2009年12月15日 (火)

短説:作品「クエンカの一日」(小林稔)

   クエンカの一日
 
             
小林 稔
 
 ラマンチャの岩と砂の荒野を車窓から見渡
し辿り着いたところが、クエンカという町で
あった。
 タイルが貼られた駅を出て、とことこと歩
いていくこと一時間、リュックに引きずられ
て両肩がもぎれそうに痛い。
 白く塗った幹の街路樹の下を歩道に沿って
歩き、立ち並んでいた店がとぎれ民家がまば
らになってきた。前方に切り立った岩の山が
聳えている。さらに近づくと岩にしがみつく
ようにあちこちに木の家が建っていた。
 谷間には吊り橋がかかっている。だれもい
ない。日は暮れかかって、岩の山の輪郭を白
く浮き立たせている。
 私はリュツクを背負ったまま吊り橋に足を
かけた。足元が揺れる。橋の向う側は見えそ
うにない。心細くなりながらも歩みを進める
のだった。
 人影がある。だれかが向こうからやって来
るらしい。さらに歩いていくと十歳そこそこ
の少年が向こうからやって来るのだった。ロ
ープを手のひらで辿りながら歩いて来る。私
に気が付いたらしく、歩幅を少し緩めた。あ
どけない顔をひきつらせて、視線を外しなが
ら歩みを止めなかった。少年と私は距離を狭
めて、まもなく橋の中程で擦れ違った。
 すると、「チーナー、チーナー」という少
年の声が洩れ、岩の山に谺して谷間に響き渡
った。
 振り返ると少年の後ろ姿が遠くに見えた。
私はこれ以上、橋を渡る理由がなくなったよ
うに思えた。すくに引き返して橋を渡りきり、
来た道を急いで戻った。少年の姿はもはやな
かったが、少年の甲高い叫び声が、いつまで
も私の耳から離れないでいた。やがて、にぎ
やかな人ごみの中を私は歩いて行った。

〔発表:昭和63年(1988)11月第39回東京座会/初出:「短説」1988年12月号/初刊:年鑑短説集〈3〉『乗合船』1989年10月/再刊:小林稔紀行詩文集『砂漠のカナリア』2001年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2008.9.22〕
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2009年1月23日 (金)

短説:作品「かがやく銀河の夜」(河江伊久)

   かがやく銀河の夜
 
            
河江 伊久
 
 おばあちゃんが旅に出るといったとき、
「誰と? 何処へ?」と、つい聞いてしまっ
た。一人で――へ行く、といったが――の部
分は聞こえなかった。聞きかえすのがためら
われる何かが、おばあちゃんにはあった。
 出発の日がきて、ザックに荷物をつめ白い
上着をきたおばあちゃんをみたとき、なぜか
胸がいたんだ。一人で行くと言いはったので、
ぼくはこっそり駅まで後をつけた。おばあち
ゃんの白い服が濃い闇の中にふわりふわりと
浮かんで、魂のゆらめきのように見えた。
 おばあちゃんの乗った汽車には、頭の白い
老人ばかりが座っていた。弁当を食べたり、
笑いさざめいているようだが音は聞こえない。
水底にゆらいでいる生き物のようだった。
 ぼくはその夜、秘密の老人列車がこっそり
旅立つ夢をみた。老人列車は闇の中をひた走
って、海峡線で乗り換えだった。
「秘密が肝心、極楽は銀河の向こうに」と、
夢幻列車はすすんで行った。
「身延山へ参詣に行ったのよ」と、隣家のお
ばさんはぼくをなだめてくれたが、ぼくには
おばあちゃんは帰って来ないように思えてな
らなかった。
 衰弱しきったおばあちゃんが帰ってきたの
は、それから十日もたってからだ。心配する
ぼくに、「夢のような音楽がながれ、いい匂
いの食べ物があった。心配なんか何もない」
といった。
 おばあちゃんの旅はその後、何度か続いた。
ぼくはその度に、秘密の老人列車の夢をみた。
ほの白く輝く列車の窓に、老人たちの銀髪が
光り、「秘密が肝心、極楽は銀河の向こうに」
というひそひそ声が聞こえた。夢から覚める
度にぼくは、一人で生きてゆく覚悟を固めて
いたような気がする。


〔発表:平成元年(1989)6月第46回東京座会/初出:「短説」1989年7月号/初刊:年鑑短説集〈3〉『乗合船』1989年10月/再刊:河江伊久短説集『小春日和の庭で』1995年12月/upload:2008.9.22〕
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2008年9月18日 (木)

短説:作品「尾売り横丁」(すだとしお)

   尾売り横丁
 
           
すだ としお
 
 暗い道を折れ曲がり、小さなネオンの門を
くぐり抜けると、尾売り横丁がある。尾を売
れば、生えるまで出てくる事は出来ない。生
えたらまた売る事になるのかもしれない。
「旦那、尾売りですかい?」
 顔のひん曲がった男が、縮み上がっている
私の尾を見ながら、言った。うなずくと、男
は指さした。そこには、血の色をした尾切リ
台があった。尾を切るのが、その男の仕事だ
ったのだ。同じような顔をした男が何人も、
うろつっいている。台に尾を乗せ、目を閉じ
る。男の手が尾をつかむ。
「痛くなんかありませんぜ」
 そう言った途端に、斧が振り降ろされてい
た。尻にばんそう膏を張ってもらい、油紙に
包んだ尾を持って、横丁を歩いていく。もう
戻れない。尾を売れば、食い物には困らない
と聞いている。呼び込みに手を引っ張られて、
店に連れ込まれ、尾を売った。広間へ案内さ
れ、酒の用意された膳の前に座らされた。男
達が騒いでいる。一人になりたくて、そっと
立ち上がって、歩き出した。
「奥へいくにはまだ早過ぎます。もっと楽し
んでからの方がいいですよ」
 そう言われたにもかかわらず、奥へと歩い
ていった。部屋は幾つもあり、段々に小さく
なっていく。最後には人がようやっと横にな
れれるくらいの大きさの部屋になった。その
部屋へ入っていき、横になり、眠った。
「体ごと売るつもりになったんですかい。尾
なし人は泣き事は言えませんぜ」
 そう言う声が聞こえ、体が持ち上げられた。
あわてて、暴れようとしたが、手足が縛られ
ていた。
「この尾なし人からはいい冷汗が取れるぜ。
尾を切ったばかりだからな」

〔発表:昭和61年(1986)10月第14回東京座会/初刊:年鑑短説集(1)『旅のはじまり』1987年7月/再刊:すだとしお短説集『やわらかい鉛筆』1995年3月/WEB版初公開〕
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2006年6月10日 (土)

短説:作品「茂草鉄道」(向山葉子)

   茂草鉄道
 
            
向山 葉子
 
 二人は、学生街にある小さな教会でささや
かな結婚式を挙げた。花嫁は初々しく、花婿
は照れてはにかんでばかりいた。友達はみん
な二人を心から祝福し、親が反対してたって
幸せにはなれるさ、と花を振り撒いて幸福を
祈ってくれた。
“私、幸せよ”と少女は夫となった青年にそ
っと肩を寄せる。茂草鉄道の軽妙な振動が二
人の肩を小鳥のついばみのように打ち合わせ
る。霞むような桜並木の下をおままごとのよ
うなハネムーナーを乗せて、電車はやがて陶
器の町に滑り込む。
 『真下焼窯元』と書かれた看板を掲げた旧
い構えの店が春の日差しの中に幻のようだ。
“これ、いいわねぇ”“ほんとだ、いいね”
二人はそう言い合いながらも何一つ買おうと
は言い出さない。見つめ合って微笑んで、そ
してすべてを諦めるのだ。“あら、可愛い。
歩き始めたばっかりね”少女は店の奥からよ
ちよち出てきた幼児を見て微笑んだ。とその
時、幼児は綺麗な藍色のティーカップを掴ん
だままぱたりと転んだ。幼児は泣き出し、テ
ィーカップは真っ二つに割れた。その瞬間少
女がほんの一瞬、幼児に憎さげな視線を投げ
たのを青年は見逃さなかった。傾斜していく
兆しにおののいたが、青年を見上げる少女の
笑顔はいつもと何も変わらなかった。
 茂草鉄道の最終電車は十七時三十二分だ。
その頃になるともう駅員すらもいなくなる。
夕日の射す短いプラットホームに立って、二
人は電車を待っている。“私、幸せよ、今が
一番”“そうだね。僕も幸せだよ”
 電車は四十分を過ぎても現れない。“もう
帰らなくていいのよ、きっと私達”青年はそ
の声に促されて線路を歩き始める。その先は
草が茂り、もう何処へも続いてはいなかった。

〔発表:平成元年(1989)12月第52回東京座会/初出:「短説」1990年1月号/再録:1990年12月・年鑑短説集〈4〉『海の雫』/WEBサイト「西向の山」upload2002.4.5〕
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2006年4月10日 (月)

短説:作品「微笑みの町」(向山葉子)

   微笑みの町
 
            
向山 葉子
 
『ようこそ、さち子さん』と大書きされた垂
れ幕の下に、家族全員がにこにこしながら坐
っていた。そして、さち子の顔を見るなり、
「ようこそ」「ようこそ」と口々に歓迎の言
葉を投げかけるのだった。さち子は照れてし
まって、横にいる夫の顔を見上げた。夫もま
た微笑みを湛えて「ようこそ」と手を差し出
す。ここは微笑みの町だ、とさち子は思う。
角の煙草屋のおばさんも、お巡りさんも、み
んな柔らかく微笑んでさち子を迎え入れてく
れたのだから。もうあくせく働くこともない
のだ。「ふつつか者ですがよろしくお願いし
ます」さち子は幸せな気持ちで頭を下げた。
 午後からは夫に連れられて散歩に出掛けた。
畑のキャベツ、鎮守の森、緑色が大半を占め、
空気も清々しかった。「東京とは思えないわ」
深呼吸をしながら言うさち子に夫は誇らしげ
に答える。「だろう? ここは保護区だから
ね。道路工事も多いだろ。子供やお年寄りの
ためにも道路だって疎かにしない町なんだ。
そうだ、君のことみんなに紹介しなくちゃね」
と夫は町行く人に一々さち子を紹介し始めた。
道路工事夫に至るまで、さち子は頭を幾度下
げたことか。が、みんなみんな微笑み返して
くれるので、疲れなど感じなかった。「これ
でよし、と。君はもうこの町の人だよ」
 一か月ほどたつとさち子はすっかり町にも
家族にも溶け込んだ。結婚前のあらゆる不安
も消え去って、妻としての自覚も生まれてき
たようだった。そろそろ友達にも惚気を言い
たい気分にもなって、出掛けることに決めた。
「大丈夫かしら」と心配気な義母を後に足取
りもかるく家を出た。駅への道は工事中だっ
た。「ここは一方通行だから」と通してもら
えない。迂回した先もまた工事中。さち子は
町をくるくる巡り遂に駅へ辿り着けなかった。

〔発表:昭和63年(1988)5月第33回東京座会/初出:「短説」1988年6月号/再録:1989年10月・年鑑短説集〈3〉『乗合船』/WEBサイト「西向の山」upload2002.4.5〕
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2005年3月30日 (水)

短説:作品「少年」(福田政子)

   少 年
 
            
福田 政子
 
 一時間目の授業開始のベルが鳴った。校舎
の廊下は、静かになった。六年二組では、い
きなり担任の塩田先生がどなった。「これが
ら呼ばれる者は、前へ出て来い。青山春男、
山田透、大野清、中山義男……」と先生は八
人の生徒の名前を次々に呼ぶ。呼ばれた者は、
教壇の前へ出てきた。先生は、「そこへすわ
れ、何で呼ばれたか、よく考えてみろ」。呼
ばれた生徒はひざをかかえてうつむいている。
教室の中は、「何だ何だ」とがやがやした。
「清、何で呼ばれたがわがったが」と先生。
清は、うつむいたまま、「きのうの萱燃しの
ことだと思う」「そうだ。それが、どういう
ことがわがってんのが。囲りには、何軒もの
家が建っているんだぞ」。先生の声はいよい
よ大きくなった。「今日一日すわってろ。よ
く反省しなければ、家さ帰さねど」。シンと
静まりかえる教室。先生が、「清、きのうは
大変だったな」と、言った。清は、おずおず
と立ち上がり、「きのうは大変だった。みん
なと、火で遊んでいたら、急に燃え広がっち
ゃって、大あわてで消したんだ。透ちゃんな
んて、ジャンパーで火をたたいて消したんで、
ボロボロになってしまった」と話しているう
ちに、清は興奮してくる。先生は「迷惑をか
けた家に一軒一軒あやまって来い」と、どな
る。塩田先生もその後、ひとりであやまり歩
いた。一ヶ月後、職員室に、「生徒に鉄砲で
うたれた」と、若い女から、電話があった。
篠で作った鉄砲である。空気の圧縮で、弾に
した木の実を遠くに飛ばすしかけのものだ。
その木の実があたると痛い。これも春男、透、
清、義男の四人組のしわざであった。その時、
四人組は、女生徒のスカートめくりで騒いで
いた。塩田先生は、教室のドアをガラッとあ
け、「清」と、どなった。

〔発表:1990年2月第62回東京座会/初出:「短説」1990年2月号/再録:年鑑短説集(4)『海の雫』1990年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.1.1〕
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2005年3月26日 (土)

短説:作品「柵を越えて」(金子敏)

   柵を越えて
 
             
金子 敏
 
 もう少しすれば、この先いつ会えるかわか
らなくなる。小学校からずっと一緒だった三
人は、しめし合わせて柵を越えた。
 万一つかまって新聞に出たら、どんな肩書
きになるのだろう。卒業式は済んだのだから
中学生ではないし、まだ入学前だから高校生
ともいえない。ずぼんの中がごそごそする。
「俺、少しは泳げるよ」Kの声が弾んでいる。
僕とMは泳げない。ことしから水泳の授業が
あるらしい。全く不公平だ。僕たちから寄附
を集めて造ったプールに、僕たちは入れない
のだ。去年の夏にはできあがっていたのに、
セメントのあくを抜くため半年くらい水を張
り放しにしてからでないと使えないという。
 あと何日かで、僕たちは別々の高校に行く。
一度だけでもプールに入ってみたかった。海
水浴では波に邪魔されて、泳ぐまねしかでき
ない。波の無い水に浸って、思いきり手足を
動かしたら、きっと上手に泳げるだろう。ず
ぼんの下に海水パンツをはきこんだ時から、
わくわくしている。
 宿直室の明りの下を身をこごめて、プール
に近づいた。脱衣室の裏手の柵をもうひとつ
越えて、はだしになった。ぞくっとする。三
人の新しい門出にふさわしい静かな水面はも
う目の前だ。
「あれぇ」思わず同時に叫んだ。水が無い。
満々とたたえられていたはずの水が無い。僕
たちを迎えてくれるはずだった静かな海がど
こかに消えてしまっている。
「こんなことってあるか」Kが服を脱ぎ捨て
た。Mも僕もはだかになった。すっと烏肌が
立った。僕たちは水の無いプールの真ん中に
寝そべって笑った。おなかが痛くなるほど声
を殺して笑った。プールに仕切られた四角な
空に、潤んだような月が浮かんでいた。

〔発表:1990年12月東京座会/初出:「短説」1991年1月号/初刊:年鑑短説集〈5〉『螺旋の町』1992年4月/再録:「短説」1998年5月号・2000年11月号/〈短説の会〉公式サイトupload2004.6.21〕
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2005年3月23日 (水)

短説:作品「弟地獄」(向山葉子)

   弟地獄
 
            
向山 葉子
 
 弟が行方不明なんです。逃げた小鳥を探し
にいったまま。……ええ、そうです。鳥籠を
持ってます。どなたか弟を見かけた方はいま
せんか。青いズボン、千鳥格子のハンチング
です。籐の鳥籠を抱えているはずです。チン
ドン屋のおじさん、知りませんか。……そう
ですか、見かけませんか。え? カフェの女
給に聞いてみろって? ええ、そうしてみま
す。暗い路地に分け入って、私は弟を探しま
す。お姐さん、弟を見ませんでしたか。……
そうですか、知りませんか。え? 曲馬団の
ピエロに聞いてみろって? ええ、そうして
みます。風吹く荒野を横切って、私は弟を探
します。ピエロさん、弟を見かけませんか。
……え? お母さんに聞いてみろって? え
え、そうしてみます。お母さん、お母さん、
お母……ああ、そうでした。お母さんはとう
の昔に亡くなりました。幼いころから愛しん
でいた手鞠と一緒にもうとうの昔に煙になり
ました。だれか弟を知りませんか。街灯だけ
がほのぼのと揺れる街、私は弟を探します。
ころころ鞠が転がって、私の足にじゃれつい
て……ああ、これはお母さんの手鞠。お母さ
ん。振り向くとお母さんがにっこり笑って立
っています。お母さん、お母さん、弟を返し
てください。おほほ、おほほ……まだ若いお
母さん、まだ綺麗なお母さん、笑いながら私
の手から鞠を奪って逃げていきます。お母さ
ん、お母さん、お願いです。弟を返してくだ
さい。おほほ、おほほ……もうあの子は返さ
ないよ。だってまた私の中に戻ってきたのだ
もの。お母さん、お母さん、お願いです。弟
を返してください。おほほ、おほほ……お母
さんは笑いながら街の闇へと消えていきまし
た。残された鳥籠の中には、死んだ小鳥が眠
っています。

〔発表:1986年3月第7回東京座会/初出:年鑑短説集〈1〉『旅のはじまり』1987年7月/「西向の山」upload2002.4.5〕
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2005年3月15日 (火)

短説:作品「はじめての逢引」(西山正義)

   はじめての逢引
 
            
西山 正義
 
 身仕度を整える。そのやや長めに伸ばした
柔らかそうな栗色の髪を、少年の持っている
唯一の高級な小道具である黄揚の櫛で梳いた。
 次に昔の海軍兵学校風な学生服を着ると、
この日のために買っておいたオーデコロンを
手に取った。硬い硝子の壜は手に冷たかった。
その冷たさが心地良かった。濃いエメラルド・
グリーンの容器を物珍し気に眺めながら、そ
の表面を愛撫し手触りをしばらく楽しんだ。
その感触にまだ知らぬ女の肌の滑らかさと冷
たさを想像した。
 香水は暗い密室でまだ瞑っている。静かに
集まって。神秘的な沈黙。それは毬藻に似て
いた。だが眠っていても猫のようにそれは常
に待機している。蓋を外す。すると瞬時に粧
って、自らの使命のために舞い上がる。
 少年は目の眩む思いでホックを解き、初め
てつけてみる香水を学生服の内側に振りかけ
た。香料は朝の匂いがした。
 一体いつまで時間をかければ気が済むのか。
持ち物を何度も点検し、鏡の前に立ち、髪や
服の乱れを直す。そして鏡の中の自分の顔を
仔細に調べた。面皰がまだ所々に残ってはい
たが、もう気にするほどではない。髭は昨晩
のうちに綺麗に剃っておいたので大丈夫だ。
まだ毎朝剃刀を当てる必要はなかった。
 最後に少し離れて姿全体を鏡に写す。少年
はちょっと気取ってポーズをつけてみる。す
ると自然に笑みがこぼれ、向こう側のもう一
人の少年に目配せするようにニッと笑った。
 自分の部屋を一通り眺め渡す。そして一つ
大きく深呼吸してから部屋を出た。居間を抜
ける時ふと思い付いて立ち止まり、壁を振り
仰いだ。東向きの壁には神棚が掛かっている。
今日に限って丁寧に二拝二拍手一礼した。
 こうしてようやく家を出発した。

〔発表:1987年2月第18回東京座会/初出:1987年3月号「短説」(月刊化第1号)/再録:年鑑短説集(1)『旅のはじまり』1987年7月/「西向の山」upload2002.4.5〕
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2005年3月10日 (木)

短説:作品「ホメオスターシス」(森林敦子)

   ホメオスターシス
 
            
森林 敦子
 
 草息で溢れ返っている葉陰のあちこちから
ひたすら食べている音が聞こえる。時折風が
入るとそのリズミカルな音に変化が起こる。
「さっきから見ていたんだけどあなたってダ
サイわね。大きな頭に短い手足、極端に寸胴
で、おまけにその服の色。緑だけじゃ目だち
ようがないわね」
「えっ」見上げるとカラフルなコートを着込
んでいる気位の高そうな目が見下ろしていた。
言われたとおりなので何も言えずに側を通り
すぎる。後から声が追いかけてきた。「それ
以上食べると着られる服がなくなるわよ」
 しかしやはり食べ続けた。無性に食べたい。
しばらくすると今までの食欲が嘘のように消
えて今度は、眠気が襲ってきた。体が重く、
手足を動かすのがやっとだ。何処かに眠れる
場所を捜さなければ。
 どのくらい寝たのだろう。背伸びをする。
まだまだ延び切らない気持ちに駆られて空気
を身いっぱいに吸い込んで全身に送る。繰り
返し繰り返し背伸びをしていると体が軽くな
って浮き上がれるように感じた。驚いたこと
にほんとうに浮いている。あわてて葉にしが
みつく。自分の身に何が起こったのか。気が
動転したが、恐る恐る自分の姿に目をやると
手足がすらりと延び、ウエストがしまってい
る。更にあんなに憧れていた羽までついてい
る。それも模様つきの。
 葉の下で何かが動いている。一匹の蛹が必
死で殻を脱ごうとしている。息を深く吸い込
んで大きく背伸びをしたかと思うと出てきた
羽をひろげた。見たことのあるカラフルな模
様。バタバタと無器用に動かした。目と目が
会うと驚いた様子で慌てて日陰に逃げ込んで
しまった。
 私は日に向かって飛び出した。

〔初出:年鑑短説集(4)『海の雫』1990年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.1.1〕
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