2009年3月 3日 (火)

短説:作品「選考」(向山葉子)

   選 考
 
            
向山 葉子
 
 まだ予定時刻にはなってはいなかった。控
室のドアを開けると、少年たちの放つ水草の
ような匂いが流れ出てくる。
 彼は静かにドアを閉めると、一人一人に缶
ジュースを配って歩く。着古した背広姿の彼
を、多分だれも『その人』だとは気づいては
いない。彼の瞳は少しも騒がない。パイプ椅
子に腰かけて、時折菓子をすすめながら、穏
やかに少年たちの行動を見つめている。
 たとえほんの少しでも自分に自信がなけれ
ば、ここにはいないはずの少年たちなのだ。
その自身がどこから発するのか。写真だけで
はわからない。一人一人の空気を感じ取るひ
ととき。彼はこの時間が一番好きだった。
 時刻になった。係員がドアを開けて入って
くる。そして彼に一礼するとこう告げるのだ。
「この方が当事務所の社長です」と。一斉に
少年たちの表情が固くなる。
 そして彼は結果を告げる。「そっちのキミ
ね。あとの人はお帰りになっていいですよ」
 選んだ子は、待っている間もずっと怒った
ような顔をしていた。二重の切れ長の瞳の光
に力があった。その視線に出会うと、胸の辺
りから股間にかけて熱い疼きが走るのだった。
その表情は、彼の正体がわかっても変わらな
かった。
「キミ、ちょっと笑ってみてください」
「笑えません、今は」
「キミが笑うとね。きっとみんな、胸がきゅ
っとくると思うんですね。怒ったようなその
顔、いいですよ」
 少年は強い光を放つ黒々とした瞳で、彼を
見つめた。唇の形もいい。彼は思った。少し
厚ぼったいのが、南方の異国の少年のようで。
背があまり高すぎないのもいい。彼が強張っ
ている少年の背中を、すっと触った。


〔発表:平成13(2001)年3月・短説の会創立15周年記念全国大会(埼玉県嵐山町)「天」位入賞作品/初出:「短説」2001年4月号/再録:2001年7月号「月刊TOWNNET」通巻320号/西向の山」upload2002.11.30
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2008年4月10日 (木)

短説:作品「J196」(向山葉子)

   J196
 
            
向山 葉子
 
 Jの196番。発売前々日の午前三時から
並んで、ようやく取れたチケットにはそう書
かれてあった。これを手に入れるには、相当
の努力と根性と忍耐が必要なのだ。中には、
二十年もこのチケットのために費やしている
人もいるほどだ。私などはまだ五年にもなら
ないのだから、幸運な方である。
 だが、チケットが取れたからといって、安
心してはいけない。まず体力をつける必要が
あるのだ。どのくらい掘らなければならない
のか、想像がつかないからだ。噂では。掘っ
ても掘っても何も出てこないこともあるらし
いが、文句をいうことはできない。チケット
には、あらかじめそういうこともある、と断
り書きがしてあるからだ。
 ダメだった場合には、また初めからチケッ
トを取り直ししなければならない。どんなリ
ピーターでも特権はないようだが、一説によ
るとスタッフと知り合いになれば、優遇もあ
るとか。密かに袖の下を渡す輩も少なくない
という。もっとも、それは少しはお金に余裕
の出てきた熟年層に多いとも聞いた。
 J196区画の番号を確かめて、丹念に掘
りはじめた。何度も掘り返されているはずな
のに、案外土が固い。周りを見渡すと、様々
な年齢の女たちが熱心に掘っている。稀に男
も混じっている。私も黙々と堀り続けた。
 隣から短い悲鳴にも似た歓喜の声が聞こえ
た。私は穴から顔を出してみた。四十代後半
ほどの女性に手を引かれて、J195の少年
が穴から這いだしてきた。女たちの視線が集
中する。そして安堵のため息。少年は目を引
くほど美しくはなかった。しかし今後彼をど
う磨いていくのかは彼女の腕にかかっている。
 女たちは、また黙って土を掘り起こし続け
ている。

発表:平成18年(2006)2月ML座会/初出:「短説」2006年5月号(短説逍遥62)/WEBサイト「西向の山」upload2007.1.5〕
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2006年9月11日 (月)

短説:作品「平成十三年九月十二日、朝」(向山葉子)

 平成十三年九月十二日、朝
 
            
向山 葉子
 
 朝七時。子供たちを起こす。寝ぼけ眼でず
るずるとベッドから這い出すヨシトとマヤ。
居間に転がるついでにマヤがテレビのスイッ
チを入れる音がする。
「あー、朝からウルトラマンやってる!」
 ヨシトの声に、食事の支度の手を止めて振
り向く。まさしく、特撮の映像が画面に映っ
ている。ツインタワービルの一つが炎上して
おり、もうひとつのビルに飛行機が突っ込ん
でいくシーン。ずいぶん生々しい特撮だなぁ
……。と、待てよ、これは。
「違うよ、ウルトラマンじゃないよ。ニュー
スだよ、これ」とマヤ。
「じゃ、ホントのことなの、おかーさーん」
不思議そうに振り向くヨシト。
「どうなってんの、これ」もう朝食の支度ど
ころではない。
「東京なの? 新宿のビル、壊れたの。どう
しよう、怪獣が出たんだ」ヨシトはもう半泣
きである。
「アメリカだってよ。にゅーよーくって書い
てあるじゃん」マヤの声に、崩落するビルの
映像が重なる。
「ほえー、すごい。サイボーグくろちゃんの
暴れた後みたい。ホントのことなんて思えな
ーい。あっ、バックドラフトの人たちがいる」
「お姉ちゃん、ちげーよ。あれは、ガッツの
アメリカ支部の人たちだよ」
「怪獣じゃないの。飛行機がぶつかったんだ
って」マヤの説明にも、ヨシトはどうも納得
がいかない様子だ。
 怪獣の方がまだましかもしれない。人間の
理性を超越しているから。はじまったばかり
の二十一世紀、怪獣よりも怖いものを見てし
まった朝。子供たちは、まだ知らない。日本
は、世界は、どこにいってしまうのか。

〔発表:平成13年(2001)9月15日ML座会/初出:「短説」2001年9月号/WEBサイト「西向の山」upload2003.4.26〕
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2006年6月10日 (土)

短説:作品「茂草鉄道」(向山葉子)

   茂草鉄道
 
            
向山 葉子
 
 二人は、学生街にある小さな教会でささや
かな結婚式を挙げた。花嫁は初々しく、花婿
は照れてはにかんでばかりいた。友達はみん
な二人を心から祝福し、親が反対してたって
幸せにはなれるさ、と花を振り撒いて幸福を
祈ってくれた。
“私、幸せよ”と少女は夫となった青年にそ
っと肩を寄せる。茂草鉄道の軽妙な振動が二
人の肩を小鳥のついばみのように打ち合わせ
る。霞むような桜並木の下をおままごとのよ
うなハネムーナーを乗せて、電車はやがて陶
器の町に滑り込む。
 『真下焼窯元』と書かれた看板を掲げた旧
い構えの店が春の日差しの中に幻のようだ。
“これ、いいわねぇ”“ほんとだ、いいね”
二人はそう言い合いながらも何一つ買おうと
は言い出さない。見つめ合って微笑んで、そ
してすべてを諦めるのだ。“あら、可愛い。
歩き始めたばっかりね”少女は店の奥からよ
ちよち出てきた幼児を見て微笑んだ。とその
時、幼児は綺麗な藍色のティーカップを掴ん
だままぱたりと転んだ。幼児は泣き出し、テ
ィーカップは真っ二つに割れた。その瞬間少
女がほんの一瞬、幼児に憎さげな視線を投げ
たのを青年は見逃さなかった。傾斜していく
兆しにおののいたが、青年を見上げる少女の
笑顔はいつもと何も変わらなかった。
 茂草鉄道の最終電車は十七時三十二分だ。
その頃になるともう駅員すらもいなくなる。
夕日の射す短いプラットホームに立って、二
人は電車を待っている。“私、幸せよ、今が
一番”“そうだね。僕も幸せだよ”
 電車は四十分を過ぎても現れない。“もう
帰らなくていいのよ、きっと私達”青年はそ
の声に促されて線路を歩き始める。その先は
草が茂り、もう何処へも続いてはいなかった。

〔発表:平成元年(1989)12月第52回東京座会/初出:「短説」1990年1月号/再録:1990年12月・年鑑短説集〈4〉『海の雫』/WEBサイト「西向の山」upload2002.4.5〕
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2006年4月10日 (月)

短説:作品「微笑みの町」(向山葉子)

   微笑みの町
 
            
向山 葉子
 
『ようこそ、さち子さん』と大書きされた垂
れ幕の下に、家族全員がにこにこしながら坐
っていた。そして、さち子の顔を見るなり、
「ようこそ」「ようこそ」と口々に歓迎の言
葉を投げかけるのだった。さち子は照れてし
まって、横にいる夫の顔を見上げた。夫もま
た微笑みを湛えて「ようこそ」と手を差し出
す。ここは微笑みの町だ、とさち子は思う。
角の煙草屋のおばさんも、お巡りさんも、み
んな柔らかく微笑んでさち子を迎え入れてく
れたのだから。もうあくせく働くこともない
のだ。「ふつつか者ですがよろしくお願いし
ます」さち子は幸せな気持ちで頭を下げた。
 午後からは夫に連れられて散歩に出掛けた。
畑のキャベツ、鎮守の森、緑色が大半を占め、
空気も清々しかった。「東京とは思えないわ」
深呼吸をしながら言うさち子に夫は誇らしげ
に答える。「だろう? ここは保護区だから
ね。道路工事も多いだろ。子供やお年寄りの
ためにも道路だって疎かにしない町なんだ。
そうだ、君のことみんなに紹介しなくちゃね」
と夫は町行く人に一々さち子を紹介し始めた。
道路工事夫に至るまで、さち子は頭を幾度下
げたことか。が、みんなみんな微笑み返して
くれるので、疲れなど感じなかった。「これ
でよし、と。君はもうこの町の人だよ」
 一か月ほどたつとさち子はすっかり町にも
家族にも溶け込んだ。結婚前のあらゆる不安
も消え去って、妻としての自覚も生まれてき
たようだった。そろそろ友達にも惚気を言い
たい気分にもなって、出掛けることに決めた。
「大丈夫かしら」と心配気な義母を後に足取
りもかるく家を出た。駅への道は工事中だっ
た。「ここは一方通行だから」と通してもら
えない。迂回した先もまた工事中。さち子は
町をくるくる巡り遂に駅へ辿り着けなかった。

〔発表:昭和63年(1988)5月第33回東京座会/初出:「短説」1988年6月号/再録:1989年10月・年鑑短説集〈3〉『乗合船』/WEBサイト「西向の山」upload2002.4.5〕
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2005年12月30日 (金)

短説:作品「出口」(向山葉子)

   出 口
 
            
向山 葉子
 
 いつの間にか夜になっていた。車の振動に
身を任せながら外を見ると、空には満月。私
は一体どこに連れていかれるのだろう。
 発端は多分あの一言だ。それは、娘の幼稚
園の母親たちが定期的にもつ茶話会の席のこ
とだ。
「どうして町の外に行くことができないんで
しょうねえ?」
 なにげなく言ったのだったが、和やかだっ
た場が一瞬凍りついた。隣にいたしいちゃん
のママがぎこちない笑みを浮かべて言った。
「あなた、方向音痴だからよ」
 それを機にもう何もなかったようにまた穏
やかなティータイムは続いた。
 ああ、あの言葉は禁句だったのだ。この町
に来て七年。私は一度もうまく駅にたどりつ
けたことがなかったが、なぜなのか考え続け
るにはこの町はあたたかく、なだらかに時が
流れすぎるのだっだ。
 茶話会から二日ばかりたった頃、警官が訪
ねてきた。銃刀法違反の疑いがあるとのこと
で、任意同行を求められた。当然無実のはず
だった。取り調べの警官は、この町の人間と
おなじような親しげな微笑みを浮かべていた。
微笑みながら彼は言った。「あなたは確信犯
なので、このまま護送しなければならないの
です。ああ、娘さんと息子さんのことはご心
配なさらなくていいですよ。この町のみんな
で健やかに育てていきますから」
 車は、町を抜けてどんどん遠ざかっていく。
運転手は無言のまま任務を遂行する。後頭部
と肩しか見えない。少し長めの髪の男性。小
刻みに震える肩。その肩に見覚えがあるよう
な気がした。ずっと昔から知っている肩。誰
だったのかは思い出せないけれど、確かに知
っている背中なのだった。

〔発表:平成10(1995)年11月第21回東葛座会/初出:1996年2月号「短説」/再録:1996年7月「日&月」第2号/「西向の山」upload2002.5.25〕
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2005年11月12日 (土)

短説:作品「仙台のお姉ちゃん」(向山葉子)

   仙台のお姉ちゃん
 
            
向山 葉子
 
『マヤちゃん、な、マヤちゃんでば』
 呼ばれた気がして、部屋の中を見回した。
ヨシトは階下のトイレでウンチの最中のはず。
母が呼んだのかと階段の下を見てみるが、包
丁の音がしているだけ。ちょっと怖くなった
ので、降りていこうとする。
『マヤちゃんでば。私だ。せっかぐ待ってた
ったのに、冷てんでねの』
 振り向くと部屋の真ん中に、自分より二つ
ばかり年上らしい少女が座っている。なあん
だ。お姉ちゃんか。知らない子のはずなのに
なぜか知ってる顔なのだ。
『この家、だあれもいなぐなってさ。しかた
ねがら、私が守ってんだっちゃ。あんた達だ
って、夏にしか来ねしな』        
「ごめんね。バァバ、もう動けないし。私も
学校、色々と忙しいのよ。夏休みの宿題だっ
ていっぱいあんの」
『そら、大変だな。気楽だよー、ワラシ生活
は。隣も空き家だし、あっち向かいも留守だ
しな。ワラシ同士でいっつも遊んでんだ』
「いいな。私もワラシになりたいよ」
『だめだー。ワラシは、なんねばなんね運の
子供したなれねんだもの。あんたはちゃんと
おっきくなねばな』
「おねーちゃーん」トイレからヨシトのけた
たましい声。ウンチ終了。
「拭いてやらなきゃ。手のかかる弟だよ」
『あんただってそうだったよ。まだバァバ元
気で、こごさ戻ってきてもさ。お母さん、夜
寝らんねくれ泣いで。私が時々あばばしたっ
たの』
「ずっといたね、お姉ちゃん。ここに。どし
て忘れてるんだろ。夏に来ると思い出すのに」
『それはさ。あんたのほんとのお姉ちゃんに
なれねがったからさ』

〔発表・初出:平成12(2000)年6月・「日&月」第8号/WEB版初公開〕
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2005年9月14日 (水)

短説:作品「岩谷入洞」(向山葉子)

   岩屋入洞
 
            
向山 葉子
 
 がしゃん。鉄の扉が閉じたような大きな音
だった。だがそれは、入場口のカウントバー
が回った音に過ぎなかった。飛沫がそこまで
届いているはずなのに、波の音は聞こえてこ
ない。
 息子の小さな背中は、もう薄闇の向こうに
あった。急いで追いついて手を握る。ヨシト
は私を見上げて笑って見せる。ぼんやりした
オレンジ色の照明はあるが、先を見通せるほ
ど明るくはない。
「こわくない?」
 ヨシトは私の質問には答えずに、奥の闇を
見つめている。
「龍がいるんだって」
 進んでいくと、小さな小屋があった。老人
が座っていて、黙って小さな手燭を渡してく
れた。息子にもちゃんと一つ。
 二つの頼りない灯火が揺れている。壁面を
水が滴っていく。時折、頬にも落ちてくる。
壁に並んで彫られた観音様は、少しずつ浸食
されていくのだろう。鼻も口も丸くなって、
輪郭もはっきりしなくなっている。光が回り
こんでいく時に、目のあたりだけが瞬くよう
に見える。ヨシトの体に力が入ったのを掌に
感じた。
 奥の闇の中から、戻ってくる火影がある。
髪の真っ白な老婦人と、手を引く中年の男性。
「龍、いましたよ」
 すれ違う時、男性がささやいた。
「岩の間に隠れてしまいましたけどねえ」
 老婦人が付け足すように言うのを訊くと、
ヨシトは奥に向かって走り出した。
「龍が逃げちゃう」
 ヨシトの手が掌からすり抜けていってしま
う。揺れながら遠ざかっていく背中を、滑る
岩に足を取られながら追いかけるのだった。

〔発表:平成17(2005)年3月・4月ML座会/(雑誌未発表)/WEBサイト「西向の山」upload:2005.9.6〕
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2005年8月12日 (金)

短説:作品「盆まつり」(向山葉子)

   盆まつり
 
            
向山 葉子
 
「あんたがバッパの着物の裾、握ってたんだ
べや」
 従姉妹が、半分涙声で言いながら、おろし
たての色鮮やかな花模様がいっぱいついた藍
染の浴衣の裾を蹴散らすようにして先を行く。
「エッちゃん。浴衣、汚れっぺっちゃ」
「いいんだ、こんなの。そのうちあんたにお
下がりになんだべや、どうせ」
 つんけん言いながらも、手をぐいと引いて
くれる。洗いざらした浴衣の裾がまとわりつ
いて、もう歩けない。私はめそめそとしゃが
みこんでしまう。夜店の灯ももう遠い。
「迷子になったんだいが?」
 気づくと女の子が一人、私たちの前に立っ
ていた。私の目線に、少女のスカートがある。
丁寧に洗ってはあるが、継ぎがあたっていた。
「な、あんだの、きれいなベベだなや。それ
ちょっと着せてくれんだら、櫓のとこまで連
れてってくれっぺや」
 従姉妹は、少女の服と浴衣を取り替えた。
前を行く少女は、肩を揺らしながら軽い足取
りでひょいひょいと人込みを分けていく。時
々振り向く笑い顔を見失いそうになる。少女
はその度にけらけら笑いながら手招きをする。
やがて少女は立ち止まる。私は櫓の明るい灯
の中に、辺りを見回しているバッパの姿を見
出した。少女を追い越して駆けだした。振り
返ると、人込みの薄闇の間に少女の生真面目
な白い顔が浮かんでいるように見えた。少女
にお礼を言おうと、バッパの手を引いてきた
のだが、もう少女の姿はどこにもない。
「浴衣、着替えたまんまだべっちゃー」
 従姉妹が薄闇に向けて泣きながら叫ぶ。
 バッパは、手を握って言う。
「べべ着て、浮かれて、飛んでったんだなや。
お盆だがら、いいべや」

〔発表:平成11(1999)年7月・8月東葛座会(原題「夏まつり」/初出:「短説」1999年10月号/再録:「短説」2000年5月号〈年鑑特集号〉*1999年の代表作「天」位選出作品/再録:「日&月」第8号2000年6月/WEBサイト「西向の山」upload:2002.4.5/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.2.14〕
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2005年6月 1日 (水)

短説:作品「水曜日」(向山葉子)

   水曜日
 
            
向山 葉子
 
 何であんなに笑ったのか、もう忘れてしま
った。たった昨日のことなのに、笑ったって
ことだけしか覚えていない。
「何で笑ったんだっけ……」
 と透が煙草をくゆらしながら言う。
「……何だったっけ」
 明はコーラの瓶の口を嘗めながら考える。
「とにかく笑ったよな、俺達。腹の皮がよじ
れるぐらい」
 ビルとビルの谷間、青いポリバケツが乱雑
に置いてある路地。しゃがみ込んで二人は空
を見上げる。ビルに切り取られた空は、ポリ
バケツなみの薄汚れた色だ。
“静かだな”
 パトカーのサイレンが表通りを駆け抜けて
いく音を聞きながら、透はそう思う。明は空
の瓶に息を吹き込み、ボォーと汽笛のような
音をたてる。
 ボォーッ ボォーッ ボォーッ
「港」
 明が笑ってみせる。
 ピュィ ピュィ ピューィ
「さらに効果音」
 口笛鳴らして、今度は透が笑う。
 ボォー ボォー ピューィ ピューーィ
「んまいっ」
 二人は声を立てて笑い合う。明日にはまた
忘れているんだろう、と思いながら。
「やべー、マッポだよ、透」
「ほっとけよ、やつらの言うことなんか決ま
ってるよ。あなた達、学校はどうしたの」
 二人は笑いをこらえながら、ママポリスの
登場を待つ。果たして彼女は言う。
「あなた達、学校はどうしたの」
 二人は爆笑する。腹の皮がよじれるほどに。
明日になれば忘れているだろうと思いながら。

〔発表:1987年4月第20回東京座会(千葉県我孫子市・手賀沼公園探題会)/初出:年鑑短説集〈1〉『旅のはじまり』1987年7月/「西向の山」upload2002.4.5〕
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2005年5月 1日 (日)

短説:作品「失われた螺子を求めて」(向山葉子)

   失われた螺子を求めて
 
            
向山 葉子
 
 ここへ入ることが決まったのは、十八の二
月だった。桜の咲く頃に、ここの一員である
証の赤い靴を貰った。麻里は、控え室で新品
の真っ赤な靴を履き、どきどきしながら扉の
開くのを待っていた。扉の向こうからは、ほ
のかにワルツの音が漏れている。
 さあ、扉が開く。目映いライトが麻里の目
を射る。一際音高く、音楽が奏でられる。麻
里は胸を張って、一歩目を踏み出した、と思
った時、後ろから続くはずの少女達に激しく
突き飛ばされた。麻里は、くるくると回りな
がら部屋の中央あたりでばったりと倒れた。
麻里の周りを少女達はまるで嘲けるかのよう
に、軽やかに、そして美しく舞ってみせる。
立ち上がろうと焦る麻里の目に、少女達の赤
い靴がいくつもいくつも立ちはだかる。少女
達の巻き起こす風が、床の振動が、麻里の体
の螺子をだんだんに緩ませる。一番初めに緩
みきって抜け落ちていったのは、頭の螺子だ
った。頭から落ちた螺子を追って、麻里は少
女の足の間を這いずり回る。螺子は少女の赤
い靴先から靴先へ蹴り飛ばされ、やがて見え
なくなった。螺子を見失った麻里は、狂った
ゼンマイ仕掛けの人形のように、這いつくば
ったまま何時までもくるくると同心円を描く
ばかり。見かねたシスター達が、やっとのこ
とで麻里を踊りの渦の中から救い出す。螺子
がとれ、認識の狂い始めた麻里の目は、それ
でもまだ、失われた螺子を追い求めていた。
 
 新しい螺子を締めてもらい、一ヵ月の静養
の末、麻里は再び赤い靴を履き始めた。しか
し、音楽が鳴ると新しい螺子はきりきりと麻
里の頭を締めつける。麻里は、激しい偏頭痛
に襲われながら、無意識のうちに失われた螺
子を探し求めているのだった。

〔発表:1987年1月第17回東京座会/初出:年鑑短説集〈1〉『旅のはじまり』1987年7月/「西向の山」upload2002.4.5〕
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2005年3月23日 (水)

短説:作品「弟地獄」(向山葉子)

   弟地獄
 
            
向山 葉子
 
 弟が行方不明なんです。逃げた小鳥を探し
にいったまま。……ええ、そうです。鳥籠を
持ってます。どなたか弟を見かけた方はいま
せんか。青いズボン、千鳥格子のハンチング
です。籐の鳥籠を抱えているはずです。チン
ドン屋のおじさん、知りませんか。……そう
ですか、見かけませんか。え? カフェの女
給に聞いてみろって? ええ、そうしてみま
す。暗い路地に分け入って、私は弟を探しま
す。お姐さん、弟を見ませんでしたか。……
そうですか、知りませんか。え? 曲馬団の
ピエロに聞いてみろって? ええ、そうして
みます。風吹く荒野を横切って、私は弟を探
します。ピエロさん、弟を見かけませんか。
……え? お母さんに聞いてみろって? え
え、そうしてみます。お母さん、お母さん、
お母……ああ、そうでした。お母さんはとう
の昔に亡くなりました。幼いころから愛しん
でいた手鞠と一緒にもうとうの昔に煙になり
ました。だれか弟を知りませんか。街灯だけ
がほのぼのと揺れる街、私は弟を探します。
ころころ鞠が転がって、私の足にじゃれつい
て……ああ、これはお母さんの手鞠。お母さ
ん。振り向くとお母さんがにっこり笑って立
っています。お母さん、お母さん、弟を返し
てください。おほほ、おほほ……まだ若いお
母さん、まだ綺麗なお母さん、笑いながら私
の手から鞠を奪って逃げていきます。お母さ
ん、お母さん、お願いです。弟を返してくだ
さい。おほほ、おほほ……もうあの子は返さ
ないよ。だってまた私の中に戻ってきたのだ
もの。お母さん、お母さん、お願いです。弟
を返してください。おほほ、おほほ……お母
さんは笑いながら街の闇へと消えていきまし
た。残された鳥籠の中には、死んだ小鳥が眠
っています。

〔発表:1986年3月第7回東京座会/初出:年鑑短説集〈1〉『旅のはじまり』1987年7月/「西向の山」upload2002.4.5〕
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2005年2月18日 (金)

短説:作品「ママムシ」(向山葉子)

   ママムシ
 
            
向山 葉子
 
 二人の子供たちは、朝起きてから夜、寝入
ってしまう直前までトップギアで突っ走る。
「一緒に布団に入るから、もう寝ようよ」誘
わなければ、決して眠らない。誘った方はと
いえば、子供より先にもう夢うつつ。
 何でこの子、こんなに眠らないんだろう。
赤ん坊って、一日の大半を眠って過ごすって
嘘じゃない。早く眠ってよ。眠れったら。こ
れじゃ、私なんにもできない。本も読めない。
こんなモノ、産まなきゃよかった。何でこん
なことになったんだろう。もっと他に、しな
くちゃならないことがあったはずなのに。も
う絶対子供なんて生まない。ぜーったい、生
むもんか。
 気づいたらもう夜明けだ。私は欠伸を一つ
すると、また布団に丸まった。あと二時間は
眠れる。七時に起きてマヤを送り出し、九時
にヨシトを幼稚園へ。茶碗を洗って、洗濯物
を干して掃除機をかけて、お風呂掃除をする。
もう十一時半。ヨシトを迎えに行って、スー
パーで買い物をする。お昼をすませて少し休
んでいるとマヤのご帰宅。三時半から絵の教
室があるので、それまで二人を公園で遊ばせ
る。仲のいいママと木陰でお喋り。
「佐々木さんとこ、離婚するらしいわよ」
「えー、何で。ご主人、マメな人なのに」
「そのマメさがさ、他の女に向いたらしいの」
「どこの女よ」
「それがさ、占い師だって」
 ママーッ。マヤの驚いた声がする。
「どうしたの?」
「これこれ」
 幼虫が羽虫を食べているところだ。それも
頭から。
「これね。赤ちゃんがママを食べて大きくな
るんだって。テレビで見た。この前」

〔発表:1998年5月第51回東葛座会/初出:1998年10月「日&月」第6号/「西向の山」upload2002.9.14〕
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2005年1月27日 (木)

短説:作品「慈母」(向山葉子)

   慈 母
 
            
向山 葉子
 
「ああ、もうすぐ黄昏がくる。母は仕事に行
くことにしよう。戸締りをして、しっかり留
守番をしていておくれ」
 母は、水鏡に顔を映して化粧の手を休めず
に言う。
「何時ごろお帰りなの」
 姉は今年十二になる。
「遅いと眠くなるよ」
 弟は九つ。「その時は先にお休みよ」と二
人の頬をなでて、母は家を出る。
 森の向こう、太陽が沈むまでにはまだ間が
ありそうだ。滲んだ血のような色が、木々を
染め上げている。村が近づくころになると、
薄闇が静かにおりてくる。
「遊びたりない子はいないかい」母の声は闇
に溶け込んで、幼い娘に変化する。手には金
糸銀糸に彩られた錦の毬を持って。
「きれいな毬。貸してくれるの」
 母は近づいてきた少女に毬を渡す。少女は
毬をつく。ひとつ、ぽん、ふたあつ、ぽん、
みっつ。「それは、お前の首だよ」
 首のない少女は、自分の首で毬つきをして、
十回目にぱったり倒れる。首は転がって、花
の盛りの繁みに消えた。
 母は着物を脱がせ、それをきちんと畳んで
懐にねじ込むと、少女の体を横抱きにして走
り出す。木々がのけぞっていく。

「母さまの獲物はどうしていつも首がないの」
 首のない小さな猪を見つめて、弟が言う。
「何も見えぬように。聞かぬように。喋らぬ
ように。愛し子の首は無垢なまま。母の懐ヨ
帰るであろう」
 母は皮を剥いでいく。桃色の柔らかそうな
肉。
「滋養があるよ。御馳走だよ」

〔発表:2004年4月4日新ML座会/初出:2004年7月号「短説」/「西向の山」upload2005.1.25〕
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