2009年12月24日 (木)
三角クジ
糸井 幸子
あれは確か、三年前の暮れだ。
洋子は、夫の達夫と一緒に冷蔵庫を買いに
行った。買物を済ませ、洋子が急いで帰ろう
とすると、達夫は、貰った券で三角クジを引
いて来ると引き返した。
「賞品だってよ」
葉書より少し大きめの白い封筒をブラブラ
させながら戻って来た。
「なあに?」
中を覗くと、スポンジの板が入っている。
「なにかしら?」
引っぱり出してみると、紺の絣を着た忍者
が出てきた。体はきせかえ人形のようにバラ
バラに刷られている。胴体、顔、頭、チョン
マゲ、腕、手甲と黒いはばき、それに、直径
三センチ程の葉っぱが二つ。いずれも切り抜
くようになっていた。
「そんなの、捨てちゃえば」
しかし達夫は、洋子の目を盗むようにして、
ポケットヘ突っ込んだ。
夕飯を済ませると、達夫は、白い封筒から
スポンジ板を取り出し、忍者の切り抜きを始
めた。切り離しては組み立てていく。
達夫の家の風呂に忍者が住みついたのはそ
の晩からだ。
達夫の後の風呂に入るたび、忍者は交通整
理のおまわりさんよろしく腕を上げたり下げ
たりしている。そして今夜は、葉っぱに乗り、
湯舟の中に浮かんでいた。洋子は達夫の幼稚
さに呆れた。
湯を汲もうとした時、ポロッと忍者の手が
落ちた。拾い上げると、一文字に結んだ口元、
大きく見開いた目、瞳を中心に寄せた忍者が、
洋子に笑いかけた。
八歳のとき交通事故で死んだ息子は、叱ら
れると、よくこんな表情をしておどけた。
〔発表:平成9年(1997)12月藤代木曜座会/初出:「短説」1998年2月号/再録:「短説」1999年5月号〈年鑑特集号〉*1998年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.2.18〕
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2009年12月15日 (火)
クエンカの一日
小林 稔
ラマンチャの岩と砂の荒野を車窓から見渡
し辿り着いたところが、クエンカという町で
あった。
タイルが貼られた駅を出て、とことこと歩
いていくこと一時間、リュックに引きずられ
て両肩がもぎれそうに痛い。
白く塗った幹の街路樹の下を歩道に沿って
歩き、立ち並んでいた店がとぎれ民家がまば
らになってきた。前方に切り立った岩の山が
聳えている。さらに近づくと岩にしがみつく
ようにあちこちに木の家が建っていた。
谷間には吊り橋がかかっている。だれもい
ない。日は暮れかかって、岩の山の輪郭を白
く浮き立たせている。
私はリュツクを背負ったまま吊り橋に足を
かけた。足元が揺れる。橋の向う側は見えそ
うにない。心細くなりながらも歩みを進める
のだった。
人影がある。だれかが向こうからやって来
るらしい。さらに歩いていくと十歳そこそこ
の少年が向こうからやって来るのだった。ロ
ープを手のひらで辿りながら歩いて来る。私
に気が付いたらしく、歩幅を少し緩めた。あ
どけない顔をひきつらせて、視線を外しなが
ら歩みを止めなかった。少年と私は距離を狭
めて、まもなく橋の中程で擦れ違った。
すると、「チーナー、チーナー」という少
年の声が洩れ、岩の山に谺して谷間に響き渡
った。
振り返ると少年の後ろ姿が遠くに見えた。
私はこれ以上、橋を渡る理由がなくなったよ
うに思えた。すくに引き返して橋を渡りきり、
来た道を急いで戻った。少年の姿はもはやな
かったが、少年の甲高い叫び声が、いつまで
も私の耳から離れないでいた。やがて、にぎ
やかな人ごみの中を私は歩いて行った。
〔発表:昭和63年(1988)11月第39回東京座会/初出:「短説」1988年12月号/初刊:年鑑短説集〈3〉『乗合船』1989年10月/再刊:小林稔紀行詩文集『砂漠のカナリア』2001年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2008.9.22〕
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2009年11月 1日 (日)
待って
川嶋 杏子
「また来ておくれ」
ばあちゃんは何回もそう言っていた。次の
日から毎日道の方を見ていた。
あのお姉さんはもう来ない。僕は思ってい
た。僕の母さんのように。もう決してあの知
らないお姉さんはここへは来ない。お姉さん
はやがてお嫁に行き、男の子を産んでよその
男と駆け落ちする。僕の母さんのように。
母さんはやがてばあちゃんのようになる。
黙って炊事をし、しゃがんで洗濯をし、庭
先へ出ては通る人を呼び止める。
誰が来ても同じ話を、今日もあしたも同じ
話を、やがて誰も居なくなっても話し続ける。
風に向かって。音に向かって。
僕は母さんの事をあまり憶えていない。僕
はこのままでいい。
ばあちゃんは言っている。
誰にも人生は有るのだよ。誰の人生もそう
変わりはしない。ブラスマイナスゼロだよと。
始めは身の上話だった。話の中身はだんだ
ん変わって行った。でも誰の人生も同じって、
本当にそう思っているかどうかは分からない。
僕はやがて大人になって街へ出て行く。
僕はもっと大人になってばあちゃんの所へ
帰って来る。そして僕は考え続ける。
誰か女を不幸にしなかったかと。
ばあちやんはもう待つこと自体が生活にな
って、自分が何の為に庭先から道を見ている
のか分からない。でも僕にはその方がよかっ
た。来ない人を待つのは辛かろうから。
お姉さんは気まぐれに寄っただけ。通りが
かりに、ただ話しかけられたから。
でも時々思う。またあのおばあさんと話し
たい。また行きたいと思っているかもしれな
い。けれどそれは多分お姉さんが不幸だから。
お姉さんはもうここへ来なくていい。
〔発表:平成17年(2005)7月上尾座会/初出:「短説」2005年10月号/WEB版初公開(追悼)〕
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2009年3月 3日 (火)
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選 考
向山 葉子
まだ予定時刻にはなってはいなかった。控
室のドアを開けると、少年たちの放つ水草の
ような匂いが流れ出てくる。
彼は静かにドアを閉めると、一人一人に缶
ジュースを配って歩く。着古した背広姿の彼
を、多分だれも『その人』だとは気づいては
いない。彼の瞳は少しも騒がない。パイプ椅
子に腰かけて、時折菓子をすすめながら、穏
やかに少年たちの行動を見つめている。
たとえほんの少しでも自分に自信がなけれ
ば、ここにはいないはずの少年たちなのだ。
その自身がどこから発するのか。写真だけで
はわからない。一人一人の空気を感じ取るひ
ととき。彼はこの時間が一番好きだった。
時刻になった。係員がドアを開けて入って
くる。そして彼に一礼するとこう告げるのだ。
「この方が当事務所の社長です」と。一斉に
少年たちの表情が固くなる。
そして彼は結果を告げる。「そっちのキミ
ね。あとの人はお帰りになっていいですよ」
選んだ子は、待っている間もずっと怒った
ような顔をしていた。二重の切れ長の瞳の光
に力があった。その視線に出会うと、胸の辺
りから股間にかけて熱い疼きが走るのだった。
その表情は、彼の正体がわかっても変わらな
かった。
「キミ、ちょっと笑ってみてください」
「笑えません、今は」
「キミが笑うとね。きっとみんな、胸がきゅ
っとくると思うんですね。怒ったようなその
顔、いいですよ」
少年は強い光を放つ黒々とした瞳で、彼を
見つめた。唇の形もいい。彼は思った。少し
厚ぼったいのが、南方の異国の少年のようで。
背があまり高すぎないのもいい。彼が強張っ
ている少年の背中を、すっと触った。
〔発表:平成13(2001)年3月・短説の会創立15周年記念全国大会(埼玉県嵐山町)「天」位入賞作品/初出:「短説」2001年4月号/再録:2001年7月号「月刊TOWNNET」通巻320号/「西向の山」upload2002.11.30〕
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2009年2月21日 (土)
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初めの一歩
館 としお
昨年度の業績の分析が終わったと思ってキ
ーボードから手を離した時、目の前に見えた
のは天井の蛍光灯だ。目を下に向けると書類
が立て掛けられた八人分の机が見える。私の
机はニメートル位の高さにあって、頭が天井
に当たりそうだ。
ワープロの電源コードは一メートル半位だ
ったが、コンセントは外れていないのか、私
が作った報告書の一部が写っている。
夢だと思って頬をつねったら痛い。何が起
こったのか分からなくなった。今日の朝食は
いつものと同じ、パンとコーヒー、それにト
マトとレタス、チーズを一切れだった。
体を少し持ち上げて椅子の上に落としてみ
たが、体は少ししか上げられなかった。椅子
と机は少しだけ上下に揺れたが、高さは変わ
らなかった。
次に体を左右に揺すった。椅子と机も左右
に揺れた。体を止めると椅子と机も止まった
が、高さは変わらなかった。私は数分間その
ままの状態でいた。
周りを見回しても、誰もいなかった。誰か
が来たら降ろして貰おうと思ったが、誰も現
れる様子はない。八人の部下は皆出払って、
いつ帰って来るのかは分からない。私一人に
なってしまった。
しばらくそのままにしていたが、このまま
では仕方がないので、椅子から離れて歩くこ
とにした。初めの一歩をそっと踏み出すと、
空中に浮かんで足が止まった。そのままもう
一歩歩いた。また浮かんで止まった。私はそ
のまま歩いて部屋から出た。
部屋を出てから気づいたことだが、伺じ高
さを歩いている人が他にもいた。皆普通に歩
いている。私は今でも慣れないので、一歩ず
つ踏み締めて歩いている。
〔発表:平成8年(1996)5月通信座会/初出:「短説」1996年7月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.4.20〕
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2009年2月 2日 (月)
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丸亀うどん店
相生 葉留実
暖簾を下げるために戸口に近づくと、客が
戸を開けた。女が入り、男がつづいた。
「はい、いらっしゃい、こちらへどうぞ」
と奥の席に案内した。
私はすぐに熱い茶を出す。女が一気に飲む。
「天麩羅うどん二つ」
「天麩羅二つ」奥にいる妻に声をかけた。
調理場に入って、ガスをひねる。入り口の
戸が少し開いた。鳥打帽の男Kだ。妻にコン
ロの火を指さして戸ロヘいき、外へ出た。
「今入った客ね。女は、スパイだから気をつ
けろ。ほら、手帳を出している」
Kはそれだけ言うと、くるりと背を向けて、
去った。
調理場では、うどんがあつあつに仕上がっ
ている。海老天をのせて熱いだしをたっぷり
とかける。いつもならお盆に箸と、唐辛子を
添えるのだが、小瓶は棚においた。
「おまたせしました」
客は余程腹が空いていたらしい、うどんを
口いっぱいにほうばる。
見計らって、唐辛子の瓶を持っていく。
丼鉢には海老天が残っている。東京もんは、
先に天麩羅を食べる。うどん好きの関西人は
矢も楯もたまらなくなって、うどんを先に平
らげる。
お品書きを下げようとすると、
「あっ、見せてください」
「なにか注文でも」
「いえ、もうお腹一杯」
手帳にメニューと値段を写している。
支払いを済ませ立ち去った。
すぐに製麺所へ電話をした。
「もしもしうどんを先に食べました」
次は天麩羅屋に掛ける。
「もしもし、海老天を尻尾から食べました」
〔発表・初出:平成20(2008)年5月号「短説」(巻頭招待席)/WEB版初公開(追悼)〕
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2009年1月23日 (金)
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かがやく銀河の夜
河江 伊久
おばあちゃんが旅に出るといったとき、
「誰と? 何処へ?」と、つい聞いてしまっ
た。一人で――へ行く、といったが――の部
分は聞こえなかった。聞きかえすのがためら
われる何かが、おばあちゃんにはあった。
出発の日がきて、ザックに荷物をつめ白い
上着をきたおばあちゃんをみたとき、なぜか
胸がいたんだ。一人で行くと言いはったので、
ぼくはこっそり駅まで後をつけた。おばあち
ゃんの白い服が濃い闇の中にふわりふわりと
浮かんで、魂のゆらめきのように見えた。
おばあちゃんの乗った汽車には、頭の白い
老人ばかりが座っていた。弁当を食べたり、
笑いさざめいているようだが音は聞こえない。
水底にゆらいでいる生き物のようだった。
ぼくはその夜、秘密の老人列車がこっそり
旅立つ夢をみた。老人列車は闇の中をひた走
って、海峡線で乗り換えだった。
「秘密が肝心、極楽は銀河の向こうに」と、
夢幻列車はすすんで行った。
「身延山へ参詣に行ったのよ」と、隣家のお
ばさんはぼくをなだめてくれたが、ぼくには
おばあちゃんは帰って来ないように思えてな
らなかった。
衰弱しきったおばあちゃんが帰ってきたの
は、それから十日もたってからだ。心配する
ぼくに、「夢のような音楽がながれ、いい匂
いの食べ物があった。心配なんか何もない」
といった。
おばあちゃんの旅はその後、何度か続いた。
ぼくはその度に、秘密の老人列車の夢をみた。
ほの白く輝く列車の窓に、老人たちの銀髪が
光り、「秘密が肝心、極楽は銀河の向こうに」
というひそひそ声が聞こえた。夢から覚める
度にぼくは、一人で生きてゆく覚悟を固めて
いたような気がする。
〔発表:平成元年(1989)6月第46回東京座会/初出:「短説」1989年7月号/初刊:年鑑短説集〈3〉『乗合船』1989年10月/再刊:河江伊久短説集『小春日和の庭で』1995年12月/upload:2008.9.22〕
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2009年1月12日 (月)
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猫の絨毯
五十嵐 正人
レインボーブリッジを下りて、夜の湾岸線
に。いつになく、心地よい走り。タイヤは路
面に無理なく吸いつき、小石一つの振動も伝
えてくる。
二人が目指すのは、浦安ベイエリアの高級
ホテル。同じようにクリスマスを迎える車が
前後に群れをなしている。
「ねえ見て、東京湾も、夜はこんなに縞麗に
なるのね」
助手席の彼女が、運転席の彼に身を寄せた。
オートマチックの左ハンドル。男の右手が女
を抱きとめる。と、一瞬体が揺れた。
「どうしたの?」
「いやっ、何でもない。猫を礫いただけさ」
「なーんだ」
高速道路に猫。ちょっと変な感じはしたが、
間違いないだろう。あのボコッという感触。
「あれっ、まただ」
「寒くなると多いのよね。猫って、どうして
避けないのかしら」
見ると、前方の車が凸凹道を走るように跳
ねている。
ボコボコッ。
二人の車も跳ねはじめた。路面を確認する
勇気はない。おそらくは、一面に敷きつめら
れた猫の絨毯。目にしなければ、それですむ。
息を殺して、走り抜けよう。
ボコボコボコッ、ボコボコッ。
女の視線が、追い越し車線のドライバーの
目にあった。困った顔同士、会釈を交わす。
ボコッ、ボコボコボコッ。
未開の平原を走るバッファローの群れのよ
うに、恋人たちもオアシスを夢見て走る。
ボコッ。最後の一匹をプレスした音。
「ほらっ、シンデレラ城が見えてきた。明日
はスプラッシュマウンテンに乗りましょう」
〔発表:平成7(1995)年2月第12回東葛座会/初出:1995年5月号「短説」/WEB版初公開〕
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2008年10月25日 (土)
笑 顔
西山 正義
ショーケースから顔を上げた時だ。
「お決まりですか」
ぼくが彼女の笑顔にぶつかったのは。こん
な素敵な笑顔は見たことがない。
「あ、えーと、このチョコレートケーキと、
そっちのチーズケーキ」
「レアのほうですね」
「はい。それと……、あのブルーベリーのと、
それからモンブランも」と、余計なものまで
買ってしまった。一人で四つもどうするのだ。
学校を出て、一人暮らしも十年になる。せ
めてケーキでも買って、誕生日を祝おうとし
たのだ。
甘党のぼくでも四つはきつかった。それで
も二日後にまた行った。彼女の笑顔見たさに。
一ト月も経つと、よく一人でケーキを買い
に来る変な男の客ということで、店にも知ら
れるようになってしまった。
すでに三か月経った。日曜も仕事になった
り、遅い日が続き、しばらく行けなかった。
三週間ぶりに行くと、やはり彼女の笑顔が迎
えてくれた。
「今日はどれにいたしますか」と彼女がにっ
こり。
ぼくはつい、こんなことを口走っていた。
「その笑顔をください」
「レアのほうですね」
「え?」
意味がよく分からなかったが、「あ、ハイ、
できればレアで」とぼく。
サイフを出そうとすると、
「これは売り物ではありませんので、差し上
げます。どうぞ」と言って、彼女は笑顔を顔
から外した。
ぼくは、その笑顔を受け取ると、てのひら
に慎重にのせ、店を出た。
〔発表:平成17年(2005)年9月・第119回通信/東葛座会~10/12月・ML座会/2005年12月号「短説」/再録:2006年4月号「月刊TOWNNET-常総・歴史の路」/再録:「西向の山」upload:2006.2.5〕
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2008年10月13日 (月)
女ひとり
桂 千香
女が引っ越してきたのは二月の終わり頃、
小春日和の日曜だった。引っ越し業者の一〇
トントラックから数え切れない程の箱が流れ
出している。
「ねえ、あなた。隣、越してきたみたいよ。
すっごい荷物。何人家族かしら。タカシに新
しいお友達ができたらいいわね」
ゆうこは、そうつぶやきながらカーテンの
隙間から様子をじっと窺っている。夕方、イ
ンターホーンが鳴った。「そらきた。引っ越
しのご挨拶よ!」ゆうこはインターホーンに
映る見知らぬ女に、「はい、どちら様でしょ
うか」と静かな調子で言った。
細身の女だった。ゆうこと同じ三十半ば位
だろう。長い髪を一つにまとめ酒落たバンダ
ナで結んでいる。人なつっこい笑顔で女は、
よろしくと言って台所用洗剤を差し出した。
扉を閉めるなりゆうこは言った。
「普通、旦那と一緒に挨拶に来るものよね。
いいえ一人ってことはないわ。だってベラン
ダに黒のゴルフバッグが立てかけてあるもの。
やだ人聞きの悪いこと言わないで。首をちょ
っと出すと見えちゃうんだもの」
一ヶ月が過ぎた。ゆうこはせわしなく爪を
噛みながら言った。「ねえ、あれから隣の人
見たことある? おかしいのよ。ベランダに
一度も洗濯物干してないの。いいえ、いるは
ずよ。新聞も郵便も毎日とってあるもの。な
のにドアの音も掃除機の音も聞こえないの」
そして、またそろそろと暗がりのベランダに
出て隣をこっそり覗き見た。明かりは点って
いるが物音ひとつしない。
ゆうこは諦めて部屋に戻った。明かりもつ
いていないがらんとした部屋に一人、肩をす
くめてつぶやいた。
「ねえ、あなた。変わった人もいるものね」
〔発表:平成10年(1998)5月通信座会/初出:「短説」1998年8月号/再録:「短説」1999年5月号〈年鑑特集号〉*1998年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.2.18〕
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