短説集1991〜1995

2011年6月21日 (火)

短説「オートバイ」須藤京子

   オートバイ

            
須藤 京子

「ねえ、お父さん。もうすぐお母さんの命日
だね。お天気がよかったら、久しぶりにお墓
参りに行ってみようかしら」
 体を拭いてもらって気持ちいいのか、口を
ぽっかり開けている父に恵子は声をかけた。
「ねえ、お父さん。もうずっと前のこと、私
が高校生の時のことだけど、今でも思い出す
ことがあるんだよね」
 恵子はいつものように、天井に目を向けて
いるだけで何の反応もない父に話しかけた。
 その時、恵子は学校帰りでバスの中から見
るともなく外を眺めていた。信号でバスが止
まった時、その脇をオートバイを押しながら
歩いている中年の女が目に入った。お母さん
に似ているとぼんやり思った。
「えっ。あっ、お母さん、何してるのよ」
 恵子は慌てて次ぎの停留所でバスを降りた。
車道の端を歩く母の姿がだんだん大きくなっ
てきた。ふと恵子の心の中に昨夜帰ってこな
かった父の顔が浮かんだ。母は恵子がそこに
いるのをとうに認めたのか、近付くと何でも
ないことのようにさらりと言った。
「昨日お父さん、O町に泊まったみたいだよ。
あっちの家の前に止めてあったから持ってき
ちゃった。お母さんはこのまま歩いて帰るか
ら、お前は先に帰って、晩ごはんのお米研い
でおくれ」
 恵子は多くの疑問符つきの言葉をのみこん
で、母に言われたようにしようと思った。父
はその晩遅くに戻った。翌朝は恵子が目覚め
る前から、いつもの朝が明けていた。
 そして今、恵子はその頃の母と同じ年令に
なり、父はオートバイに乗れなくなっている。
「ねえ、お父さん。あの時お母さんは……」
 いや。
 もう答えはいらないと恵子は思った。


〔発表:平成3年(1991)1月第5回藤代座会/初出:「短説」1991年2月号/初刊:年鑑短説集〈5〉『螺旋の町』1992年4月/〈短説の会〉公式サイトupload:2009.2.3〕
Copyright (C) 1991-2011 SUDOH Kyoko. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年4月18日 (月)

短説「連凧」檜垣英行

   連 凧

            
檜垣 英行

 三月の半ばのことであった。私はいつもの
とおり利根川の堤へ散歩に出かけた。そこで、
ダンボール箱を側に置き草むらに座っている
一人の人に出会った。箱の中には数十枚の凧
が入っているのが見えた。私が興味を持った
のは、この季節に、しかも白髪交じりの男と
凧の組み合わせであった。
「凧揚げですか」と声を掛けた。
「いやあ、そう思って来たんですが…」と、
照れながら応えた。
「風を待っているのですが、今日は全く風が
ありませんなぁ」と立上がり、遠くを見回し
た。傍らの枯れたススキは微動だにしない。
「子供達に一つずつ作らせ、連凧に仕上げた
ものです」
「なるほど、連凧ですか」
「もう、十年も前のことです。教室の片隅に
取っておいたのですが、私もこの春で退くこ
とになりましたので…」と凧を取り出しなが
ら一枚ずつ開いて眺めた。
 凧は破れたところを修理したらしく、その
部分が際立って白く見えた。
 どの凧にも、『希望』という文字がはみ出
さんばかりの大きさで書かれ躍っていた。そ
れぞれに子供達の名前があった。中には六年
二組とクラス名から書いているものもあった。
最後の凧には、小さくまとまった大人の文字
が見えた。
「全部で四十六枚あります。始末する前に、
もう一度、大空を泳がせてやりたいと思いま
して…」と心の内を明かした。
 私は、十年もの間、保管してきた理由を確
かめたいと思ったが口には出さなかった。
 再び四十六枚の凧が大空を泳いだ時、子供
達の歓声が聞こえてくるのではないかと、私
もそこへ座って風を待つことにした。


〔発表:平成7年(1995)6月第16回東葛座会/初出:「短説」1995年9月号(短説創立10周年記念号)通巻122号/〈短説の会〉公式サイトupload:205.3.24〕
Copyright (C) 1995-2011 HIGAKI Hideyuki. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年6月29日 (火)

短説「夢おとこ」坂木昌子

   夢おとこ

            
坂木 昌子

「あなた、共働きだと男性も少しは家事を分
担しないと、奥さんがダウンしちゃうって」
「君ィゲーテはそんなこと言わなかったよ」
「いやだあー、笑っちゃうわァ」
「ソクラテスの妻は、そこで笑っちゃいけな
いノ」
 夢おとことの新婚生活が始まった。以来、
三十年間、貘のように太った夢おとこは、夢
も食べるが、ご飯もいっばい食べる。酒もい
っぱい飲む。
「秀雄も光子も、本人次第だけど、大学ぐら
い出してあげたいわねえ。もう少し月給が、
あがるといいんたけど、お父さん」
「一体、全体、どれだけ必要なんだね?」
「そうね。少なくとも今の二倍」
「そうか……そんなら小説でも書いて、ボー
ンと原稿料でも稼ぐか」
「また始まった。もうすぐ停年ですよ。お父
さん」
 五年後、零細企業なので、二百万円だが退
職金が出た。早速、企業学術委員会とかの電
話がはいった。
「あなたは、当委員会の審査で、講師の推薦
を受けました。当会の講師になりますと、各
中小企業等で経営コンサルタントとして、人
材養成講座の講師が務められます」
「いやあ、私らにゃあ、そんな資格はありま
せんから……」
「私どもの審査会で十分検討した結果、あな
た様の実力なら申し分ないということでして」
 言葉巧みな要請で、四十万円の登録料を振
り込んだ。が、一年たった今も講師の依頼は
一件もない。一回五万円の講師料は……問い
合わせると「何分不況のせいか経費節減で、
企業からの依頼がこないもので……」
 初老になっても、夢おとこであった。


〔発表:平成5年(1993)5月第33回藤代日曜座会/初出:「短説」1993年7月号/
初刊:年鑑短説集〈6〉『函中の函』1993年12月/〈短説の会〉公式サイトupload:2009.2.3〕
Copyright (C) 1993-2010 SAKAKI Masako. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2010年1月12日 (火)

短説「性の読本」芦原修二

   性の読本

            
芦原 修二

 K君。僕は昨夜ジツに妙な夢を見た。それ
に君がかかわっている。君は商事会社の事務
所のような所にいて、スチール机の引出しか
ら一冊の本を取り出して見せてくれた。B6
判五〇〇ぺージ程の本で、最初の約四分の一
は、中、高校生の男子寄宿舎リポート。二百
余人の少年たちが、学生服や私服で、真面目
に、あるいはにっこり笑った顔写真で紹介さ
れていて、それぞれの性体験が語られ、性器
の形、大きさ、勃起した時や縮んだときの特
徴が、絵や写真で示してある。もちろん少女
たちも、一枚土手とか二枚土手とかいう説明
と共に、これも絵や写真で示されていて、ど
んな顔の少年を好むとか、同性や大人のどん
なしぐさに性的興奮を覚える、といったこと
が、克明に記されている。当然合体のしかた
も、同性、異性間の区別なく、何とかいう劇
団の、少年少女や大人の団員によって、例の
四十八手はもちろん、ありとあらゆるケース
が、それを演ずる俳優の性的個性とあわせ紹
介されていた。君が好きだという大村大地少
年。彼は、にっこり笑った全裸写真で紹介さ
れていた。彼の性器はまだ皮をかむっている
よ。そしてその勃起時の特徴は「ゆるやかに
して広大」と記されていた。彼は四所責めを
演じている。この本は、君が貸してくれたの
だが、夢の中の本だから、君が読んでいない
ことは確かだ。だがこの部分だけは君にも読
ませたかった。いずれにしてもこれは、よく
出来た『蝶類図譜』『野鳥民俗図鑑』『川魚
図志』『原色植物図鑑』といった本で〃知の
オーバーフロー〃そのものだ。僕はこれまで
「夢はその人の体験を超えない」を常識とし
てきたが、違う。夢は、体験を超越する。K
君。僕はあの本をもう一度君から借りて読み
たい。この熱い思いをわかってくれ給え。


〔発表:平成4年(1992)6月第81回東京座会/初出:「短説」1992年8月号/初刊:年鑑短説集〈6〉『函中の函』1993年12月/WEB版初公開〕
Copyright (C) 1992-2010 ASHIHARA Shuji. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年1月12日 (月)

短説:作品「猫の絨毯」(五十嵐正人)

   猫の絨毯
 
           
五十嵐 正人
 
 レインボーブリッジを下りて、夜の湾岸線
に。いつになく、心地よい走り。タイヤは路
面に無理なく吸いつき、小石一つの振動も伝
えてくる。
 二人が目指すのは、浦安ベイエリアの高級
ホテル。同じようにクリスマスを迎える車が
前後に群れをなしている。
「ねえ見て、東京湾も、夜はこんなに縞麗に
なるのね」
 助手席の彼女が、運転席の彼に身を寄せた。
オートマチックの左ハンドル。男の右手が女
を抱きとめる。と、一瞬体が揺れた。
「どうしたの?」
「いやっ、何でもない。猫を礫いただけさ」
「なーんだ」
 高速道路に猫。ちょっと変な感じはしたが、
間違いないだろう。あのボコッという感触。
「あれっ、まただ」
「寒くなると多いのよね。猫って、どうして
避けないのかしら」
 見ると、前方の車が凸凹道を走るように跳
ねている。
 ボコボコッ。
 二人の車も跳ねはじめた。路面を確認する
勇気はない。おそらくは、一面に敷きつめら
れた猫の絨毯。目にしなければ、それですむ。
息を殺して、走り抜けよう。
 ボコボコボコッ、ボコボコッ。
 女の視線が、追い越し車線のドライバーの
目にあった。困った顔同士、会釈を交わす。
 ボコッ、ボコボコボコッ。
 未開の平原を走るバッファローの群れのよ
うに、恋人たちもオアシスを夢見て走る。
 ボコッ。最後の一匹をプレスした音。
「ほらっ、シンデレラ城が見えてきた。明日
はスプラッシュマウンテンに乗りましょう」


〔発表:平成7(1995)年2月第12回東葛座会/初出:1995年5月号「短説」/WEB版初公開〕
Copyright (C) 1995-2009 IGARASHI Masato. All rights reserved.

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年9月27日 (土)

短説:作品「黒曲」(美野里亜子)

   黒 曲
 
           
美野里 亜子
 
「親方、借りていいすか」
 佐介は使いこまれて手になじみの良い曲尺
を持ち、親方亮吉の丸い背に声をかけた。
「まぁたおめぇは、人の道具で仕事すってか」
「なしてだが、わがんねぇけど、親方の借り
っと、按配いいんだやね」
「親方、オラの方さも貸してくんねぇが」
 今度は駒吉が墨壼を手に声をかける。
「おめぇら何持って仕事さ来てんだか。道具
は職人の命だべさ、んだけど良がったら使え
ばいいべさ。なんぼでもな」
 亮吉の道具箱は角がすり減って丸みをおび
黒光りしていた。手入れの行き届いた大工道
具がいつもきっちりと並べられている。やっ
と墨付けが許されるようになった駒吉もまだ
自分の墨壺を持っていない。玄能、鋸ぎり、
鉋、曲尺、のみ。仕事を覚えるたびに道具の
数が増え、やっと大工らしくなってきた駒吉
だった。
「だども、親方みでに道具持ちになんねぇど
いい仕事師になれねんだべな。駒兄ぃだって
だんだん持ってけんど、オラなんてまだ釘袋
だけだ。早く自分の曲尺持ちてぇな」
「持ったってやっと一本だけだべさ、オラも」
 駒吉は言いながら親方の腰の釘袋に目をや
った。亮吉の腰にはいつも一本の黒曲が差し
込まれている。何十年も使いこまれてほとん
どはげ落ち、角もすっかり丸くなっている。
肝心な目盛は大方消えて役立ちそうもない。
「数でねぇ……一本あればいい」
 亮吉は黒曲を手に胡座をかいた。
「自分に合ったの一本でな……。大工が目盛
の無い曲尺持ってだって仕方ねぇと思うんだ
べ。だどもやっと自分だけの目盛が読めるよ
うになったんだ。こいつのおかげでやっとな」
 黒曲はしっくりとごつい手になじんでいた。
 

*黒曲=くろがね(黒い曲尺) *曲尺=かねじゃく *玄能=げんのう *鉋=かんな
発表:平成5年(1993)3月第31回藤代日曜座会/初出:「短説」1993年5月号/初刊:年鑑短説集〈6〉『函中の函』1993年12月/*初刊稿は一行超越しているため、語句を二箇所削除し、句読点を三箇所付加しました。/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.7.12〕
Copyright (C) 1993-2008 MInori ako. All rights reserved.

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年3月 3日 (土)

短説:作品「ピンク鼻」(錦織利仁)

   ピンク鼻
 
            
錦織 利仁
 
 懐中電灯を照らし、ふらふら出かけるのは
やらねばならない義務だから、守は、少し遅
れはしたが、牛舎に着いた。
 突然、産気づいたり、何かのトラブルに巻
き込まれている場合もあるが、この日は何事
もなかった。
 ほし草の上で、後足をパカパカさせている
子牛がいる。守はこの牛を、誕生のときから
見てきた。他の牛と違って、鼻の色がピンク
なのが特徴であった。ただそれだけで、他の
子牛とは別の感情で接していた。
 夜回りのたびに、ピンク鼻をかまった。そ
のうち、守をわかるようになった。
 残念なことに、ピンク鼻は雄であった。農
場では、雄は肉牛として、いずれ売られてい
く運命にあった。
 ピンク鼻は、子牛舎から、少し大きな雄牛
だけの雑舎に移された。
 守は、いつものように牛舎の掃除をしてい
た。ふんにまみれたほし草をかたづけ、新し
いほし草を敷く。突然、作業中の守の肩にの
しかかる牛がいた。ピンク鼻だった。
「このバカタレが」
 守は、げんこつで眉間をこづいた。
 近くにいた獣医さんが、たいそう驚いた。
「きみたちは、ホモだちだね」
 雌牛の種付けをするさい、牛の発情を見極
めるのに、牛が牛に背後から乗りかかるとい
うのが、一つの目安になる。多くは乗りかか
った牛、もしくは両方が発情している。
 すぐには、肉にされはしないだろうが、ピ
ンク鼻は、他の雄牛と一緒に業者に引き取ら
れていった。
 その日、蒔いておいたオクラの種が、プラ
ンターの中で、二つ、三つピンクの殼を破っ
て芽をふいているのを見つけた。

発表:平成7年(1995)6月東京座会/初出:「短説」1995年8月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.6.18〕
Copyright (C) 1995-2007 NISHIKIORI Toshihito. All rights reserved.

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年9月 1日 (金)

短説:作品「秋霖」(喜多村蔦枝)

   秋 霖
 
           
喜多村 蔦枝
 
 むしゃくしゃした気持をしずめようと髪を
洗った。遠くでゴトゴト列車の音がする。
 まだおさまらない。外へ出た。空缶を蹴る。
インスタントコーヒーか。壁にぶつかって止
まる。また蹴る。エノコロ草が抱きとめた。
 踏切を渡ると一面の草っ原だった。牛の飼
料畑らしい。私を迫いかけて風が吹く。洗い
髪はまだ乾かない。
 畑に入って大の字になった。疲れが出た。
灰色の雲。目をつぶる。ザワワワ、ザワワワ
と草の音がする。それすら癩にさわる。
 車が止まった。パタンとドアを閉める音。
誰だろう。こちらへ歩いてくるようだ。
 起き上がった。と同時に義父の声がした。
「わあ、驚いた。死んどるかと思ったよ。あ
っはっは」
〈大きなお世話〉と思ったが、隣へ坐るよう
促がした。黙っていた。義父も何も言わない。
しばらく遠くを見つめていた。何気なく足下
を見た。赤トンボが死んでいた。
「空があやしくなった。降りそうだ。わしゃ、
帰るよ。あんたは……ちょっとばかり、濡れ
て帰るがいい。風邪をひかんようにな」
 図星だ。
 坐ったまま義父を見送った。背中が丸くな
っている。
 ひとつ屋根の下に住んでいれば、同じ釜の
飯を食えば、分かりあえるなんて嘘だ。
 夫は気がつかないだろう。分かろうと努力
する者だけが感じることが出来る。
 義父にはお見通しなんだ。
 そう思った途端にこみあげてきた。涙の雨
がおしよせてくる。
 分かってくれた男は老いぼれている。
 それがまた口惜しい。
 雨が静かに私の身体を濡らし始めた。

〔発表:平成6年(1994)12月第100回記念東京座会*「天」位選出作品/初出:「短説」1996年2月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.5.21〕

Copyright (C) 1994-2006 KITAMURA Tsutae. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年5月17日 (水)

短説:作品「息子」(栗原道子)

   息 子
 
            
栗原 道子
 
「決めてきたよ」
 やっぱり、と春枝は思った。
「駅から徒歩六分、2K、家賃九万。格安物
件なんだって」
 先日、啓の部屋に住宅情報誌があった。バ
イト代を四十万円ためたとも話していた。
「上村君と一緒に住むから家賃は折半だけど。
いいかなあ?」
 家から通えるのに。今だって学費はかなり
家計を圧迫している。バイトで補わせるとし
ても寝具くらいは用意してやらねば……
「下宿するチャンスは今だけなんだよ」
 ん? でも一人っ子の啓が共同生活を体験
するのは悪いことではないだろう。
「父さんが承知したらね」と春枝は答えた。
 和雄が帰宅したのは十時を過ぎていた。
「明日は早いぞ」とゴルフバックを車に積み
込むと、浴室に直行した。啓は書類を抱えて
うろうろしている。賃貸契約の保証人になっ
てもらわなければならないのだ。
「先に寝るよ」と和雄。追いかける啓。
 二十分も経ったろうか。春枝は寝室を覗い
た。暗がりで啓が正座して首を垂れている。
「そんなことを急に言うな、だって。それっ
きりオヤジ寝たふりなんだ……」
 涙声になっていた。
 玄関扉が開閉する音を春枝は寝床で聞いた。
啓が自室に戻ったのはそのだいぶ後だった。
 朝の太陽を浴びて車が光っている。磨き上
げられ、タイヤの下には水が溜っていた。一
月の深夜、気温はマイナスに近かったろう。
 エンジンの音に、啓はとび起きた。
「お父さん、契約してもいい?」
「二十一歳の人間にダメだと言っても仕方な
いだろう」それだけ言うと、荒っぽい運転で
角を曲がって行ってしまった。

〔発表:平成7年(1995)4月上尾座会/初出:「短説」1995年6月号/WEB版初公開〕
Copyright (C) 1995-2006 KURIHARA Michiko. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005年12月30日 (金)

短説:作品「出口」(向山葉子)

   出 口
 
            
向山 葉子
 
 いつの間にか夜になっていた。車の振動に
身を任せながら外を見ると、空には満月。私
は一体どこに連れていかれるのだろう。
 発端は多分あの一言だ。それは、娘の幼稚
園の母親たちが定期的にもつ茶話会の席のこ
とだ。
「どうして町の外に行くことができないんで
しょうねえ?」
 なにげなく言ったのだったが、和やかだっ
た場が一瞬凍りついた。隣にいたしいちゃん
のママがぎこちない笑みを浮かべて言った。
「あなた、方向音痴だからよ」
 それを機にもう何もなかったようにまた穏
やかなティータイムは続いた。
 ああ、あの言葉は禁句だったのだ。この町
に来て七年。私は一度もうまく駅にたどりつ
けたことがなかったが、なぜなのか考え続け
るにはこの町はあたたかく、なだらかに時が
流れすぎるのだっだ。
 茶話会から二日ばかりたった頃、警官が訪
ねてきた。銃刀法違反の疑いがあるとのこと
で、任意同行を求められた。当然無実のはず
だった。取り調べの警官は、この町の人間と
おなじような親しげな微笑みを浮かべていた。
微笑みながら彼は言った。「あなたは確信犯
なので、このまま護送しなければならないの
です。ああ、娘さんと息子さんのことはご心
配なさらなくていいですよ。この町のみんな
で健やかに育てていきますから」
 車は、町を抜けてどんどん遠ざかっていく。
運転手は無言のまま任務を遂行する。後頭部
と肩しか見えない。少し長めの髪の男性。小
刻みに震える肩。その肩に見覚えがあるよう
な気がした。ずっと昔から知っている肩。誰
だったのかは思い出せないけれど、確かに知
っている背中なのだった。

〔発表:平成10(1995)年11月第21回東葛座会/初出:1996年2月号「短説」/再録:1996年7月「日&月」第2号/「西向の山」upload2002.5.25〕
Copyright (C) 1995-2005 MUKOUYAMA Yoko. All rights reserved.

| | コメント (1) | トラックバック (0)