短説集2001〜2005

2010年5月20日 (木)

短説「船」見崎漣

   

             
見崎 漣

「ほら、みて、おふね」
 お菓子の空箱で作った船を、聡は自優げに
祖母に見せる。お世辞にも船に見える代物で
はなかったけれど、祖母はいつも優しく微笑
んで褒めてくれた。
「あらぁ、上手にできたねえ」
 
 聡の家は共稼ぎ。帰りの遅い両親。聡は祖
母のひざに座って、お菓子の空き箱やマッチ
箱で飛行機や船を作るのが好きだった。
 両親の方針で、近所の子供達のように好き
な玩具を与えられた事がない聡は、欲しい物
は何でも自分で作るのが当たり前になってい
た。そんな聡を不欄に思ってか、祖母が与え
てくれた唯一のものがあった。
 それは、五十円の小さなセロテープ。
 すぐに、何でもくっつけることができるそ
れは、聡のもの作りに大活躍していたが、無
駄づかいも多く、一週問ももたなかった。
「おばあちゃん、テープなくなっちやった」
「はいよ」
 祖母は仏壇の引き出しから真新しいテープ
を取り出すと、聡の手に握らせてくれた。テ
ープが切れていたことは一度もなかった。
 僅かな小遣いをもらうようになり、聡の行
動半径が広がると、祖母と過ごす時間やセロ
テープの出番は少なくなった。いつしか、祖
母と話す時間はほとんどなくなっていた。
 あれから二十五年、祖母は今日、小さな箱
に納まり、聡のひざに載って家に帰ってきた。
 祖母がいつもお経を唱えていた仏壇を家族
と共に整理していると、古ぼけたセロテープ
の小さな箱が、引き出しの奥にそっと納めら
れていた。
 テープがボロボロに剥がれかかり、すっか
り色裡せたマッチ箱の船と一緒に……。


〔発表:平成15年(2003)10月木座会/初出:2004年1月号「短説」/再録:2004年5月号「短説」〈年鑑特集号〉*2004年の代表作選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.11.15〕
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2009年11月 1日 (日)

短説:作品「待って」(川嶋杏子)

   待って
 
            
川嶋 杏子
 
「また来ておくれ」
 ばあちゃんは何回もそう言っていた。次の
日から毎日道の方を見ていた。
 あのお姉さんはもう来ない。僕は思ってい
た。僕の母さんのように。もう決してあの知
らないお姉さんはここへは来ない。お姉さん
はやがてお嫁に行き、男の子を産んでよその
男と駆け落ちする。僕の母さんのように。
 母さんはやがてばあちゃんのようになる。
 黙って炊事をし、しゃがんで洗濯をし、庭
先へ出ては通る人を呼び止める。
 誰が来ても同じ話を、今日もあしたも同じ
話を、やがて誰も居なくなっても話し続ける。
 風に向かって。音に向かって。
 僕は母さんの事をあまり憶えていない。僕
はこのままでいい。
 ばあちゃんは言っている。
 誰にも人生は有るのだよ。誰の人生もそう
変わりはしない。ブラスマイナスゼロだよと。
 始めは身の上話だった。話の中身はだんだ
ん変わって行った。でも誰の人生も同じって、
本当にそう思っているかどうかは分からない。
 僕はやがて大人になって街へ出て行く。
 僕はもっと大人になってばあちゃんの所へ
帰って来る。そして僕は考え続ける。
 誰か女を不幸にしなかったかと。
 ばあちやんはもう待つこと自体が生活にな
って、自分が何の為に庭先から道を見ている
のか分からない。でも僕にはその方がよかっ
た。来ない人を待つのは辛かろうから。
 お姉さんは気まぐれに寄っただけ。通りが
かりに、ただ話しかけられたから。
 でも時々思う。またあのおばあさんと話し
たい。また行きたいと思っているかもしれな
い。けれどそれは多分お姉さんが不幸だから。
 お姉さんはもうここへ来なくていい。

〔発表:平成17年(2005)7月上尾座会/初出:「短説」2005年10月号/WEB版初公開(追悼)〕
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2009年3月 3日 (火)

短説:作品「選考」(向山葉子)

   選 考
 
            
向山 葉子
 
 まだ予定時刻にはなってはいなかった。控
室のドアを開けると、少年たちの放つ水草の
ような匂いが流れ出てくる。
 彼は静かにドアを閉めると、一人一人に缶
ジュースを配って歩く。着古した背広姿の彼
を、多分だれも『その人』だとは気づいては
いない。彼の瞳は少しも騒がない。パイプ椅
子に腰かけて、時折菓子をすすめながら、穏
やかに少年たちの行動を見つめている。
 たとえほんの少しでも自分に自信がなけれ
ば、ここにはいないはずの少年たちなのだ。
その自身がどこから発するのか。写真だけで
はわからない。一人一人の空気を感じ取るひ
ととき。彼はこの時間が一番好きだった。
 時刻になった。係員がドアを開けて入って
くる。そして彼に一礼するとこう告げるのだ。
「この方が当事務所の社長です」と。一斉に
少年たちの表情が固くなる。
 そして彼は結果を告げる。「そっちのキミ
ね。あとの人はお帰りになっていいですよ」
 選んだ子は、待っている間もずっと怒った
ような顔をしていた。二重の切れ長の瞳の光
に力があった。その視線に出会うと、胸の辺
りから股間にかけて熱い疼きが走るのだった。
その表情は、彼の正体がわかっても変わらな
かった。
「キミ、ちょっと笑ってみてください」
「笑えません、今は」
「キミが笑うとね。きっとみんな、胸がきゅ
っとくると思うんですね。怒ったようなその
顔、いいですよ」
 少年は強い光を放つ黒々とした瞳で、彼を
見つめた。唇の形もいい。彼は思った。少し
厚ぼったいのが、南方の異国の少年のようで。
背があまり高すぎないのもいい。彼が強張っ
ている少年の背中を、すっと触った。


〔発表:平成13(2001)年3月・短説の会創立15周年記念全国大会(埼玉県嵐山町)「天」位入賞作品/初出:「短説」2001年4月号/再録:2001年7月号「月刊TOWNNET」通巻320号/西向の山」upload2002.11.30
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2008年10月25日 (土)

短説:作品「笑顔」(西山正義)

   笑 顔
 
            
西山 正義
 
 ショーケースから顔を上げた時だ。
「お決まりですか」
 ぼくが彼女の笑顔にぶつかったのは。こん
な素敵な笑顔は見たことがない。
「あ、えーと、このチョコレートケーキと、
そっちのチーズケーキ」
「レアのほうですね」
「はい。それと……、あのブルーベリーのと、
それからモンブランも」と、余計なものまで
買ってしまった。一人で四つもどうするのだ。
 学校を出て、一人暮らしも十年になる。せ
めてケーキでも買って、誕生日を祝おうとし
たのだ。
 甘党のぼくでも四つはきつかった。それで
も二日後にまた行った。彼女の笑顔見たさに。
 一ト月も経つと、よく一人でケーキを買い
に来る変な男の客ということで、店にも知ら
れるようになってしまった。
 すでに三か月経った。日曜も仕事になった
り、遅い日が続き、しばらく行けなかった。
三週間ぶりに行くと、やはり彼女の笑顔が迎
えてくれた。
「今日はどれにいたしますか」と彼女がにっ
こり。
 ぼくはつい、こんなことを口走っていた。
「その笑顔をください」
「レアのほうですね」
「え?」
 意味がよく分からなかったが、「あ、ハイ、
できればレアで」とぼく。
 サイフを出そうとすると、
「これは売り物ではありませんので、差し上
げます。どうぞ」と言って、彼女は笑顔を顔
から外した。
 ぼくは、その笑顔を受け取ると、てのひら
に慎重にのせ、店を出た。

〔発表:平成17年(2005)年9月・第119回通信/東葛座会~10/12月・ML座会/2005年12月号「短説」/再録:2006年4月号「月刊TOWNNET-常総・歴史の路」/再録:「西向の山」upload:2006.2.5〕
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2008年9月 1日 (月)

短説:作品「社交ダンス」(安村兆仙)

   社交ダンス
 
            
安村 兆仙
 
「クイッククイックスロー」
 週一回行われる社交ダンスの練習に、一郎
はいそいそと出掛ける。
 十数人いる会員は男女半々。いつも同じペ
アで踊る三組は夫婦か。
 あとは一郎と同じく独り身らしい。
 老人クラブ主催のせいか、最も年下の者で
も還暦より若い人はいない。
「さあ、始めますから適当に男女ペアになっ
て下さい」
 最初に言われて一郎が選んだのは、一番若
そうで椅麗な人。夫婦らしい人同志は手をと
りあっていて、他人の入りこむ余地はない。
 時々休憩をとりながらレッスンは続くが、
これ以来この人とはパートナーとなった。
(この人の名前は、住所は)と思ったが、何
故か気後れして直接きけない。
 休憩のとき隣にいた男性に尋ねてみた。
「あの方どなたかご存じですか」
 男性の言葉に仰天した。
「あれは私の家内です」
「えっ、奥さん。どうして奥さんと踊らない
んですか」
「別に……」
 さらに、次の言葉でまた仰天した。
「貴方、家内が気に入ったとみえて楽しそう
でしたね」
 浮気とか不倫したいということはないが、
気にいってないといったら嘘になるし、うき
うきしていたのは事実。
 まさか亭主が来ていて側で見ていたとは。
 軽快な音楽とともに再びレッスン。
 急にパートナーを変えるのは不自然だと思
い、また奥さんと踊ったが、側の亭主が気に
なって、ステップを問違えては相手の足をふ
んでばかりいた。

〔発表:平成14年(2002)2月関西座会/初出:「短説」2002年4月号/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉自選集/WEB版初公開〕
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2008年2月20日 (水)

短説:作品「深層海流」(普川元寿)

   深層海流
 
            
普川 元寿
 
 乱次郎は羽太郎を連れてペットショップに
行った。オウムが面白い。店員が教え込んだ
のだろう、「いらっしゃいませ」「かわいい
なあ」はいいとして「どろぼう、どろぼう」
はどうなってるの? ペットを盗もうとして
見つかり、逃げる泥棒を大声が追いかける。
その声があまりにショッキングだったので、
オウムが覚え込んでしまったのだろう。一度
覚えてしまった言葉は消去できないから売る
時は値引きかなあなどいろいろ想像する。で
も息子の為に曰く付きのオウムはやめて九官
鳥にした。
 
 乱次郎は売れない画家。いや腕やセンスは
いいのだが売るための絵を描かないので手元
不如意なのだ。自分に厳格なのである。
 終日アトリエに居ることが多い。従って九
官鳥ハッチャンに話しかけることもあるし、
独り言をハッチャンにみな聞かれてしまう。
「これだ!」はハッチャンの十八番のセリフ
である。
 
 このところ乱次郎にもカルチャーセンター
の講師の口があり、週に一度は家を空ける。
妻の修子はそのチャンスにアトリエ掃除だ。
 
 アトリエでハッチャンがなにか喋る。
 修子が聴く。
一月九日「ばかだなあ」(沈欝な声で)
〃一六日「ばかだなあ」(やや暗い声で)
〃二三日「ばかだなあ」(暗さ明るさ半々)
〃三〇日「ばかだなあ」(少し明るい声で)
二月七日「ばかだなあ」(明るく自己肯定的
            に)
 
 もうすぐ春である。

発表:平成17年(2005)3月通信座会/初出:「短説」2006年6月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2007.2.21〕
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2008年2月10日 (日)

短説:作品「発表会」(根本洋江)

   発表会
 
            
根本 洋江
 
 さとは、孫の典子のバレー発表会に呼ばれ
た。遅れない様に早目に家を出る事にした。
 会場では、息子が待っていて席をどうする
かと聞かれた。初舞台を見るには一番前が良
いと思い、一寸回りを気にしながら座わり、
渡されたプログラムを開いた。
 典子の出番の所には、赤い線が引かれてあ
った。さとはじっと緞帳の上がるのを待った。
 典子は見事に踊ったと、さとは満足した。
舞台裏を訪ねたさとに、典子が言った。
「おばあちゃんを見つけちゃった」
 さとは、典子の邪魔をしたのではと驚いた。
次の年、発表会の誘いの電話口で典子が、
「八日の日よ、今度は一番前にいないでね」
 あの時、目と目が合った気がしていた。や
はり、嫌だったに違いない。
〈ごめんよ〉
 今度は、帽子を被って中程に座ったさとは、
典子の踊る姿に見入った。
 舞台裏を訪ねたさとに、典子が言った。
「典子、おばあちゃんを探しちゃった」
「ええっ、まあ…、真ん中に居たのよ」
 さとは、思わず両手で典子の肩を撫でた。
 典子は五年生になって、本格的に、トウシ
ューズを履いて踊ると、嫁さんから連絡があ
った。さとは四年ぶりに発表会に出かけた。
今年はどの辺に座ろうかと迷った。
 目が霞んで来ているし、中央前から五番目
に決めた。プログラムを見ると役がついてい
た。そして一番小さいのが典子ですと、嫁さ
んのメモ書きがあった。
 踊る典子は、大人びた様に感じた。
 舞台裏を訪ねたさとを、ちらと見た典子は、
「失敗しちゃった…」
 と言って目を伏せた。さとは何も言わず、
笑顔で、胸の前に花束を差し出した。

〔発表:平成16年(2004)9月藤代日曜座会/初出:「短説」2004年12月号/WEB版初公開〕
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2008年1月23日 (水)

短説:作品「七化け」(能美清)

   七化け
 
             
能美 清
 
「おじいさん、飽きもせいで毎日ながめて、
終いにゃ穴が空いてしまうぞな」
 体をコの字に曲げて、ばあさんが庭草をむ
しりながら、首だけ縁側のじいさんに向けて、
いつもながらの嫌味を投げつける。
「フッ、おなごにこの趣が分かってたまるか」
 手に持った、萩焼の湯呑みを慈しむように、
中を覗いたり、顔の上にかかげて糸尻の周り
をながめて、一人悦に入っている。
 三年前、金婚式の祝いに、子供等と孫が、
山口県の旅行をプレゼントしてくれた。
 じいさんは喜んでいたが、ばあさんは、旅
行の間じゅう、じいさんの世話をするのかと
思うと、おっくうだった。しかし、いざ出か
けてみると、十歳は若返ったかと思うほど、
シャキッとして、かえってばあさんのせわを
やくほどだった。
 この旅でじいさんは、生まれて初めて、自
分のための買い物をした。
 ちょっと大ぶりだが、姿のやさしい萩焼の
湯呑みだった。
 あれからまだ三年しか使っていないが、茶
渋がひびわれに滲み出て、七化けにはまだま
だ遠く及ばないが、味わいは確かに出てきた
と思っていた。
 ほんの昨日までは。
 
「おじいさん、おはようございます、今朝は皆
さんの食器を、全部晒したの、きれいでしょ」
 庭先で、洗濯物を干す手を止めて言う。
 真っ白な湯呑みに、呆然とするじいさんに、
「おじいさん、もう一度最初からやり直す分、
長生きしなさいっていうことですよ」
 日頃の嫌味ったらしさは消え、ゆっくり温
かく、じいさんに言った。

発表:平成17年(2005)1月関西座会/初出:「短説」2005年4月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2007.2.21〕
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2008年1月 9日 (水)

短説:作品「書斎」(藤森深紅)

   書 斎
 
            
藤森 深紅
 
 叔父の書斎はすこし徽臭かった。
 三十年ぶり位に書斎に入ったのに、あやは
その匂いを覚えていた.
 叔父が書斎に本を一杯に広げて、虫干しす
るのを手伝ったことがある。
 本の間を銀色の紙魚が走り抜けるのを見て、
綺麗だと思ったものだった。
「あやちゃん、久しぶりだね」
 叔父の葬儀で顔を合わせた従兄の邦夫はす
こし額がはげ上がっていた。
 この家にいとこ達が集まると、よくかくれ
んぼなどをして遊んだものだ。
 あやは特に邦夫に可愛がってもらった。
 よく、あやを膝の上に座らせて絵本を読ん
でくれた。
「これ見てごらん」
 ある日、邦夫は本棚の一番上に隠すように
置いてあった本をあやに見せた。
 そこには極彩色の写真が写っていた。
「おとなはこんなことをするんだよ」
 幼いあやにはよく分からなかったが、あや
の頬にしっかり自分の頬を押しつけ、くいい
るように写真を見つめる邦夫に、よほど大事
な本なのだろうと感じた。
 そして、本を読んでもらっている内に、気
持ちよくなって眠ってしまうことがよくあっ
た。
 あれは誰の膝の上だったんだろう。
 邦夫だったのか、叔父だったのか。
 そして、この家に出入りしなくなったのは
何故だったんだろう。
 
「あの子、あやちゃんの小さい頃にそっくり
だね」
 いつの間にか、邦夫の膝の上には娘のゆな
が座っている。

発表:平成14年(2002)3月関西座会/初出:「短説」2002年6月号/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉*2002年の代表作選出作品〕
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2007年7月 6日 (金)

短説:作品「地球儀の夜」(道野重信)

   地球儀の夜
 
            
道野 重信
 
「シンナーないなら帰る」
 美香が立ったが、少年たちはぼうっとした
目で天井を見つめたままだった。「サンタが
来た」とそのうちの一人が言った。美香は構
わず溜り場のアパートの部屋を出た。せっか
くクリスマスなのに、あいつら自分たちだけ
で全部吸って……ムカツク! 部屋にいた少
年たちのうちの一人を、美香は好きだったよ
うな気がする。もうどうでもいいや。階段を
降りようとして足がもつれた。きっと部屋に
満ちていたシンナーのせいだ。バカヤロ!
 駅までの商店街は街路樹に電飾がつけられ、
ほとんどの店は閉まっていたが、樹の淡いオ
レンジ色の光は灯ったままだった。美香は尿
意を覚えた。駅まで我慢できそうにない。ア
ンティークの店がまだ開いていた。客用のト
イレは二階にあった。小物類がびっしりと並
んで、通路が狭い。小物の問から小人が何人
も美香を見ていた。美香は気にしなかった。
きっと、シンナーのせいだから。
 トイレの中は広かった。壁も天井も床も宇
宙の絵で、ドアを閉めてしまうと、浮いてい
るようだ。地球儀の形のランプが灯っている。
地球儀のランプの棚に分厚い本が乗っていた。
美香は便器に座ったままぺージをめくった。
それは美香のアルバムだった。尿が水を打つ
音が続いていた。撮った覚えのない写真ばか
りだった。アルバムの自分が少しずつぐれて
いく。いい子に育ってほしいなと美香は他人
事のように思った。アルバムの最後は、シン
ナーを吸っている自分だった。
 店から出ると、急に外が騒がしくなってい
た。「少年が道路で暴れている」「危ない」
「車にひかれた!」サイレンの音がした。
 美香はしばらく立っていたが、駅の方へ歩
いた。

〔発表:平成13年(2001)1月通信座会/初出:「短説」2001年3月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.11.21〕
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