文学

2017年4月29日 (土)

小川和佑先生ご生誕87年記念日

 本日はもちろん昭和天皇のご生誕記念日である「昭和の日」ですが、わが師・小川和佑先生のお誕生日でもあります。ご存命なら満87歳の誕生日。
 一年前、明治大学のゼミOB会で「偲ぶ会」を開催しました。命日の9月20日は、必ずしも休日ではないので、祝日で暦の上では必ず休みになるこの日に、駿河台のどこかでまたみなで会おうと思っていましたが、遺憾ながら実現できませんでした。
 しかし、その代わりといっては何ですが、七か月ぶりに、『小川和佑先生著書目録』を更新しました。昭和57年4月にTBSブリタニカから出た『ジュニア版 目でみる日本の詩歌⑪ 現代の詩[一]』です。その翌年私は大学に入学して、小川先生に出会った最初の授業で使っていたテキストです。「解題」に書いた通り、非常に懐かしい思い出深い一冊です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2016年1月 5日 (火)

佐伯彰一さんがご逝去

 文芸評論家の佐伯彰一さんがお亡くなりになったというニュースが入ってきた。そうだ、まだこの人がいたのであった。だが、それも……。
「この1日午後1時48分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去した。93歳だった」とのこと。
 先月、野坂昭如さんも亡くなった。野坂氏は小川和佑先生と同年であった。これで本当に戦後文学を作ってきた人たちがみな鬼籍に入ったことになる。
 佐伯彰一さんに関しては、三島由紀夫研究の第一人者ということだけでなく、個人的に思い出がある。『日本文芸鑑賞事典』の第20巻(昭和63年6月・ぎょうせい刊)の、佐伯彰一氏の長編評論『日本の「私」を索めて』の鑑賞文を担当したのだった。当時まだ学部の大学生で、研究者でもなければ大学院生でもない私がよくも書かせてもらったものである。
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 ――合掌

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年9月12日 (土)

葡萄の季節に、堀内幸枝さんからお手紙

 詩人の堀内幸枝さんから手紙が来た。
 氏からの連絡は、いつも突然でびっくりさせられる。ちょうど、私の師で、堀内作品を高く評価した一人である文芸評論家の小川和佑先生が亡くなって、この九月二〇日で満一年を迎えるところであったから。
 そのことともあながち関係がないわけではないのだが、直接には別の用件で、今回はなんと原稿依頼であった。
「ただ今『葡萄』最終号をつくっておりますが」とあり、そこに載せる原稿をということなのだが、私は、さりげなく書かれている《最終号》という言葉にハッとなった。
 堀内幸枝さんが長い間主宰している詩誌『葡萄』は、現在までに何号出ているのか存じないが、年一回程度の緩やかなペースながら、私なんかが生まれるはるか以前の創刊である。あの書肆ユリイカの伊達得夫氏が色紙を切り抜いて作った装丁で、昭和二九年(一九五四)月一二月に創刊されたのだった。時に堀内さん三四歳。そして現在、九五歳!
 調べてみると誕生日は九月六日で、ということは、九五歳のお誕生日の二日後にお手紙をいただいたわけだ。
「明治大学の学生が山梨に行った時のこと、
坪井の温泉で一泊して小川先生を中心に
みんなで話しましたね。
原稿三枚ほどにまとめられましたら」
 久しぶりに依頼された原稿を書いた。手紙が届いた一〇日に二枚書き、今日三枚に仕上げて、夕方には、郵便局の本局から速達で出した。
 自分で言うのもなんだが、相当に力の入った原稿で、小川和佑先生への供養にもなったような気がする。
 平成五(一九九三)年のこれもちょうど今頃行われた、堀内幸枝文学紀行のゼミ合宿。原稿の主題が堀内幸枝さんにあるということもあるが、その指導教授であった小川和佑先生が、すでにこの世にいないということは一切言及していない。
 私のその原稿では、あたかも小川先生が今も健在であるかのように描かれている。
 もちろん堀内幸枝さんも。いや、堀内さんは正真正銘ご健在で、だから、最終行は現在形で締めくくっている。堀内さんのお手紙は、とても九五歳の“おばあさん”とは思えない、実にしっかりとした律儀そうな楷書の筆跡で、それは、十代のころ、せっせと『四季』に詩を投稿していたころから全く変わっていないのだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月14日 (水)

短説「三島由紀夫生誕九十年の日に」西山正義

  三島由紀夫生誕九十年の日に

            
西山 正義

 平成二十七年一月十四日。すなわち本日は、
三島由紀夫生誕九十年の日である。大正十四
年、西暦でいえば一九二五年の一月十四日生
まれ。例の自決は昭和四十五年十一月二十五
日。四十五歳であった。ということは、生ま
れてから、その死を挟んで、年月はちょうど
折り返してしまったわけだ。死んだのが四十
五。そして、あのような死から四十五年!
 十一月二十五日という日を、僕は今でも一
番大事に思っている。もう一つ、僕が個人的
に「創作記念日」と名付けている九月二十日
が、僕の第一の師である小川和佑先生の命日
になった。それからジョン・レノンの日。
 はじめて憂國忌に行ったのは昭和五十五年
だった。いわゆる三島事件からちょうど十年
目。当時は、すでに十年も前の歴史的な出来
事のように思っていたが、今にして思えば、
わずか十年前のことだったのだ。事件(いや、
やはり「義挙」と言おう)から四十五年。あ
の「十年祭」からでも三十五年もの年月が経
っているのだった。
 昭和三十三年発行の『三島由紀夫選集8』
で短篇「遠乘會」を読んだ。十五歳の時から
もう何度読んだことか。大学の卒業論文でも
扱った。今更新しい発見もないと思っていた
ら、一昨年の秋にソフトボールの大会で行っ
た会場が、まさに舞台になっている江戸川の
市川橋であったことに今気づいた。昭和二十
五年四月、三島二十五歳も参加したパレスク
ラブの遠乗会の写真が選集の口絵に載ってい
る。もちろん風景は激変しているが、同じ場
所に違いない。僕らのチームは都大会で地区
代表として悲願の初優勝を成し遂げたのだ。
 しかし、そんなことをしているはずだった
のか。今日という日、僕がすべきことは?
 最低限、書くことは書いたが……。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年9月23日 (火)

■小川和佑先生が……■

とうとうこの日が来てしまいました。
大変つらいことですが、やはりインターネット上にも告知致します。

平成26年9月20日の午後2時50分、われらが恩師、
小川和佑先生が永遠の眠りに就かれました。

御葬儀の日程・会場をお知らせ致します。

■お通夜
9月23日(火/秋分の日)午後5時~
■葬儀・告別式
9月24日(水)午前10時30分~
(出棺:11時30分)

会場はいずれも『栃の葉 戸祭ホール』です。
住所:栃木県宇都宮市八幡台1-28
TEL:028-650-5166
http://sougi.bestnet.ne.jp/tochinohato-utsunomiya/map.html
JR宇都宮駅西口よりタクシー15分(駐車場350台)

喪主は、奥様であられる小川節子様です。

小川和佑先生は、昭和5(1930)年4月29日のお生まれ。
庚午。今年は年男でした。
享年は満年齢で84歳。
この夏頃から体調を崩され、療養中でしたが、奥様、娘さんご夫婦、それにお嫁さんやお孫さん、教え子二名とさらに孫弟子に看取られながら、静かに息を引き取りました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。――合掌

先生は第一に物書きです。書かれたものは我々に残されています。
もう一度、何度でも、読みましょう。それが一番の供養でしょう。

これから宇都宮に向かいます。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2014年4月28日 (月)

萩原朔太郎の短歌

グラウンドの芝生の上に乗り捨てし自転車の柄の光る夕ぐれ

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月24日 (木)

萩原朔太郎の先生ぶり

 引き続き、萩原朔太郎を読んでいる。
 中央公論社版『日本の詩歌』第14巻「萩原朔太郎」の月報(「付録」5)にこんな記事が載っていた。「詩歌サロン」と題された囲み記事で、執筆者は不明だが、同全集の編集員の筆だろう。

▽昭和九年から十年にかけて、萩原朔太郎は明治大学の講師をしていた。教壇における朔太郎は、たくみなユーモアをまじえつつ、詩はこういうふうに読むものだといって、自作詩を朗読したりした。そして講義の要点を黒板に書いたあと、これを消すのに黒板拭きをつかわず、手のひらでやたらに消すと、その手を今度は自分の洋服にこすりつけるのが例であった。これは当時の明大生、詩人の江口棒一の回想である。

 同じ明大文芸科出身の小川和佑先生がまだ四、五歳頃の話である。小川先生は間もなく八十四歳であるから、ちょうど八十年前の話。僕が通っていた頃から遡っても五十年、つまり半世紀前の話なのでした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月22日 (火)

品川沖


港南大橋付近より

 萩原朔太郎の詩に「品川沖観艦式」というのがある。詩集『氷島』に収録されている。実はまだそこまで読み進めていないのだが、これだけ読んでみる。
 「昭和四年一月、品川沖に観艦式を見る」(『詩篇小解』)
 このとき朔太郎は数えで四十四歳。五十七年の生涯からすると、決して晩年とは言えないが、詩人としてはもはや晩年の作といっていい。『氷島』は賛否が分かれる詩集であるが、集中これは傑作であろう。晩年の「絶唱」といってもよい。

……灰色の悲しき軍艦等、なお錨をおろして海上にあり。彼らみな軍務を終りて、帰港の情に渇けるが如し。我れすでに生活して、長くすでに疲れたれども、軍務の帰すべき港を知らず。暗澹として碇泊し、心みな錆びて牡蠣に食われたり。  ――萩原朔太郎『詩篇小解』

 それから半年後、この昭和四年の七月に、いろいろ問題のあった若い妻稲子と離婚。もちろん家庭不和は、その一年以前から続いていた。そして、いったん東京を引き払い、まだ幼い二人の女の子を伴い前橋の実家に戻っている。ほどなく単身上京するが、経済的に頼みの綱であった父親が病に倒れすぐに帰郷。
 幼い子供を二人抱えていたとはいえ、妻に去られた四十男が、実家の父母のもとに身を寄せるのは、朔太郎に職がなかったからであるが、もっと言えば、詩を書くこと以外の単に金銭を得るためだけの“仕事”をまるでする気がなかったからに他ならない。いい気なもんだと言ってしまえばそれまでだが、私には彼を批判する資格はない。
 戦前は、大元帥閣下が御臨席のもとに挙行された観艦式。それが華々しければ華々しいほど、軍艦の灰色のように、詩人の心は……。
          ――本文記事は、4月26日(土)12:10に追記

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月21日 (月)

卓上噴水

 このところ萩原朔太郎を読んでいる。
 大正四年三月、今風に言えば満二十九歳のとき、人魚詩社同人と『卓上噴水』を創刊。人魚詩社は、前年六月、朔太郎、室生犀星、山村暮鳥の三人で結成された。詩・宗教・音楽の研究を目的としていたという。
 雑誌は、残念ながら、四月二号、五月三号を出したきりで、文字通り三号雑誌で終わっている。しかし、この誌名は何ともいいではないか。

 昔、インドの王族は豪華な宴会のとき一オンス何千万円といふ高価な香水で卓上に噴水を作つた。世界最高のゼイタクである。

 と、朔太郎はその誌名の由来を語っている。つまり「卓上噴水」とは、彼等の独創ではないのだが、何とも典雅で貴族的な趣味性であるか。

 卓上噴水。いいじゃないか。こんなものがほしい。今なら、インテリアのおもちゃがあるかもしれない。
 と思って調べたら、なんのことはない、やっぱりたくさんありました。アロマテラピーみたいな癒しグッツになっていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2014年4月11日 (金)

春の夜に聴く横笛の音

……私の真に歌はうとする者は別である。それはあの艶かしい一つの情緒――春の夜に聴く横笛の音――である。(中略)ただ静かに霊魂の影を流れる雲の郷愁である。遠い遠い実存への涙ぐましいあこがれである。
     ――萩原朔太郎(詩集『青猫』序)

| | コメント (0) | トラックバック (0)