階段をちらほら参拝客が登って来て
いた。私の七五三はここでお願いしたのだっ
た。それから五十五年! 六十の本厄だ。
 二日は朝からやはり箱根駅伝の中継を見て
しまう。往路最終の五区に入ったころに妻と
車で出かけた。目的も定めず、とりあえず都
内へ向かった。意外に混んでいた。やはりコ
ロナで東京に残っている人が多いのだろう。
 甲州街道を皇居に向かえば、また靖国神社
である。車はとても停められないだろう。新
宿御苑のトンネルを抜けようとしていたとこ
ろで妻の一言があり、急遽外苑西通りを右折
した。もちろん向かったのは明治神宮ではな
い。知る人ぞ知る鳩森八幡神社である。広く
言えば穴八幡宮と同じ新宿・渋谷エリアでも
こちらは千駄ヶ谷一帯の鎮守。いざGO!

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2023年1月 3日 (火)

短説「息子夫婦と娘に(僕の遺言)」


 息子夫婦と娘に(僕の遺言)
 
            
西山 正義

 令和五年の元日、昨年結婚した息子夫婦が
京都から年始に来た。息子は年末から帰省し
ていて、お嫁さんとは大晦日に横浜で落ち合
い、汽笛ボォーの除夜から元旦にかけては横
浜で過ごし、昼すぎにわが家へ到着した。
 それに合わせて、息子の姉にあたる娘も着
ていた。娘はすぐ近くに住んでいる。こちら
も既婚だが、旦那はいろいろ訳ありで年始に
は来ない。いや、うちより先に娘が旦那の実
家に年始に行くべきなのだが、旦那の母親が
感染症病棟の看護師ゆえ、新型コロナ以降そ
の息子すら一度も会いに行けていないのだ。
 たぶん一番そわそわしていたのは私であろ
う。なんとなれば、息子の伴侶は高校の同級
生でもう十年も前から知っているのだが、私
たち夫婦の大のお気に入りだからである。
 元野球部で勉強の方はあまりできない息子
には過ぎたお嫁さんで、たいへん優秀な子な
のである。そもそも私の母校でもある高校に
入学した動機が、図書館が気に入ったからと
いうのだから。そして、平安文学が研究した
くて、東京の出であるがあえて京都女子大学
に進学し、さらに大学院に進み研究を続けて
いる。そんな彼女に合わせて息子の方が関西
に転職し、京都で結婚生活に入ったのだった。
 もしかしたら普通の家庭ではあまり歓迎さ
れないお嫁さんかもしれないが、そこはわが
家なのだ。私も妻も結局のところ文学の仕事
はできないで終わりそうだが、一つだけ少し
は誇れるものに『日本文芸鑑賞事典』第二〇
巻(昭和六三年・ぎょうせい刊)の原稿があ
る。私は本文を書いたとはいえ二作品で、妻
は巻末の「名句名言集」の小文のみであるが、
錚々たる近代文学の先生方と同列に執筆者一
覧に氏名が載っているのだ。この元日、その
本を息子夫婦と娘に伝えることができた。

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2022年12月24日 (土)

短説「令和四年=僕のシニア元年」


 令和四年=僕のシニア元年
 

            
西山 正義

 令和四年の冬至である。今年は二十二日木
曜日。夜八時になって、あわてて柚子を買い
に行った。今、風呂の湯を落している。その
あいだにこれを書いている。浴槽を洗ってき
た。新しい湯を沸かしている。
 女房殿は銀座に歌舞伎を観に行っている。
市川海老蔵改め十三代目市川團十郎白猿襲名
披露公演である。
 キーボードの横で柚子が香っている。高知
県産の食用で、一玉税抜き一五八円也。風呂
に入れるには勿体ない。氏神様の神社に行け
ば、ごろごろ転がっているのを思い出した。
世話人の一人として、新年の御神札一式を授
かりに行かなければならないのだった。
 風呂が沸いたようだ。女房も帰ってきた。
 ――そして、上皇陛下八十九歳のお誕生日
を経て、土曜日のクリスマスイブである。氏
神様に行ってきた。樹齢四百年を超えている
という御神木の藤が有名な神社なのだが、境
内の片隅に柚子の木があり、やはり実がいっ
ぱい落ちていた。六つほど分けてもらった。
この柚子を風呂に入れるべきであった。
 新型コロナウイルスの感染拡大も三年目に
入った西暦二〇二二年は、世界的に見れば、
ロシアによるウクライナへの軍事侵略の一年
だった。今年の漢字には「戦」が選ばれた。
つい最近ではサッカーのワールドカップでの
日本代表チームの活躍で盛り上がった。
 僕にとっては、今年は「シニア」がキーワ
ードであった。ソフトボールを始めてもう二
十二年になるが、満五十九歳になり、シニア
大会に出場できるようになったのだ。この年
齢で「最年少」とは恐れ入ったカテゴリーだ
が、そのタイミングでチームも移籍し、心機
一転、新たな展開を見せ始めた。年が明けれ
ば、本格的に六十代に突入するのだ。

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