文学

2018年1月18日 (木)

三一書房版『戦後詩大系』全四巻を手に入れる(その二)

 さて、肝心の内容であるが、Ⅰの巻頭には、編者代表として嶋岡晨氏の「道標(みちしるべ)」と題された文があり、編集の経緯や意図、方針、凡例などが記されている。それを読んだだけでもエポックメイキングであったことがわかる。
 詩人は五十音順に配列されている。各人の分量はほぼ均等である。
 Ⅰは「ア~オ」五二名。五八一頁。
 Ⅱは「カ~ス」六九名。六二五頁。
 Ⅲは「ス~ハ」六五名。六二四頁。
 Ⅳは「ハ~ワ」五五名。六五六頁。
 合計二四一名。
 Ⅳの巻末には、
○大野順一氏の「戦後詩史序説」(副題・ひとつの思想史的あとづけの試み)と、
○嶋岡晨氏の「戦後詩の展望」(副題――詩壇略地図――)の、
それだけで相当読み応えのある二つの論考があり、これまた例によって大変な労作の、
○小川和佑編「戦後詩史年表」
がある。この年表は凡例を含めて六〇一頁から六五六頁まで及ぶ。そして最後に、
○大野順一氏作成の「戦後の主要詩誌の消長(一九四五~一九六五)」
が折り畳まれている。ここには四一の詩誌の発行年月が棒グラフで示されていて、非常にわかりやすく展望できる。年表やこうした一覧表は、作ってみればわからが、物凄い労力を必要とする。本当に大変な労作なのだ。
 もう一つ私にとって貴重だったのは、各巻に付録としてついていた月報である。私が以前から持っていた第一巻には月報が抜け落ちていた。
 
 月報1(1970・9)
○宗左近「戦後詩とわたし」
○嶋岡晨「夢の周辺」
 
 月報2(1970・11)
○新川和江「戦後詩と私」
○《同人詩誌の編集後記》
(「詩研究」「純粋詩」「FOU」より)
○S・S生「詩神と酒神の棲む所」
○詩友こぼれ話
(①村松定孝 ②「マチネ・ポエティック」 ③「ゆうとぴあ」、秋谷豊)
 
 月報3(1970・12)
○土橋治重「戦後詩とわたし」
○《同人詩誌の編集後記》(その二)
(「荒地」「列島」より)
○小川和佑「『地球』への回想」
○《編集者の言葉と略歴》
(大野順一〈筆名大野純〉・嶋岡晨)
 
 月報4(1971・1)
○片岡文雄「わが薄明の時代」
○小川和佑「『年表』作製の憂鬱」
○嶋岡晨「編集を終えて」
○『戦後詩大系』第二巻訂正表
 
 なかでも私にとって今回最大の堀大物は、小川和佑先生の「『地球』への回想」である。『小川のせせらぎ』第二号ではそのままコピーして転載しようと思う。
 それにしても、月報には三人の編集者の近影が載っているのだが、みな若々しい。それもそのはずだ。この時、三人ともまだ四十歳になるかならないかぐらいだったのである。あらためて、よくぞここまでの仕事ができたものであると感嘆する。いや、若いからこそできたのか。
 因みに生年月日を記せば、
小川和佑・昭和五年(一九三〇)四月二九日
大野順一(純)・昭和五年九月三日
嶋岡晨・昭和七年(一九三二)三月八日

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2018年1月14日 (日)

三一書房版『戦後詩大系』全四巻を手に入れる

 伝説の書籍と言っていい三一書房版の『戦後詩大系』全四巻を揃いで手に入れた。しかも、総革張りの限定300部特装版である。それを破格の安値で手に入れた。いくらかというのは、もしかしたら売主が後悔するかもしれないのでここでは伏せるが、まあ、今まで長い間売れずにいたわけだから、安値でも売れた方がいいのかもしれないが。
 第一巻は持っていた。いつだったかは忘れたが、おそらく1990年前後に、滅多に行くことのない渋谷の古書センターで偶然見つけたのだ。結構な高値で買ったような記憶がある。5800円だったか3700円ぐらいだったか。ともかく、第一巻はどうしても手に入れたかった書籍である。
 それから28年、発行からは実に48年、今回、四巻揃いでそれよりはるかに安い金額(送料込みでも)だったので、古書店によっては一冊ずつ買えるところもあったのだが、四冊揃えで購入した。実は、説明書きに「特装版」とあったのだが、あまりにも安いので、これは勘違いではないのかと疑っていた。(ネット販売だが、写真はなし)。しかし並装版でも、普通に見れば上製本なので、それでも良いと思っていた。ところが、本当に特装版だったのである。

 編者は、嶋岡晨・大野順一・小川和佑の三人。三人とも大学の先輩である。
Ⅰ ア~オ:1970年09月30日発行(限定番号300部の内 第158番)
Ⅱ カース:1970年11月30日発行(同 第165番)
Ⅲ ス~ハ:1970年12月31日発行(同 第164番)
Ⅳ ハーワ:1971年02月15日発行(同 第168番)
 本体菊判、ワインレッド色総革張り、白色クロース装貼函入り。函も並装版とは異なる。小川和佑先生のお宅で見ていたものだ。各巻平均580頁。

 何よりも嬉しいのは、月報も揃っていることである。ほかに三一書房の新刊案内や読者アンケートのはがきまで付いている。ないのは、おそらく巻かれていたであろうパラフィン紙ぐらいである。
 とすると、つい先日手に入れた『“美しい村”を求めて 新・軽井沢文学散歩』や『文明開化の詩』などのように、結局のところ読者の手に渡らなかったか、あるいは買われたけど読まれた形跡のない、本としては悲しい末路のいわゆる新古本かというと、どうもそうではないようだ。ぱっと見たところ本に書き込みなどはないのだが、月報の一箇所に赤鉛筆で括弧印がついている。本も開かれた形跡がある。が、月報なども綺麗に揃っていて、誰かが大切に保管していた本だということがわかる。
 この大冊の『戦後詩大系』は、並装版でも各巻3,000円なのであるが、特装版は全巻揃いの予約販売のみで各巻8,000円、合計32,000円もするのである。内容を考えると、決して高くはないのだが、それにしてもこれは1970年、昭和45年のことなのである。当時相当高価であったLPレコードでも1,700円か1,800円ぐらいの頃である。
 おそらく、この特装版を買ったのは、とりもなおさずここに収録されている詩人たちであろう。一般読者が買うとは思えない。並装版だって、実のところ関係者と図書館ぐらいだけだったかもしれない。そもそも詩集なんかみんな持ち出しで出すものであるから、収録されているからといって著者には一冊も献呈されていないだろう。あるいは自分が載っている巻だけはさずがに献呈されたかもしれないが、むしろ特装版を四巻揃いで買ってくれということだろう。限定300部というのは、すなわち全収録詩人230名あまりというわけだろう。
 ということは、このたび私が手に入れた本も、ここに収録されている詩人のものだった可能性が大なのではないか。本を開けられた形跡はある。しかしこの綺麗な保存状態は、著者の一人だからではないのか。もしそうなら、この本を売ることはないだろう。しかし本人ではなく、遺族なら、知らずに(あるいは知っていても)古本屋に処分することもあるだろう。
 本の匂いがたまらなくいいのだ。もう泣けてくるほどだ。何かパンドラの匣を開けてしまったような気がする。(肝心の内容についてはまたのちほど)

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2017年10月14日 (土)

日本ペンクラブの電子文藝館

 小川和佑先生の『三島由紀夫―反『日本浪曼派』論』(昭和60年4月・林道舎刊)の解題を書くため調べていて、1984年5月の国際ペン東京大会について調べる必要が生じ、日本ペンクラブのホームページを見ていたら、同クラブが主宰する「電子文藝館」というのに行きつきました。
 その存在は以前から知っていましたが、しばらく訪れていなかったら、立ち上げから間もなく16年を迎え相当に充実してきていました。「青空文庫」とはまた趣旨が異なるのですが、ペンクラブ会員の作品を中心に良質な文藝作品が電子版で読めます。ちょっと宣伝。

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2017年4月29日 (土)

小川和佑先生ご生誕87年記念日

 本日はもちろん昭和天皇のご生誕記念日である「昭和の日」ですが、わが師・小川和佑先生のお誕生日でもあります。ご存命なら満87歳の誕生日。
 一年前、明治大学のゼミOB会で「偲ぶ会」を開催しました。命日の9月20日は、必ずしも休日ではないので、祝日で暦の上では必ず休みになるこの日に、駿河台のどこかでまたみなで会おうと思っていましたが、遺憾ながら実現できませんでした。
 しかし、その代わりといっては何ですが、七か月ぶりに、『小川和佑先生著書目録』を更新しました。昭和57年4月にTBSブリタニカから出た『ジュニア版 目でみる日本の詩歌⑪ 現代の詩[一]』です。その翌年私は大学に入学して、小川先生に出会った最初の授業で使っていたテキストです。「解題」に書いた通り、非常に懐かしい思い出深い一冊です。

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2016年1月 5日 (火)

佐伯彰一さんがご逝去

 文芸評論家の佐伯彰一さんがお亡くなりになったというニュースが入ってきた。そうだ、まだこの人がいたのであった。だが、それも……。
「この1日午後1時48分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去した。93歳だった」とのこと。
 先月、野坂昭如さんも亡くなった。野坂氏は小川和佑先生と同年であった。これで本当に戦後文学を作ってきた人たちがみな鬼籍に入ったことになる。
 佐伯彰一さんに関しては、三島由紀夫研究の第一人者ということだけでなく、個人的に思い出がある。『日本文芸鑑賞事典』の第20巻(昭和63年6月・ぎょうせい刊)の、佐伯彰一氏の長編評論『日本の「私」を索めて』の鑑賞文を担当したのだった。当時まだ学部の大学生で、研究者でもなければ大学院生でもない私がよくも書かせてもらったものである。
 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 ――合掌

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2015年9月12日 (土)

葡萄の季節に、堀内幸枝さんからお手紙

 詩人の堀内幸枝さんから手紙が来た。
 氏からの連絡は、いつも突然でびっくりさせられる。ちょうど、私の師で、堀内作品を高く評価した一人である文芸評論家の小川和佑先生が亡くなって、この九月二〇日で満一年を迎えるところであったから。
 そのことともあながち関係がないわけではないのだが、直接には別の用件で、今回はなんと原稿依頼であった。
「ただ今『葡萄』最終号をつくっておりますが」とあり、そこに載せる原稿をということなのだが、私は、さりげなく書かれている《最終号》という言葉にハッとなった。
 堀内幸枝さんが長い間主宰している詩誌『葡萄』は、現在までに何号出ているのか存じないが、年一回程度の緩やかなペースながら、私なんかが生まれるはるか以前の創刊である。あの書肆ユリイカの伊達得夫氏が色紙を切り抜いて作った装丁で、昭和二九年(一九五四)月一二月に創刊されたのだった。時に堀内さん三四歳。そして現在、九五歳!
 調べてみると誕生日は九月六日で、ということは、九五歳のお誕生日の二日後にお手紙をいただいたわけだ。
「明治大学の学生が山梨に行った時のこと、
坪井の温泉で一泊して小川先生を中心に
みんなで話しましたね。
原稿三枚ほどにまとめられましたら」
 久しぶりに依頼された原稿を書いた。手紙が届いた一〇日に二枚書き、今日三枚に仕上げて、夕方には、郵便局の本局から速達で出した。
 自分で言うのもなんだが、相当に力の入った原稿で、小川和佑先生への供養にもなったような気がする。
 平成五(一九九三)年のこれもちょうど今頃行われた、堀内幸枝文学紀行のゼミ合宿。原稿の主題が堀内幸枝さんにあるということもあるが、その指導教授であった小川和佑先生が、すでにこの世にいないということは一切言及していない。
 私のその原稿では、あたかも小川先生が今も健在であるかのように描かれている。
 もちろん堀内幸枝さんも。いや、堀内さんは正真正銘ご健在で、だから、最終行は現在形で締めくくっている。堀内さんのお手紙は、とても九五歳の“おばあさん”とは思えない、実にしっかりとした律儀そうな楷書の筆跡で、それは、十代のころ、せっせと『四季』に詩を投稿していたころから全く変わっていないのだと思う。

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2015年1月14日 (水)

短説「三島由紀夫生誕九十年の日に」西山正義

  三島由紀夫生誕九十年の日に

            
西山 正義

 平成二十七年一月十四日。すなわち本日は、
三島由紀夫生誕九十年の日である。大正十四
年、西暦でいえば一九二五年の一月十四日生
まれ。例の自決は昭和四十五年十一月二十五
日。四十五歳であった。ということは、生ま
れてから、その死を挟んで、年月はちょうど
折り返してしまったわけだ。死んだのが四十
五。そして、あのような死から四十五年!
 十一月二十五日という日を、僕は今でも一
番大事に思っている。もう一つ、僕が個人的
に「創作記念日」と名付けている九月二十日
が、僕の第一の師である小川和佑先生の命日
になった。それからジョン・レノンの日。
 はじめて憂國忌に行ったのは昭和五十五年
だった。いわゆる三島事件からちょうど十年
目。当時は、すでに十年も前の歴史的な出来
事のように思っていたが、今にして思えば、
わずか十年前のことだったのだ。事件(いや、
やはり「義挙」と言おう)から四十五年。あ
の「十年祭」からでも三十五年もの年月が経
っているのだった。
 昭和三十三年発行の『三島由紀夫選集8』
で短篇「遠乘會」を読んだ。十五歳の時から
もう何度読んだことか。大学の卒業論文でも
扱った。今更新しい発見もないと思っていた
ら、一昨年の秋にソフトボールの大会で行っ
た会場が、まさに舞台になっている江戸川の
市川橋であったことに今気づいた。昭和二十
五年四月、三島二十五歳も参加したパレスク
ラブの遠乗会の写真が選集の口絵に載ってい
る。もちろん風景は激変しているが、同じ場
所に違いない。僕らのチームは都大会で地区
代表として悲願の初優勝を成し遂げたのだ。
 しかし、そんなことをしているはずだった
のか。今日という日、僕がすべきことは?
 最低限、書くことは書いたが……。

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2014年9月23日 (火)

■小川和佑先生が……■

とうとうこの日が来てしまいました。
大変つらいことですが、やはりインターネット上にも告知致します。

平成26年9月20日の午後2時50分、われらが恩師、
小川和佑先生が永遠の眠りに就かれました。

御葬儀の日程・会場をお知らせ致します。

■お通夜
9月23日(火/秋分の日)午後5時~
■葬儀・告別式
9月24日(水)午前10時30分~
(出棺:11時30分)

会場はいずれも『栃の葉 戸祭ホール』です。
住所:栃木県宇都宮市八幡台1-28
TEL:028-650-5166
http://sougi.bestnet.ne.jp/tochinohato-utsunomiya/map.html
JR宇都宮駅西口よりタクシー15分(駐車場350台)

喪主は、奥様であられる小川節子様です。

小川和佑先生は、昭和5(1930)年4月29日のお生まれ。
庚午。今年は年男でした。
享年は満年齢で84歳。
この夏頃から体調を崩され、療養中でしたが、奥様、娘さんご夫婦、それにお嫁さんやお孫さん、教え子二名とさらに孫弟子に看取られながら、静かに息を引き取りました。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。――合掌

先生は第一に物書きです。書かれたものは我々に残されています。
もう一度、何度でも、読みましょう。それが一番の供養でしょう。

これから宇都宮に向かいます。

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2014年4月28日 (月)

萩原朔太郎の短歌

グラウンドの芝生の上に乗り捨てし自転車の柄の光る夕ぐれ

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2014年4月24日 (木)

萩原朔太郎の先生ぶり

 引き続き、萩原朔太郎を読んでいる。
 中央公論社版『日本の詩歌』第14巻「萩原朔太郎」の月報(「付録」5)にこんな記事が載っていた。「詩歌サロン」と題された囲み記事で、執筆者は不明だが、同全集の編集員の筆だろう。

▽昭和九年から十年にかけて、萩原朔太郎は明治大学の講師をしていた。教壇における朔太郎は、たくみなユーモアをまじえつつ、詩はこういうふうに読むものだといって、自作詩を朗読したりした。そして講義の要点を黒板に書いたあと、これを消すのに黒板拭きをつかわず、手のひらでやたらに消すと、その手を今度は自分の洋服にこすりつけるのが例であった。これは当時の明大生、詩人の江口棒一の回想である。

 同じ明大文芸科出身の小川和佑先生がまだ四、五歳頃の話である。小川先生は間もなく八十四歳であるから、ちょうど八十年前の話。僕が通っていた頃から遡っても五十年、つまり半世紀前の話なのでした。

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