2007年1月 8日 (月)

無縁坂のお玉さん

Ts2a0396  今日(もう昨日だが)は、ソフトボールのチームメイト数人で、プロ野球OBのマスターズリーグ戦を東京ドームに観に行った。それはどうでもいいのだが、野球→球→玉、東京ドーム→本郷→無縁坂からの連想で、再び森鷗外の『雁』について。
 
 最初に読んでからは二十八年ぶり、二度目からでも二十三年ぶりぐらいの再々読になる。三日かけて、ほとんど音読するようにじっくり読んだ。覚えていたのは、最初と最後だけで、真ん中の細部はすっかり忘れていた。『雁』といえば、“近代的自我”と反射的に出てくるように、文学史上の評価も解釈もとうに定まっている古典である。
 実際、中程の主要部はヒロイン“お玉”の半生・境涯に費やされているわけだが、この部分はある意味なくてもいい。いや、もちろんこれがなければ、“お玉”の〈悲劇〉は語り得ないのだが、最後の効果へ引き絞るツマみたいなものだ。連載小説のタイトルが当初から『雁』であったことからも分かる通り、また、物語の構造上からしても、最後の場面のすれ違いを描くために、人物像形されたものであろう。
 無論、眼目は語り手の「僕」でも、何の罪もないといえる「岡田」でもなく、“お玉”の境涯にある。それをどう解釈するか。作者は、それについて何の批評も教訓めいたことも付け加えていない。ただ物語っているだけだ。そこがいいのだが、いくつかのつまらない偶然が重なって、岡田の投げた一投で図らずも仕留められてしまった「雁」は何を象徴しているか。そうしたこともすでにさまざまな文学史家によって出尽くされている。いま僕がそれに付け加えることは何もない。
 ただ、“お玉”の境涯の細部は忘れていた。というより、僕はもう少し年嵩だったように思い込んでいたのである。「僕」も「岡田」も東京医学校の卒業一年か二年前の学生ということは、二十二、三歳。“お玉”はそれより一、二歳上の、高利貸の囲い者であると。実際は二十歳である。満で言えば十九で、人目を引く美人ではあるが、高利貸の囲い者というような妖艶な大人の女ではない。いや、当時の感覚で言えば、十分“年増”であろうが、すれてはいない。いや、そういう兆候は兆し始めていたのではあるが。
 それで思ったのは、最初にこれを読んだ時、そうか、“お玉”が二十歳だとしても、僕はそれよりはるか年下だったからだと。二十歳でも大人の女に感じていたのだろう。二度目に読んだ時は、だいたい同じぐらいの年代だったのだが、やはり明治の青年の方が大人びていると感じたからではないか。これは作品の評価とは全然関係のない個人的な感慨であるが。
 鷗外がこれを連載し始めたのは満四十九歳の時で、すでにその年齢に近づきつつある今の僕。“お玉”は一つの〈典型〉であって、形の上では似ていても、心理上の境涯は現代では考えられないから、とうてい現代に当て嵌めて考えることはできない。人々の生活は、昔も今もそれほど変わっていない、という部分もあるが、やはり大きく変わっているのだ。僕らのお祖母さんの世代ぐらいまでは、まだそいうこともあった。ということをあらためて認識できればそれでよいだろう。
 小説の技法上のことはどうか。それはまた別に考えさせられることもあったが、それは内緒にしておこう。一つだけ言っておくと、これもまた〈方法論〉の小説であって、つまりだから《近代小説》のそれも名作といえるのだ。

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2007年1月 5日 (金)

森鷗外『雁』

 どうもこの年末年始は体調が悪く、完全に風邪を引いたようだ。僕には珍しく鼻風邪。要するに普通の風邪なのだが、悪寒がして、頭も痛く、熱も少しあるみたいだ。たいして疲れるようなことはしていない。三が日は出掛けたが、その分早く寝てもいる。僕には異例なことだが、今年は新年から早寝早起きで、この調子は続けたい。
 今日は久しぶりに個人サイト「西向の山」を更新した。新たなページを加えるのは五か月ぶり。女房殿の短説を二作追加した。その勢いで、年末にできなかった〈短説の会〉公式サイトの方も作品を追加しようとしたのだが、力尽きてしまった。それで、ゴロゴロしながら森鷗外の『雁』を読み始めた。
 
 森鷗外の『雁』は、「古い話である。僕は偶然それが明治十三年の出来事だと云うことを記憶している」(新字新仮名に変換)で始まる。
 おかしなことだが、この冒頭を読んだ瞬間、たしかこういう書き出しの小説をどこかで読んだことがあるような気になった。もちろん、それがほかならぬ『雁』であるわけなのだが、たしかにこの冒頭は記憶にあって、それがこの作品であったかと改めて気づいた次第なのだ。過去に二度、それも多感な頃に読んでいるので、すっかり忘れたつもりでも、読み出せば細部も思い出されるのかもしれない。そして今の僕に何かヒントになることが見出されるかも?(そういう邪な読書はよくないが、久しぶりにわくわくして本を読む)
 この作品は、「すばる」の明治四十四年九月号から連載が始まる。当時を「現時点」と見れば、たしかに明治十三年は「古い話」である。約三十年前の話。今だって、三十年前となれば、古い話であり、特に風俗は大きく変わってくる。が、昭和生まれの我々からすると、いずれも明治時代の話で、この間の三十年間の移り変わりはピンと来ない。しかし、今から三十年前より、それ以前の三十年間の方が激動の時代であったように、最近の三十年間よりよほど移り変わっているであろうことは理解できる。
 ところが、冒頭すぐに出てくる下宿屋での学生たちの生活は、“下宿屋”自体がなくなっている現代とはやや趣が異なるにしろ、基本的には今の学生とまったく変わらない、と読める。しかし翻るに、明治十三年といえば、十数年前まで“江戸時代”だったのだ。幕末にはもう、現代にひと繋がりの文化・風俗・思想が、町人たちの間にはすでにあったらしいのだが、それにしてもちょっと驚嘆する。明治維新からわずか十年で、最高学府では現代と変わらない(いやそれ以上の)学問が行われていて、これは江戸時代の寺子屋制度がものをいっているわけだが、日本の教育水準の高さがあらためて知れる。もちろん弊害がなかったわけではない。が、これが現代日本の原動力だろう。それがアジアで突出した国にさせた。いい悪いは別にして。優秀な民族だと言っているのではない。そういう性質なのだ。だから、そういう性質でない民族が真似してもダメなのだ。
 それはそうと、明治はすでに遠く、インターネットも携帯電話も考えられないわけだが、人々の生活はさほど変わっていない!

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2007年1月 4日 (木)

ちくま文庫『森鷗外全集4』

 森鷗外を実に久しぶりに読んだ。(それにしても忌ま忌ましいのは、ほとんどのパソコンの日本語環境では「鷗(U+9DD7)」の字が表示できず、「鴎(U+9D0E)」で代用しているが、いい加減に改善しろと言いたい)。
 年末に、一昨年の公開講座のテキストの残部ということで、ちくま文庫の「森鷗外全集4」『雁 阿部一族』を職場から貰い受けてきたのだった。“読書”というのは、そのきっかけが偶然である場合も、その時々で読むべくして読むものを自然に選択しているものだ。僕にとっての今それは「雁」のような気がした。他にも数冊貰ったのだが、クリスマス前に持ち帰り、そのままにしてあったのを新年二日に手に取ったのだ。冒頭の「雁」はあとでゆっくり読むことにして、今まで読んだことがなかった「ながし」「鎚一下」「天寵」「二人の友」「余興」の五編を読んだ。
 鷗外の神髄は、一にも二にも簡潔・明晰な文体にある。と思っていたのだが、これらの五編は必ずしもそうしたものではなかった。いずれもマイナーな短篇で、文壇の要請にしたがって書き流されたもののような感がある。今の感覚で読めば、言葉や言い回しはいかにも“明治”なのだが、当時の現代語の最先端で書かれた口語の作品で、たぶん当時の普通の知識人が“普通に”読みこなせたものであったろう。
 大正二年から四年までのほぼ同時期に、比較的楽に書き流されたものであろうと想像させるが、しかし、顕著なのは、いずれも“芸術家小説”であるということである。したがって、決して“書き流された”ものではないことがわかる。いずれも突き詰めれば“創作とは何か”ということにかかわってくる。そういう作品群で、それなりに面白く読んだ。
 さてやはりこの時期の問題作としては「雁」であろう。中学三年で初めて読み、大学時代に再読しているが、今また読んでみたら、どんな風に感じるか。何を感じるか。楽しみである。

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2006年8月11日 (金)

小川和佑先生への手紙(ニコライ堂前にて)

 明大文芸科の恩師・小川和佑先生に手紙を書きました。久しぶりに長い手紙を書きました。私信ではありますが、差し支えないと思いますので公開します。実際に今日の昼過ぎ、ニコライ堂の前で書いたのですが、実はペンで便箋にではなく、パソコンのメモ帳にでした。以下はいわば下書きであり、帰宅後先生にはちゃんと便箋に万年筆で書きましたが、ニコライ堂の前で書いたことにしてしまいました。
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 拝啓 長い梅雨が終わったと思ったら、いきなり夏になりました。最近はみなメールになってしまいましたので、たまにはペンをとろうと、お便りします。
Ts2a0281 今、ニコライ堂の前にいます。摩耶の夏休みの宿題に付き合って。水彩画を描くのです。昨年は“ラドリオ”を描きました。これは親父の趣味といったほうがいいのですが、神保町-御茶ノ水シリーズというわけです。葉子と義人は、昨日から甲子園に高校野球を見に行っています。父と娘はおばあちゃん同行で都内でスケッチ。
 ところで、ブログというのをご存じでしょうか。ホームページみたいなものですが、個々の記事に訪問者がコメントを寄せることができます。それで、ぼくは「短説ブログ」というのを制作・公開しているのですが、もう一年半前に、山梨県長坂町にある「四季派書庫(小久保実文庫)」についての記事を書きました。小淵沢に、五十嵐さんとゼミ合宿の下見に行った時の訪問記です。その記事に、つい先日、津村信夫のある詩を探しているという方からコメントが寄せられました。非常に懐かしい気分になり、久しぶりに“文学的夢飛行”をしてしまった次第です。
 その探している詩というのは、「四季創刊号に載っていたと記憶する」ということなので、さっそく探してみました。その経緯もブログに書きましたので省略しますが、該当の詩は「生涯の歌」でした。
Ts2a0171 その方は、のちのやりとりで、どうやらぼくと同じぐらいの年代の人らしいのですが、ぼくが興味をひかれたのは、今時、津村信夫の詩を探している人がいるということもそうですが、それが『四季』(第二次)創刊号に載っていたと“記憶する”という点でした。これは只者ではありませんよね。加えて、小久保実氏のことを「小久保先生」と呼んでいる。先生のゼミではなかったらしいのですが、ぼくの推測通り、帝塚山学院大学の卒業生とのこと。
 そして、「四季創刊号と第二号のコピーで2年間のゼミを行いました。先生が個人的に持っていらしたもののコピーでした。四季は復刻版か現物かは分かりませんが、載っていた広告にあった豪華版の装幀についてもどんな感じか学生に考えさせていました」とのこと。ぼくも近代文学館に行って、実際に現物や復刻版を手に取ってみたりしましたが、小川先生が常日頃おっしゃっていた、詩誌や詩集の研究には原典に当たる必要があるということを、ちょうどぼくらと同じ頃、それを実践している学生(それもお嬢様女子大の)が、関西にもいたのです。当然といえば当然ですが、妙な親近感を覚えました。
Ts2a0286 それで、ぼくも久しぶりに津村信夫の詩を読み返しました。さらに、詩ではなく散文ですが、遅まきながらこの度初めて『戸隠の絵本』を読み、たいへん心惹かれました。
 立原道造の散文もいいのですが、やはり詩人の散文という感じがします。津村のにしても、本人が言うように「抒情日誌」であり、エッセイというよりは詩文集に近いのですが、よほど散文であり、もっと素直ですね。津村も若くして死んでいますが、立原よりは十年長く生きている。実生活では、病気を乗り越え大恋愛をし、それを実らせ結婚もし、子ももうけている。三十半ばまで生きていれば、甘いだけではないそれ相当の成熟というものがある。そのあたりに違いがあるかもと思いました。
 それにしても、やっぱり、『四季』を代表する詩人、そして最も『四季』らしい詩人といったら、この二人に尽きますね。今更ながら改めて思いました。
Ts2a0283 そんなわけで、もう一度『四季』を読んでみたくなりました。先生にとってはもはやこそばゆい感じがあるかもしれませんが、『四季』をテキストにかつてのような合宿ができないものかと考えています。いやもう遠くに行かなくてもいい。泊まらなくてもいい。昭和の詩をもう一度先生と読んでみたい。
 中也でも静雄でも達治でも丸山薫にしても、『四季』とは離れますが伊藤整にしても、どうしてこの時代の詩は、半世紀以上のちの二十一世紀になった今でも心惹かれるのでしょうか。あるいは今だからこそなのか。
 先生が“新しき古典”と名付けた一九七〇年代初頭、それからちょうど三十年たって、また同じような状況になったということでしょうか。抒情詩、甘くて結構と言いたくなります。
 では、暑い盛りとなります。どうぞご自愛のほどを。   敬白

   平成十八年八月十日 ニコライ堂前にて
                        西山正義
小川和佑先生

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2006年8月 4日 (金)

津村信夫の詩を介して

 このブログに嬉しいコメントがありました。ホームページやブログをやっていると、ごくたまにですが、まったく未知の人と愉快な交流ができることがあります。スパムメールや迷惑投稿・トラックバック等、いろいろ不愉快なこともありますが、基本的には「性善説」によって成り立つインターネット。こういうことがあるからやめられないですね。通常の生活圏・交流圏では、とうてい出会えない出会いがあります。
 
 本日未明(というか昨日の深夜)、もう一年半前にアップした、昨年二月六日の記事にコメントがあったのです。その記事は、山梨の小淵沢にある「四季派書庫(小久保実文庫)」について書いたものですが、「津村信夫さんの詩について検索していて、たまたまこちらに辿り着きました」とのこと。“ナナ”さんというハンドルネームとフリーメールのアドレス以外何も知り得ない、まったく未知の方です。
 女性とは限らないかもしれませんが、「小久保先生」と仰っているところからすると、もしかしたら帝塚山学院大学で先生の教えを受けた方でしょうか。
 それはともかく、「最近、四季創刊号に載っていたと記憶する津村信夫さんの朝べりの歌(だったと思いますがうろ覚え)をもう一度読みたく思って検索していました」ということで、僕も気になって探してみたのです。うちにある近代詩の各種アンソロジーでは見つけられませんでした。それで僕もネットで検索。
 そして、たぶんこれではないかと思われる詩を見つけました。“ナナ”さんにはメールしたのですが、その経緯は以下の通りです。
 
 インターネット上には奇特な人がいるもので、『四季』の総目録を掲載しているサイトがあります。「四季・コギト・詩集ホームぺージ
 それで、第二次『四季』昭和9年10月創刊号を見ると、津村信夫が発表している詩は「生涯の歌」一篇です。
 この「四季・コギト・詩集ホームぺージ」は、岐阜女子大学図書館の中嶋康博さんという方が制作しているもので、その筋では有名なのですが、輪をかけて奇特な人がいて、津村信夫(だけでなく何人かの詩人)の主要詩集を丸ごとブログにアップしている方がいました。
あどけない詩~詩と詩人の紹介~」-それによると、「生涯の歌」はこの通りです。
 その冒頭だけを孫引きすると、
「海べりの街の朝まだきを、鴉の群は遠くよびかはしながら通りすぎる。」
 というもの。
“ナナ”さんがお探しの「朝べりの歌」というのは、実はこれではないか。つまり、「朝べり」ではなく、「海べりの街の朝まだき」。
 
 ということをメールしたのですが、何が愉快って、いろいろ調べていて、久しぶりに津村信夫の詩が読めたことです。そういう機会を、このブログのコメントは僕に与えてくれたわけです。
 今日は暑かったです。昨日今日と気をつかう仕事をし、疲れて帰ってきて、夜が更けてもまだ暑い。そんな時に、軽井沢や戸隠のさわやかな風を運んでくれる津村信夫の詩が読めたのです。そういう瞬間こそを、優雅で贅沢な時間というのではないでしょうか。
 
 津村信夫は大恋愛をしていますよね。三十六歳の若さで、アディスン氏病という難病で夭折してしまいますが、身分の違いや病気(本人のではなく相手の)を乗り越えて結婚した、その恋女房に看取られながら星になったのでした。
 因みに、こんなホームページもあります。「大分文学紀行(湯布院)/津村信夫「鄙の歌」-長野・善光寺で撮られた津村信夫・昌子夫妻の有名な写真が転載されていますが、詩人のハートを射止めた(一目惚れだったと言われている)だけあり、美人で清楚そうな奥様であります。

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2006年4月25日 (火)

小川和佑『名作が描く昭和の食と時代』

 文芸評論家・小川和佑先生の新刊が出ました。
-『名作が描く昭和の食と時代』-
 最近「食育」というようなことが話題になっていますが、昭和の文学作品に見る「食」をテーマにした画期的な評論です。関西の竹林館から五日前に発売されたばかり。

 具体的に取り上げられている作品は以下の通り。

  永井龍男「黒いご飯」
  川端康成「伊豆の踊り子」
  宮沢賢治「雨ニモマケズ」
  高見順「如何なる星の下に」
  堀辰雄「天使達が」
  小島政二郎「悪妻二態」
  ブルーノ・タウト「ニッポン」
  横光利一「旅愁」
  伊藤桂一「戦場と糧食」
  大岡昇平「野火」
  武田泰淳「ひかりごけ」
  太宰治「斜陽」
  開高健「青い月曜日」
  中里恒子「時雨の記」
  中村真一郎「恋の泉」
  立原正秋「春の鐘」
  村上春樹「ノルウェイの森」
  吉本ばなな「白河夜船」
  海老沢泰久「美味礼讃」
  水上勉「土を喰う日々」
  大沢在昌「闇先案内人」

 これはもともと昨年一年間、明治大学リバティ・アカデミーの教養・文化講座で講義されたノートを基にしたものですが、稿としてはまったく新たな発想で書き下ろされた文芸評論で、ほかにあまり類を見ないものでしょう。
 この夏には、本書をテキストにした夏季集中講座の開催も決定しました。講座では、昭和にこだわらず、明治文学から説き起こされ、詩や俳句、時代小説まで論及される予定です。
 本についての詳細は「西向の山」の「小川和佑先生最新情報・新刊案内」を、公開講座については「講座案内」をご参照ください。

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2005年6月14日 (火)

倉橋由美子さんが!

 ショックだ! 倉橋由美子さんが亡くなった! 今、Yahoo!の毎日新聞ニュースで知った。「10日午前10時9分、拡張型心筋症のため死去した。69歳」。6月13日23時11分更新(最初に発表されたのは22時頃のようだ)とあるから、数時間前に発表されたばかり。大学の大先輩ということを抜きにしても、女流作家では最も敬愛する作家だったのに。彼女は大江健三郎と同い年で、ということは芦原修二さんとも同い年で……。ああ! 言葉もない。ただただ−−合掌

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2005年3月 7日 (月)

「暗黒の井戸」論議

 先程紹介した短説のML座会に、2月17日付けでこのブログに書き込んだ「中井英夫の『無用者のうた』論から」を、同時に配信していました。月刊「短説」誌上でも活字になる予定ですが、まだ先のことなので、まずはここで、それについての芦原修二さんと私のやりとりを再現しておきます。
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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後1時15分
Subject: Re: [短説][00919] 中井英夫の「無用者のうた」論から
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 ―「無用者のうた」論から― 拝見しました
 
 西山さんから表記論文をお配りいただきありがとうございました。
 たいへんなつかしい気分で拝読しました。それというのは、当時「暗黒の井戸」といった認識が評判になり、私もそれを当時読んでいたからでしょう。どこで、いつ読んだかなどの細部は忘れておりましたが……西山さんのご指摘によって、44年前のことだったと知り、驚き、かつなつかしい気分になった次第です。
 もう間もなく半世紀前のことになるのですね。しかし、この論旨は、いまも真理であり、私自身にとっては、その根底にありつづけてきた、書くということの岩盤的認識でありました。
 ただ、短説を20年もつづけてきますと、会員に「よき家庭人」「よき市民」といった方々が多くなってきて、じつはこれが難問題になっています。「暗黒の井戸」これが、文章を書く事の根本理念だ、ということが、常識として理解されていないからです。そこでは、常套句花ざかりの、そしてちょっと気のきいた形容詞にあふれた、つまりどこに出しても、あたりさわりのない身辺雑事の「お上手なご報告文」ばかりになってきます。
 私が「形容詞」をできるだけ削るようにすすめ、また、常套句はまず第一に削ってしまうようすすめているのも、じつは、そうしたことによって、一見「よき家庭人」「よき社会人」も実は皆、その存在の奥に「暗黒の井戸」を持っていることを気づいてほしい、という思いがあるからです。その存在を気づいたところから、ほんとうに書く事、考えることがはじまるのだと信じているからです。人は、みんな、ことと場合によっては、刃物を持って学校に押し掛けないでもない存在です。そこに気づいていないと、読者にとって有意義な作品など生まれてくるはずがないのです。
 逆に、いくら探しても、自分の内側に、そのような「暗黒の井戸」がまったくないという方が、もしおられたとしたら、そうであること自体を追及さるべきでしょう。すると、そのこと自体が、その人にとっての「暗黒の井戸」であることが理解されてくでしょう。
 釈尊は自分の息子に「悪魔(ラゴラ)」という名をつけ、捨てています。
 自分は、「暗黒の井戸」を持たないと言えることは、自分が「釈尊をも凌ぐ聖人」だと自負することなのです。だとしたら、そのこと自体が、前記したとおりに、その人にとっての「暗黒の井戸」でなくて何でしょう。
 西山さん、いい時期にいい論文をいただきました。感謝します。
 
【芦原修二】
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From: 西山 正義
Date: 2005年2月21日(月) 午後5時31分
Subject: Re: [短説][00936] 「無用者のうた」論から
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 芦原様 お忙しい中ご返信ありがとうございます。
 
 一言申し添えておくと、私も芦原さんも、「よき家庭人」「よき市民」を批判しているわけではありません。昔は文学者は無頼漢どころか時に犯罪者でもあったのですが、現在ではそんなことはありません。職業作家といえども、実生活ではごく普通の市民であり、よき家庭人だったりします。
 むしろ、そうしたごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要です。
 
 先頃の寝屋川市の小学校教職員殺傷事件にしても、池田小の事件にしても、酒鬼薔薇事件にしても、小学生の子供を持つ親としては、全く許しがたい事件ですが、その犯罪が自分とは無関係だと考えるのは不遜というものです。佐世保の小学生が同級生を殺してしまった事件も、大人の目からは驚愕に値するように見えますが、本当にそうか。多くのニュースや各種報道に不満を覚えるのは、アナウンサーもコメンテーターも聖人面していることです。
 たしかに、実際に犯罪を犯すか犯さないかの違いは、大きな違いかもしれない。しかし、単に小心だから犯罪を犯さずに済んでいる場合もある。可能性として心の裡に秘めているのと、ある意味では五十歩百歩といえる。だから、キリスト教では心に思っただけで罪とされるわけで、この認識は正しい。
 キリスト教ではそれを懺悔という形で救済するわけだが、文学もこれと同じ機能を担っているといえる面がある。芦原さんも「少年達はなぜ小説を書くのか」で同じようなことをおっしゃっておられますが、もしかしたら小説は犯罪を犯さないで済ませるための装置かもしれない。
 実際、自分の親やきょうだい、子供、友人、恋人、妻や夫を、心の中で一度でも殺したことがない人などいるでしょうか。
 だからこそ、その取り扱いには厳格な注意が必要だということだ。 
 
 佐世保の小学生がホームページ内で実際にどんなやりとりをしていたのかは詳らかではありませんが、「言葉」によって人を殺人に駆り立てることもあるということではないか。
 インターネットで一つ危惧されるのは、誰もが簡単に情報・意見を発信できるようになったのはいいとしても、ものを書くに当たって、それ相当の覚悟と、言葉が持つ魔的な作用を認識していないと、一部の掲示板ですでにそうなっているように、全くの無法地帯になってしまうということだ。たとえ匿名でも、その責任の所在は作者自身にあるのは変わらない。ただ、匿名ネットでは、その所在の追求が難しいというだけに過ぎない。
 最初の論点からちょっとズレますが、車を運転するには免許が必要だ。文章を書いて発表するのに免許は要らない。しかし本当はそうではないのだ。なぜなら言葉は剣と同じだから。ところが、学校でもどこでも誰も教えてくれない。無免許運転はともかく、それでも事故が起きる。小学生でも簡単にホームページが開ける時代になった。ことばは悪いですが「キチガイに刃物」状態にもなりかねないのだ。
 
 しかし、こう考えてくると、当たり障りのないもの以外、何も発言できないことになってしまう。そこでわれわれ短説は、もう一歩進めなければならない。
 言葉によって人を傷つ、自分をも傷つけるということを十分認識した上で、なおかつ言葉の剣ではらわたを抉り出さなければいけないのだ。
 これを自覚しているのと、無意識・無自覚・単に無知でやるのでは大違いである。まともな職業作家はそれを承知しているから、時に抑制することもあるが、素人が無自覚でやると前述の通り危険なことになる。しかし、危険を承知で、それでも「書かざるを得なくなる」のが文学である。いや、私は文学をやっているつもりはないという議論もあるでしょうから、文章と言い直してもいい。
 
 現在は、小説よりもゲームの方が正直かもしれない。今回の小学校事件もゲームの影響が云々されているけれども、ゲームのシュミレーションやバーチャル体験によって、逆に犯罪に走らないでいるケースもあるのではないか。犯罪に到っていないのだから、検証の仕様がないが。ビートルズのある歌を聞いていたら人を殺したくなって殺したという事件が、かつて実際に起こったが、実は逆のケース、つまり犯罪が起こらなかったということの方が多いのではないか。
 
【西山正義】
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From: Ashihara Shuji
Date: 2005年2月21日(月) 午後9時14分
Subject: Re: [短説][00937] 「無用者のうた」論から
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 ふたたび「暗黒の井戸」について
 
 西山さん、今度の論考で、いっそう問題点を明らかにされたことをうれしく思います。おっしゃる通りに《ごく普通の「よき家庭人」「よき市民」の心の中に「暗黒の井戸」があるということの方が重要》で、そのとおりなんです。
 私は、西山さんの今回の論考を「月刊短説」に転載させてもらいたいと思います。ネットを読んでいない人にも、この問題を十分に考えてもらいたいと思います。この論義を経過した後になら、きっと文章を書く事に覚悟を持った人が出てくるだろうと思います。
 よき家庭人、よき社会人に、なぜ《暗黒の井戸》を覗き込んで、短説を書く事をすすめているのか、その本当の意味もわかってくるように思います。
(後略)
 
【芦原修二】
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(以上「短説ML座会」より)

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2005年2月17日 (木)

中井英夫の「無用者のうた」論から

 1月30日付の記事「歌人論・歌人伝について」の最後に、「本当は今日、本題にしたかったのは、中井英夫が六十年代初頭に書いた『現代短歌論』の中に、小説や詩の現在にも通ずる問題点が書かれてあったので、引用しようと思ったのだが、それはまたこの次に譲る」と書いた。原典を図書館に返却しなければならないので、とりあえず抜き書きしておく。
 2001年11月発行の国文社版「現代歌人文庫(第2期)40」の『中井英夫短歌論集』所収、「無用者のうた−戦後新人白書」(初出は「短歌」1961年12月号)より。

 いまでも概ねはそうだが、歌人は一様に人格者で、健康すぎるほど晴朗な社会人にあふれている。久しい間、平明な生活詠が第一条件とされてきた歌壇には、むしろそれも当然のことで、律儀な身辺報告に終始している以上、異端の意識は入りこむ隙もない。だが、文学者としてはこれくらい滑稽な話はなく、裡に深い暗黒の井戸も持たず、何を創ろうというのだろう。川端康成が今度の文化勲章を受けるに際して、文学者というのは無頼漢ですからね、といった意味での、精神の無頼性をつゆ(原文傍点あり)持つことなく、小心で身仕舞のいい人格者が、何を人に語ろうというのか。いまなお、もろもろの結社誌では、人格陶冶のための作歌とか、誠実な生活だけがすぐれた短歌を生むとかいうスローガンを恬然と掲げているけれども、思い上がりも甚だしいといわねばならぬ。(中略)塚本でも葛原でも、その後の中城ふみ子でも、編集者としてその登場に希ったのは、前衛派の擡頭だの反写実だのということではない。文学はもう少しダメな魂の産物だという、最初からの約束事を確かにしておきたいだけといってもよい。

 どうだろう。今から四十四年前に書かれた論考である。が、現在でも概ねそうだといわねばらぬ。私は現代歌壇に明るいわけではない。だから、ここにいう歌人/短歌を、作家/小説・エッセイ、詩人/詩、俳人/俳句、いや、物書き全般と読み替えればいい。すべてがそうだとは言わぬまでも、見事に正鵠を射っている。
 短説はどうか。私の興味は実はそこにある。少なくとも、主宰者の芦原修二氏をはじめ一部の書き手は、川端康成が言ったような意味での無頼漢であり、その作品の裡には深い暗黒の井戸があり、ぽっかりと深淵が口を開けている。しかし、短説の会全体で言えば、やはり中井英夫が指摘したようなことが言えるのだ。
 短説は、短歌や詩ほどではないが、小説に較べてより広い書き手を得た。芦原氏もそれを推進してきた。文芸評論家の小川和佑氏が批判するところの「参加の文学」をあえて許容してきた。しかし、物書きとしての根本的な姿勢という点で、芦原氏にもジレンマがあるのだ。
 つまり、両者の言う「参加の文学」は、微妙に意味合いが異なり、芦原氏も小川氏が批判するような「参加の文学」を認めているわけではなく、実は小川氏も芦原氏も中井英夫も、まったく同じ地平に立脚していると言わざるを得ないのである。
 そもそもここで「物書き」などという言葉を持ち出す時点で、おそらく意識の違いが出てくるのだろうが、ものを書いて発表するということは、それがたとえ小集団の中であっても、プロだろうがアマチュアだろうが、意識が違かろうがお遊びや道楽のつもりだろうが、事情はまったく一緒で、すべてに適用される厳しい掟がある。一言で言ってしまえば、それはいずれにしろ、地獄への片道切符、である(はずなのだが)。

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2005年2月 6日 (日)

四季派書庫(小久保実文庫)

 小淵沢に行ってきました。目的は別にあったのですが、思わぬ収穫が。
 八ヶ岳に「自在舎」という私設のギャラリーがあり、そこに『八ヶ岳詩游館』(小久保文庫)というのがあるのは、「自在舎」のホームページで知っていました。このホームページは現在「工事中」になっていますが、保存してあった案内文を写すと以下の通り。

【堀辰雄論】で知られる小久保実氏(文芸評論家・帝塚山学院大学名誉教授)寄贈による8万冊に及ぶ近代文学主体の蔵書・資料を収蔵。特に堀辰雄・立原道造・津村信夫・杉山平一など ”四季派”及び福永武彦・中村真一郎・遠藤周作などその周辺の詩人、作家、評論家の蔵書が多く、又雑誌収集の豊富さを特徴とする文庫であり、館内は堀辰雄の書籍・資料を中心に常設展示し、雑誌「四季」(1〜4期)など数多くあり、さながら《”四季派”詩人たちのギャラリー》の感がします。
・1995年4月開設
”四季派”詩人をテーマにしたポエティク・サロン、文学セミナー、読書会、朗読会などを通して言葉への認識を深め、自分さがしを楽しむ「仲間の会」があり、又、蔵書の閲覧、限定貸出しは勿論のこと「自在舎」宿泊施設など、会員特別料金による利用が出来ます。

 ということなので、以前から大いに気になっていたので、機会があれば是非訪ねてみたいと思っていましたが、今回の小淵沢行きに際しては念頭にありませんでした。八ヶ岳という名称から、清里や富士見高原よりもっと奥の、たとえば美しが原高原美術館のように山の上の方にあると思い込んでいたのです。それが、現地で地図を見ていたら、麓の小淵沢にあるというので訪ねてみたわけです。
 行ってみると、確かにそのような施設があることはあるのですが、何か様子が違うというか、紛らわしい状況になっていて、案内を請うた結果分かったことは、元「自在舎」だった建物はすでに売却され持ち主が替わっていて(紛らわしいのは、そこも「詩游館ギャラリー」となっている)、『八ヶ岳詩游館』の小久保文庫の資料は、「自在舎」を運営している詩人の桜井節氏を通して、長坂町に寄贈され、現在は長坂町郷土資料館に収蔵されているということでした。
 それで今度は、そこから車で10分ぐらいということなので、長坂町郷土資料館に行ってみました。斜向かいに清春白樺美術館があります。
 
 問題の「四季派書庫(小久保文庫)」は、展示されているのではなく、参考資料として、特別に閲覧できるようになっていました。時間的余裕がなくて実際に閲覧はしませんでしたが、一部の資料は、郷土資料館の一角で、期間を区切ってテーマ別に展示されています。現在の展示は、「堀辰雄−その作品の軌跡をたどる(6)−「四季」第三次と戦後の同人誌を中心に」でした。
 
■「四季派書庫(小久保文庫)」の利用方法は以下に通り。
〔開室日・閲覧時間〕9:00〜17:00(入館は16:30まで)
〔閲覧の方法〕原則として館内閲覧のみ。
*初めて閲覧する時は、身分証明書またはそれに代わるもの(運転免許証・学生証など)を提示。
〔資料館の観覧料〕大人200円/小人100円
〔特別閲覧使用料〕一人5点まで一回につき:200円
  一人3点まで一回追加ごとに:100円
  子供(小・中学生)は半額
〔休館日〕月曜日(休日の場合を除く)
  休日の翌日(日曜日または休日の場合を除く)
  年末年始(12月28日〜1月4日)
〔住所〕山梨県北杜市長坂町中丸1996
(中央自動車道・長坂ICより車で15分)
 
 思わぬところでいいところを発見してしまいました。今度は、最初からこれを目的に、朝から訪ねて閉館まで籠もってみたいものです。

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2005年1月30日 (日)

歌人論・歌人伝について

 このところ、詩や短歌の本ばかり読んでいる。正確に言うなら、詩論や歌論、歌人論やそれに類した本。思潮社の「詩の森文庫」は年末に第一弾が十冊配本になったが、すでに半分読んだ。
 先週は中島美千代氏の『夭折の歌人 中城ふみ子』に続いて、渡辺淳一の『冬の花火』を再読した。中島氏は、この本のふみ子像には不満があり、好きではないと言っているが、私はそんなことはないと思った。もちろんあくまでも小説として書かれていて、恣意的にイメージを膨らませているところはあるだろうが、そんなに逸脱したものとは思われない。少なくとも愛惜を込めて書かれており、さすがに読みごたえ十分であった。
 今、中城ふみ子を世に送り出した、一方の中井英夫の歌論集を読んでいるのだが、その前にもう一冊読んだ本を。
 これも図書館で偶然見つけた。金澤聖という人が書いた『姦通の罪 白秋との情炎を問われて』というもの。平成十年九月に文芸社から出た本、ということは自費出版かそれに近い形で出たものであろう。著者は文学研究家ではなく、元新聞記者。報道部で事件や司法を担当していたらしい。
 明治四十五年七月、若き北原白秋と隣家の主婦・松下俊子が姦通罪で起訴された、世に言う「桐の花事件」について書いた本。しかし、事件の経過やその他司法に関わる部分を書いたところはいいのだが、本の題名と前文でうたっていることと、終末での論旨がどうもちぐはぐで、(いや、ちぐはぐではないのかもしれないのだが、それなら最後の結語はなんなのだろうという)、最終的に何が言いたいのかよく分からない本である。この人にはおそらく新聞記者としての矜持があるのだろうが、いかにも新聞記者臭い文章はとても読めない。少なくとも読んでいて気持ちのいいものではない。起訴その他に関する法律的な部分に言及しているところはいいのだが、当事者以外知り得ないことまで、こういう書き方をされてしまうと、まるでそこで見ていたかのように、すべて事実こうであったかの如く思われてしまう。実際には、本人の後日談や各種証言などから、ある程度こうであったろうということは言えても、あくまでも「類推」の域を出ないものもある筈なのだ。それがこう書かれてしまうと。実に、新聞報道にもこういうことがあるのではないか。だから私は新聞(テレビ等のニュース含めいわゆる報道)というものが嫌いなのだが。
 詳しいことは省くが、この本によって、白秋・俊子の、そもそも姦通罪の起訴自体が違法、あるいは起訴の訴え自体に違法性があるということはよく分かった。著者もそれが言いたかったわけだが、それならその部分に的を絞って検証すればいいのに、最終に来て妙な具合になる。題名の意味するところも忖度しかねる。なんとも後味の悪い本であった。
(断るまでもないだろうが、これは批評であって、中傷の類ではない。ブログはすぐに検索に引っかかるからなあ。起訴の違法性云々についての言及は、おそらく過去にこういう方面から論じた人はいなかったろうと思われるので、興味深く読んだということだけは言っておこう)
 さて、本当は今日、本題にしたかったのは、中井英夫が六十年代初頭に書いた「現代短歌論」の中に、小説や詩の現在にも通ずる問題点が書かれてあったので、引用しようと思ったのだが、それはまたこの次に譲る。

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2005年1月22日 (土)

『夭折の歌人 中城ふみ子』(中島美千代)

 出版されたのは昨年の11月だが、僕が見つけたのは四日前。市立図書館の新しく入った本のコーナーに並んでいた。おや、と思い手に取り、即借りて、一気に読んだ。勉誠出版から出た中島美千代著『夭折の歌人 中城ふみ子』である。
 こういう本は、それが新刊で出たのであれば、本当は買ってあげなければいけない。図書館で見つけてしまったのが運の尽きで、もし書店の店頭なら、250ページの単行本としては多少高く感じても、買っていただろう。いや買わなければいけない。
 
 中城ふみ子といえば、小説の久坂葉子とともに、僕が秘かに愛している二大“アイドル”の一人である。(因みに、戦前の僕の二大アイドルというか、偏愛の対象は、尾崎翠と伊藤野枝である。え? どういう取り合わせ!)
 久坂葉子が小妖精であるとすれば、中城ふみ子はまさに「女」であった。二人は、まだ戦後と呼ばれていた時代の一時期を、猛スピードで駆け抜けた。
 しかし、久坂葉子はどこまでもマイナー・ポエットで、自ら命を絶ったのに比して、中城ふみ子は、その登場から死まで、そしてその後も、その歌と存在は、中島氏が言うように一つの「事件」であり、一世を風靡した。
 今となっては、風靡したというより、現代歌壇を変革したという文学史的意義で正統に評価されるものであるが、当時は、歌壇のみならず一般の衆目も集め、むしろスキャンダルであった。(といっても、それは僕が生まれる前の話なので、文献でしか知らないのだが)
 昨2004年は、中城ふみ子没後五十年であった。当時「短歌研究」の編集長であった中井英夫が企画し、選者も務めた「五十首詠作品募集」の一等当選作として、「乳房喪失」四十二首が発表されたのは、昭和29年4月。その死は、それから僅か四ヶ月後。
 死後すぐに出版された、臨終間近を取材した時事新報社の若く野心的な記者・若月彰が書いた『乳房よ永遠なれ』が、中城ふみ子の世間的な評価を大きく狂わせ、“ふみ子伝説”をスキャンダラスにし、好色な誤解を生む基になったといっていい。しかし、昭和30年代以降の日本は、国中が大忙しで疾走していたから、世間的にはすぐに忘れられた。
 それを甦らせたのが、約20年後に書かれた渡辺淳一の『冬の花火』。現在では、『冬の花火』のヒロインとして認知されていると言った方がいいだろう。死後わずか一年三ヶ月後には、『乳房よ永遠なれ』が日活で映画化され大ヒットしたらしいが、これはもはや現在ではまず目にすることはできないし、若月彰の原著もよほど大きい図書館で探さない限り読めないから。
  しかし『冬の花火』は、評伝的な事実を踏まえながらも、あくまでも「小説」であって、評伝でも作家研究でもない。当然小説的な脚色もある。どの辺がどういう風に脚色されているかということよりも、いい悪いは別にして、『乳房よ永遠なれ』にしても、問題は、男の視点から描かれていることだろう。
 中島美千代さんの『夭折の歌人 中城ふみ子』は、それを是正するものであり、賛美にしろ悪評にしろ、いわば勝手な幻想が先走った、さまざまな“ふみ子伝説”のベールを剥ぎ、歌人の実相に迫ろうというものである。
 ともかく彼女は素晴らしい歌を残した。それがすべてである。それが身振りの大きい、多少自己演出的なところがあったとしても、それを含めてそれが彼女のすべてである。
 実際問題、彼女と同じように壮絶な闘病生活の末、あるいは流転の生涯の果てに、若くして死んでいった無名の歌人・詩人・俳人・作家はいっぱいいると思うのだ。いや、その方が多いだろう。多くの彼ら、彼女らは、身内や小グループ以外に作品を世に残すこともなく、生きていたという事実も知られないまま死んでいったのだ。現在も、そしてこれからもそれは変わらない。
 それを思うと、中城ふみ子は仕合せ者だとも思えるが、最終的にはすべては作品である。たとえどんなに苛烈な人生を歩もうとも、その人生や人間性が素晴らしくても、芸術家・表現者である以上、作品だけが物を言う。それが恐ろしくも過酷な現実である。死後五十年も経って、こうしてまた語られるのは、中城ふみ子の生涯が数奇に満ちていたという人間的な興味によるのではなく、第一にその作品が現在でも光芒を放っているからに他ならない。 
 
 僕は短歌については門外漢である。中城ふみ子の全作品を読んでいるわけでもない。ほかにも名歌はたくさんあるだろうし、捨てがたい作品もある。が、最後に、個人的にぐっときた歌を挙げておく。
 
 絢爛の花群のさ中に置きてみて見劣りもせぬ生涯が欲しき
                    ――中城ふみ子

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2005年1月13日 (木)

詩の森文庫/田村隆一

 昨年末、思潮社から「詩の森文庫」という新書スタイルのシリーズが創刊されました。発行日は元旦の日付ですが、年内に書店に出回っていました。見つけたのは、郊外のローカル駅の、駅ビル内のさほど大きくない書店で、そんなところに思潮社の本が並んでいたのでびっくりしたのでした。
 ブルー基調の表紙の「クリティック」シリーズと、カッパー色の「エッセー」シリーズ、それぞれ5冊ずつ計10冊が第一回配本で発刊。グリーン表紙の「ポエム」も発刊予定のようです。
 いま「詩の森文庫」で検索したら、すでにあっちこっちのブログや何かで言及されていて、なかなかの反響のようです。(ところで、トラックバックってどうすればいいの? またどういう時にするものなの?)
 数年前からの第二次新書ブームとはいえ、よもやこのような新書が創刊されるとは。いささか遅いような気もしますが、あまり色気を出さずに、「現代詩文庫」のように細くても末永く続刊されることを期待します。
 
 で、さっそく買ってみたわけですが、私が最初に手にしたのは、田村隆一の『自伝からはじまる70章』です。現代詩人の中では私が最も敬愛する詩人で、多少なりとも縁がないわけでもないので。ちょっと立ち読みしていたら、その接点である(といっても一方的なものですが)、神保町の「ラドリオ」のことも書かれていたので、すぐさま購った次第。
 しかし一番食指が動いたのは、1章がそれぞれ原稿用紙3枚ほどで書かれている点。これは単に雑誌連載の要請によるものですが、短説の何かヒントにならないかと。
 自叙伝からはじまって、やがて自由な発想で、連想式にまた断片的にあるいは飛躍しながら、勝手気ままに書いていく。そんなスタイル。
 一応解説めいた情報を書いておくと、ダイヤモンド社の月刊ビジネス誌「エグゼクティブ」の1992年5月号から、亡くなる直前まで70回にわたって連載された、詩人最晩年の貴重なエッセイ集。連載時は、本新書の副題にもなっている「大切なことはすべて酒場から学んだ」というタイトル。
 全編、田村節全開です。私は全くの下戸で、酒の味を解せない無粋な男ですから、酒の話になると着いていけないのですが、まあこういうのを読むと、酒が飲めたらずいぶん違った世間が見えてくるんだろうなと思う。私などはとても田村隆一には弟子入りできない。田村さん、不肖の後輩で面目ありません。
 素足に革靴、トレンチコートをはだけて「ラドリオ」の止まり木に坐っていた(というより、かろうじて支えられていた)あの日の田村さん。そのすぐ背中で、臆面もなく現代詩のことを話していた僕ら。まったく赤面ものです。たぶん、僕らの話が耳に入っていたのでしょうね。「諸君、グッナイッ!」と一言言って、はす向かいの「兵六」に去っていった田村さん。……
 
 65章に曰く。
「四十歳までに、詩を書き、この世を去らなければ『天才』ではない。四十歳をすぎたら、命の果てるまで、つまり、酒が飲めなくなるまで、詩を書きつづけなければならない。しかし、『人間の世紀末』に立ち会わざるをえないぼくは、『詩とは何か?』と自らに問わざるをえない」
 そう、これは短説にも小説にも、いや、あらゆる芸術に言えることだ。駒田信二はこう言う。「書きつづけて死ねばいいんです」と。

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