短説〈向山葉子作品〉

2014年5月25日 (日)

短説「お江戸の春」向山葉子

   お江戸の春

            
向山 葉子

 さてさて、帯留はどの色がよかろうか。そ
うさね、吾郎乃丞は紅梅が好みと聞く。まあ
私なんぞは目にも入らなかろうが、そこはそ
れ、心がけだね。ちっと若づくりだが、仕方
ない。お摩耶、あの、こないだ取り寄せたよ
そいき、あれをお貸しよ。何だいけちくさい
ね、いいじゃないかえ、お貸しったら。喜多
川座初顔見世、行かないのだろ。お待ちなの
は蔦屋の貸本、何だね、万丈目殿歌留多合戦、
早う読みたいとそればかり。春だというに、
つれないこと。
 そうそう、義之介は寒稽古、裸足で出かけ
て行ったとか。元気だけが取り柄さね。なに
昼餉を持たずに出たのかえ。では、届けてお
くれ、と婆やにな。ほんにあの子は、剣術、
剣術、そればかり。腕っぷしばかりで学門は
さっぱりさ。さて行く末は、武蔵か小次郎か。
はたまた一国一城お主様か。戦国の世でも、
あるまいに。春だというに、悩みは尽きぬよ。
 お父上はまた書院かえ。何やら書き物をし
ておいでだね。ああ、いいよ、用事があるわ
けじゃなし。お好きなだけお籠もりさせてお
あげ。時時にはお茶を入れ替えてさしあげる
んだよ。ちっとも御出世なさらないお方だが、
そりゃあ私の目算違い。責める筋合いもなか
ろうものさ。
 平穏無事にそこそこ暮らし向きが立ってい
きゃあ、それはそれでお幸せ。だがね、いつ
かは大きく御出世の、時期が来らんこともあ
る。春だからねえ。まだそのうちに、花爛満
に、咲こう時もないじゃなし。
 そうさ、私もな、ええ、まだまだこれから
ひと花咲かそうか。まだまだ春の心持ち。末
は井原か近松か。娘息子に越される前に、ず
ずいと花道渡ろうと。今日も喜多川座へと通
うわなあ。


〔発表:平成20(2008)年1月ML座会/(雑誌未発表)/初出:「西向の山」upload:2009.12.28〕
Copyright (C) 2008-2014 Mukouyama Yoko. All rights reserved.

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年9月14日 (水)

短説「コクワガタ」向山葉子

   コクワガタ

            
向山 葉子

 部屋の隅の虫籠の中で密やかな音がする。
娘が道端で拾い上げた、小さなクワガタ。尻
に傷がある。メスは近くで死んでいたという。
そっとのぞいてみる。蜜に顔をつっこんで、
懸命に吸っている。満足すると、のそのそと
立てかけられた棒によじ登っていく。蓋を開
けたら、飛んでいくかもしれない。蓋をそっ
と持ち上げる。が、彼は電灯に脅かされて、
棒をあとずさって、暗がりへと身を隠そうと
している。他には誰もいない籠。ひとりぼっ
ちの土の中へ。
 生殖の道を遮られて、四角い世界の中に存
在する一匹の虫。彼は時にそのとげとげした
足で腹を掻く。甲虫に痒みがあるのかは知ら
ない。あるとしたら、痛みもまたあるのだろ
うか。傷を受けた時、彼は身をよじったろう
か。虫の痒み、虫の痛み、虫の悲しみ、虫の
喜び、虫の悩み。抽象的で現実味がないのを
いいことに、誰も気づかないふりをしている
だけなのかもしれない。
 小さな息子が、虫を弄んでいる。その指が
虫の怒りに触れる。はずみで虫は解き放たれ
る。虫の僥倖。その固い殻から羽を広げて、
飛び立つがいい。私の籠にいたコクワガタの
遺伝子を、次の世代に手渡すがいい。
 翌日、息子がまた庭でコクワガタを見いだ
した。尻に傷。つまみ上げた虫を夫に見せる。
夫は、受け取って、陽に透かしてみる。虫は
足を懸命に動かしている。
 いま、私の部屋の隅に虫籠はない。夫の部
屋でかさこそとささやかな生を営んでいる。
腐葉土を敷きつめられ、蜜をもらい、霧吹き
で水を与えられて。私の部屋にいた時よりも、
もっと居心地のいい籠。独り身の虫、男やも
めの虫。この虫に、夫は愛着を持ちはじめた
ようだ。


〔発表:平成10年(1998)10月第39回通信座会/初出:1999年8月「日&月」第7号/再録:「西向の山」upload:2005.4.8〕
Copyright (C) 1998-2011 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月 3日 (火)

短説:作品「選考」(向山葉子)

   選 考
 
            
向山 葉子
 
 まだ予定時刻にはなってはいなかった。控
室のドアを開けると、少年たちの放つ水草の
ような匂いが流れ出てくる。
 彼は静かにドアを閉めると、一人一人に缶
ジュースを配って歩く。着古した背広姿の彼
を、多分だれも『その人』だとは気づいては
いない。彼の瞳は少しも騒がない。パイプ椅
子に腰かけて、時折菓子をすすめながら、穏
やかに少年たちの行動を見つめている。
 たとえほんの少しでも自分に自信がなけれ
ば、ここにはいないはずの少年たちなのだ。
その自身がどこから発するのか。写真だけで
はわからない。一人一人の空気を感じ取るひ
ととき。彼はこの時間が一番好きだった。
 時刻になった。係員がドアを開けて入って
くる。そして彼に一礼するとこう告げるのだ。
「この方が当事務所の社長です」と。一斉に
少年たちの表情が固くなる。
 そして彼は結果を告げる。「そっちのキミ
ね。あとの人はお帰りになっていいですよ」
 選んだ子は、待っている間もずっと怒った
ような顔をしていた。二重の切れ長の瞳の光
に力があった。その視線に出会うと、胸の辺
りから股間にかけて熱い疼きが走るのだった。
その表情は、彼の正体がわかっても変わらな
かった。
「キミ、ちょっと笑ってみてください」
「笑えません、今は」
「キミが笑うとね。きっとみんな、胸がきゅ
っとくると思うんですね。怒ったようなその
顔、いいですよ」
 少年は強い光を放つ黒々とした瞳で、彼を
見つめた。唇の形もいい。彼は思った。少し
厚ぼったいのが、南方の異国の少年のようで。
背があまり高すぎないのもいい。彼が強張っ
ている少年の背中を、すっと触った。


〔発表:平成13(2001)年3月・短説の会創立15周年記念全国大会(埼玉県嵐山町)「天」位入賞作品/初出:「短説」2001年4月号/再録:2001年7月号「月刊TOWNNET」通巻320号/西向の山」upload2002.11.30
Copyright (C) 2001-2009 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月10日 (木)

短説:作品「J196」(向山葉子)

   J196
 
            
向山 葉子
 
 Jの196番。発売前々日の午前三時から
並んで、ようやく取れたチケットにはそう書
かれてあった。これを手に入れるには、相当
の努力と根性と忍耐が必要なのだ。中には、
二十年もこのチケットのために費やしている
人もいるほどだ。私などはまだ五年にもなら
ないのだから、幸運な方である。
 だが、チケットが取れたからといって、安
心してはいけない。まず体力をつける必要が
あるのだ。どのくらい掘らなければならない
のか、想像がつかないからだ。噂では。掘っ
ても掘っても何も出てこないこともあるらし
いが、文句をいうことはできない。チケット
には、あらかじめそういうこともある、と断
り書きがしてあるからだ。
 ダメだった場合には、また初めからチケッ
トを取り直ししなければならない。どんなリ
ピーターでも特権はないようだが、一説によ
るとスタッフと知り合いになれば、優遇もあ
るとか。密かに袖の下を渡す輩も少なくない
という。もっとも、それは少しはお金に余裕
の出てきた熟年層に多いとも聞いた。
 J196区画の番号を確かめて、丹念に掘
りはじめた。何度も掘り返されているはずな
のに、案外土が固い。周りを見渡すと、様々
な年齢の女たちが熱心に掘っている。稀に男
も混じっている。私も黙々と堀り続けた。
 隣から短い悲鳴にも似た歓喜の声が聞こえ
た。私は穴から顔を出してみた。四十代後半
ほどの女性に手を引かれて、J195の少年
が穴から這いだしてきた。女たちの視線が集
中する。そして安堵のため息。少年は目を引
くほど美しくはなかった。しかし今後彼をど
う磨いていくのかは彼女の腕にかかっている。
 女たちは、また黙って土を掘り起こし続け
ている。

発表:平成18年(2006)2月ML座会/初出:「短説」2006年5月号(短説逍遥62)/WEBサイト「西向の山」upload2007.1.5〕
Copyright (C) 2006-2008 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年9月11日 (月)

短説:作品「平成十三年九月十二日、朝」(向山葉子)

 平成十三年九月十二日、朝
 
            
向山 葉子
 
 朝七時。子供たちを起こす。寝ぼけ眼でず
るずるとベッドから這い出すヨシトとマヤ。
居間に転がるついでにマヤがテレビのスイッ
チを入れる音がする。
「あー、朝からウルトラマンやってる!」
 ヨシトの声に、食事の支度の手を止めて振
り向く。まさしく、特撮の映像が画面に映っ
ている。ツインタワービルの一つが炎上して
おり、もうひとつのビルに飛行機が突っ込ん
でいくシーン。ずいぶん生々しい特撮だなぁ
……。と、待てよ、これは。
「違うよ、ウルトラマンじゃないよ。ニュー
スだよ、これ」とマヤ。
「じゃ、ホントのことなの、おかーさーん」
不思議そうに振り向くヨシト。
「どうなってんの、これ」もう朝食の支度ど
ころではない。
「東京なの? 新宿のビル、壊れたの。どう
しよう、怪獣が出たんだ」ヨシトはもう半泣
きである。
「アメリカだってよ。にゅーよーくって書い
てあるじゃん」マヤの声に、崩落するビルの
映像が重なる。
「ほえー、すごい。サイボーグくろちゃんの
暴れた後みたい。ホントのことなんて思えな
ーい。あっ、バックドラフトの人たちがいる」
「お姉ちゃん、ちげーよ。あれは、ガッツの
アメリカ支部の人たちだよ」
「怪獣じゃないの。飛行機がぶつかったんだ
って」マヤの説明にも、ヨシトはどうも納得
がいかない様子だ。
 怪獣の方がまだましかもしれない。人間の
理性を超越しているから。はじまったばかり
の二十一世紀、怪獣よりも怖いものを見てし
まった朝。子供たちは、まだ知らない。日本
は、世界は、どこにいってしまうのか。

〔発表:平成13年(2001)9月15日ML座会/初出:「短説」2001年9月号/WEBサイト「西向の山」upload2003.4.26〕
Copyright (C) 2001-2006 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年6月10日 (土)

短説:作品「茂草鉄道」(向山葉子)

   茂草鉄道
 
            
向山 葉子
 
 二人は、学生街にある小さな教会でささや
かな結婚式を挙げた。花嫁は初々しく、花婿
は照れてはにかんでばかりいた。友達はみん
な二人を心から祝福し、親が反対してたって
幸せにはなれるさ、と花を振り撒いて幸福を
祈ってくれた。
“私、幸せよ”と少女は夫となった青年にそ
っと肩を寄せる。茂草鉄道の軽妙な振動が二
人の肩を小鳥のついばみのように打ち合わせ
る。霞むような桜並木の下をおままごとのよ
うなハネムーナーを乗せて、電車はやがて陶
器の町に滑り込む。
 『真下焼窯元』と書かれた看板を掲げた旧
い構えの店が春の日差しの中に幻のようだ。
“これ、いいわねぇ”“ほんとだ、いいね”
二人はそう言い合いながらも何一つ買おうと
は言い出さない。見つめ合って微笑んで、そ
してすべてを諦めるのだ。“あら、可愛い。
歩き始めたばっかりね”少女は店の奥からよ
ちよち出てきた幼児を見て微笑んだ。とその
時、幼児は綺麗な藍色のティーカップを掴ん
だままぱたりと転んだ。幼児は泣き出し、テ
ィーカップは真っ二つに割れた。その瞬間少
女がほんの一瞬、幼児に憎さげな視線を投げ
たのを青年は見逃さなかった。傾斜していく
兆しにおののいたが、青年を見上げる少女の
笑顔はいつもと何も変わらなかった。
 茂草鉄道の最終電車は十七時三十二分だ。
その頃になるともう駅員すらもいなくなる。
夕日の射す短いプラットホームに立って、二
人は電車を待っている。“私、幸せよ、今が
一番”“そうだね。僕も幸せだよ”
 電車は四十分を過ぎても現れない。“もう
帰らなくていいのよ、きっと私達”青年はそ
の声に促されて線路を歩き始める。その先は
草が茂り、もう何処へも続いてはいなかった。

〔発表:平成元年(1989)12月第52回東京座会/初出:「短説」1990年1月号/再録:1990年12月・年鑑短説集〈4〉『海の雫』/WEBサイト「西向の山」upload2002.4.5〕
Copyright (C) 1989-2006 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年4月10日 (月)

短説:作品「微笑みの町」(向山葉子)

   微笑みの町
 
            
向山 葉子
 
『ようこそ、さち子さん』と大書きされた垂
れ幕の下に、家族全員がにこにこしながら坐
っていた。そして、さち子の顔を見るなり、
「ようこそ」「ようこそ」と口々に歓迎の言
葉を投げかけるのだった。さち子は照れてし
まって、横にいる夫の顔を見上げた。夫もま
た微笑みを湛えて「ようこそ」と手を差し出
す。ここは微笑みの町だ、とさち子は思う。
角の煙草屋のおばさんも、お巡りさんも、み
んな柔らかく微笑んでさち子を迎え入れてく
れたのだから。もうあくせく働くこともない
のだ。「ふつつか者ですがよろしくお願いし
ます」さち子は幸せな気持ちで頭を下げた。
 午後からは夫に連れられて散歩に出掛けた。
畑のキャベツ、鎮守の森、緑色が大半を占め、
空気も清々しかった。「東京とは思えないわ」
深呼吸をしながら言うさち子に夫は誇らしげ
に答える。「だろう? ここは保護区だから
ね。道路工事も多いだろ。子供やお年寄りの
ためにも道路だって疎かにしない町なんだ。
そうだ、君のことみんなに紹介しなくちゃね」
と夫は町行く人に一々さち子を紹介し始めた。
道路工事夫に至るまで、さち子は頭を幾度下
げたことか。が、みんなみんな微笑み返して
くれるので、疲れなど感じなかった。「これ
でよし、と。君はもうこの町の人だよ」
 一か月ほどたつとさち子はすっかり町にも
家族にも溶け込んだ。結婚前のあらゆる不安
も消え去って、妻としての自覚も生まれてき
たようだった。そろそろ友達にも惚気を言い
たい気分にもなって、出掛けることに決めた。
「大丈夫かしら」と心配気な義母を後に足取
りもかるく家を出た。駅への道は工事中だっ
た。「ここは一方通行だから」と通してもら
えない。迂回した先もまた工事中。さち子は
町をくるくる巡り遂に駅へ辿り着けなかった。

〔発表:昭和63年(1988)5月第33回東京座会/初出:「短説」1988年6月号/再録:1989年10月・年鑑短説集〈3〉『乗合船』/WEBサイト「西向の山」upload2002.4.5〕
Copyright (C) 1988-2006 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年12月30日 (金)

短説:作品「出口」(向山葉子)

   出 口
 
            
向山 葉子
 
 いつの間にか夜になっていた。車の振動に
身を任せながら外を見ると、空には満月。私
は一体どこに連れていかれるのだろう。
 発端は多分あの一言だ。それは、娘の幼稚
園の母親たちが定期的にもつ茶話会の席のこ
とだ。
「どうして町の外に行くことができないんで
しょうねえ?」
 なにげなく言ったのだったが、和やかだっ
た場が一瞬凍りついた。隣にいたしいちゃん
のママがぎこちない笑みを浮かべて言った。
「あなた、方向音痴だからよ」
 それを機にもう何もなかったようにまた穏
やかなティータイムは続いた。
 ああ、あの言葉は禁句だったのだ。この町
に来て七年。私は一度もうまく駅にたどりつ
けたことがなかったが、なぜなのか考え続け
るにはこの町はあたたかく、なだらかに時が
流れすぎるのだっだ。
 茶話会から二日ばかりたった頃、警官が訪
ねてきた。銃刀法違反の疑いがあるとのこと
で、任意同行を求められた。当然無実のはず
だった。取り調べの警官は、この町の人間と
おなじような親しげな微笑みを浮かべていた。
微笑みながら彼は言った。「あなたは確信犯
なので、このまま護送しなければならないの
です。ああ、娘さんと息子さんのことはご心
配なさらなくていいですよ。この町のみんな
で健やかに育てていきますから」
 車は、町を抜けてどんどん遠ざかっていく。
運転手は無言のまま任務を遂行する。後頭部
と肩しか見えない。少し長めの髪の男性。小
刻みに震える肩。その肩に見覚えがあるよう
な気がした。ずっと昔から知っている肩。誰
だったのかは思い出せないけれど、確かに知
っている背中なのだった。

〔発表:平成10(1995)年11月第21回東葛座会/初出:1996年2月号「短説」/再録:1996年7月「日&月」第2号/「西向の山」upload2002.5.25〕
Copyright (C) 1995-2005 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年11月12日 (土)

短説:作品「仙台のお姉ちゃん」(向山葉子)

   仙台のお姉ちゃん
 
            
向山 葉子
 
『マヤちゃん、な、マヤちゃんでば』
 呼ばれた気がして、部屋の中を見回した。
ヨシトは階下のトイレでウンチの最中のはず。
母が呼んだのかと階段の下を見てみるが、包
丁の音がしているだけ。ちょっと怖くなった
ので、降りていこうとする。
『マヤちゃんでば。私だ。せっかぐ待ってた
ったのに、冷てんでねの』
 振り向くと部屋の真ん中に、自分より二つ
ばかり年上らしい少女が座っている。なあん
だ。お姉ちゃんか。知らない子のはずなのに
なぜか知ってる顔なのだ。
『この家、だあれもいなぐなってさ。しかた
ねがら、私が守ってんだっちゃ。あんた達だ
って、夏にしか来ねしな』        
「ごめんね。バァバ、もう動けないし。私も
学校、色々と忙しいのよ。夏休みの宿題だっ
ていっぱいあんの」
『そら、大変だな。気楽だよー、ワラシ生活
は。隣も空き家だし、あっち向かいも留守だ
しな。ワラシ同士でいっつも遊んでんだ』
「いいな。私もワラシになりたいよ」
『だめだー。ワラシは、なんねばなんね運の
子供したなれねんだもの。あんたはちゃんと
おっきくなねばな』
「おねーちゃーん」トイレからヨシトのけた
たましい声。ウンチ終了。
「拭いてやらなきゃ。手のかかる弟だよ」
『あんただってそうだったよ。まだバァバ元
気で、こごさ戻ってきてもさ。お母さん、夜
寝らんねくれ泣いで。私が時々あばばしたっ
たの』
「ずっといたね、お姉ちゃん。ここに。どし
て忘れてるんだろ。夏に来ると思い出すのに」
『それはさ。あんたのほんとのお姉ちゃんに
なれねがったからさ』

〔発表・初出:平成12(2000)年6月・「日&月」第8号/WEB版初公開〕
Copyright (C) 2000-2005 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年9月14日 (水)

短説:作品「岩谷入洞」(向山葉子)

   岩屋入洞
 
            
向山 葉子
 
 がしゃん。鉄の扉が閉じたような大きな音
だった。だがそれは、入場口のカウントバー
が回った音に過ぎなかった。飛沫がそこまで
届いているはずなのに、波の音は聞こえてこ
ない。
 息子の小さな背中は、もう薄闇の向こうに
あった。急いで追いついて手を握る。ヨシト
は私を見上げて笑って見せる。ぼんやりした
オレンジ色の照明はあるが、先を見通せるほ
ど明るくはない。
「こわくない?」
 ヨシトは私の質問には答えずに、奥の闇を
見つめている。
「龍がいるんだって」
 進んでいくと、小さな小屋があった。老人
が座っていて、黙って小さな手燭を渡してく
れた。息子にもちゃんと一つ。
 二つの頼りない灯火が揺れている。壁面を
水が滴っていく。時折、頬にも落ちてくる。
壁に並んで彫られた観音様は、少しずつ浸食
されていくのだろう。鼻も口も丸くなって、
輪郭もはっきりしなくなっている。光が回り
こんでいく時に、目のあたりだけが瞬くよう
に見える。ヨシトの体に力が入ったのを掌に
感じた。
 奥の闇の中から、戻ってくる火影がある。
髪の真っ白な老婦人と、手を引く中年の男性。
「龍、いましたよ」
 すれ違う時、男性がささやいた。
「岩の間に隠れてしまいましたけどねえ」
 老婦人が付け足すように言うのを訊くと、
ヨシトは奥に向かって走り出した。
「龍が逃げちゃう」
 ヨシトの手が掌からすり抜けていってしま
う。揺れながら遠ざかっていく背中を、滑る
岩に足を取られながら追いかけるのだった。

〔発表:平成17(2005)年3月・4月ML座会/(雑誌未発表)/WEBサイト「西向の山」upload:2005.9.6〕
Copyright (C) 2005 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)