2009年11月 1日 (日)
待って
川嶋 杏子
「また来ておくれ」
ばあちゃんは何回もそう言っていた。次の
日から毎日道の方を見ていた。
あのお姉さんはもう来ない。僕は思ってい
た。僕の母さんのように。もう決してあの知
らないお姉さんはここへは来ない。お姉さん
はやがてお嫁に行き、男の子を産んでよその
男と駆け落ちする。僕の母さんのように。
母さんはやがてばあちゃんのようになる。
黙って炊事をし、しゃがんで洗濯をし、庭
先へ出ては通る人を呼び止める。
誰が来ても同じ話を、今日もあしたも同じ
話を、やがて誰も居なくなっても話し続ける。
風に向かって。音に向かって。
僕は母さんの事をあまり憶えていない。僕
はこのままでいい。
ばあちゃんは言っている。
誰にも人生は有るのだよ。誰の人生もそう
変わりはしない。ブラスマイナスゼロだよと。
始めは身の上話だった。話の中身はだんだ
ん変わって行った。でも誰の人生も同じって、
本当にそう思っているかどうかは分からない。
僕はやがて大人になって街へ出て行く。
僕はもっと大人になってばあちゃんの所へ
帰って来る。そして僕は考え続ける。
誰か女を不幸にしなかったかと。
ばあちやんはもう待つこと自体が生活にな
って、自分が何の為に庭先から道を見ている
のか分からない。でも僕にはその方がよかっ
た。来ない人を待つのは辛かろうから。
お姉さんは気まぐれに寄っただけ。通りが
かりに、ただ話しかけられたから。
でも時々思う。またあのおばあさんと話し
たい。また行きたいと思っているかもしれな
い。けれどそれは多分お姉さんが不幸だから。
お姉さんはもうここへ来なくていい。
〔発表:平成17年(2005)7月上尾座会/初出:「短説」2005年10月号/WEB版初公開(追悼)〕
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2009年3月 3日 (火)
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選 考
向山 葉子
まだ予定時刻にはなってはいなかった。控
室のドアを開けると、少年たちの放つ水草の
ような匂いが流れ出てくる。
彼は静かにドアを閉めると、一人一人に缶
ジュースを配って歩く。着古した背広姿の彼
を、多分だれも『その人』だとは気づいては
いない。彼の瞳は少しも騒がない。パイプ椅
子に腰かけて、時折菓子をすすめながら、穏
やかに少年たちの行動を見つめている。
たとえほんの少しでも自分に自信がなけれ
ば、ここにはいないはずの少年たちなのだ。
その自身がどこから発するのか。写真だけで
はわからない。一人一人の空気を感じ取るひ
ととき。彼はこの時間が一番好きだった。
時刻になった。係員がドアを開けて入って
くる。そして彼に一礼するとこう告げるのだ。
「この方が当事務所の社長です」と。一斉に
少年たちの表情が固くなる。
そして彼は結果を告げる。「そっちのキミ
ね。あとの人はお帰りになっていいですよ」
選んだ子は、待っている間もずっと怒った
ような顔をしていた。二重の切れ長の瞳の光
に力があった。その視線に出会うと、胸の辺
りから股間にかけて熱い疼きが走るのだった。
その表情は、彼の正体がわかっても変わらな
かった。
「キミ、ちょっと笑ってみてください」
「笑えません、今は」
「キミが笑うとね。きっとみんな、胸がきゅ
っとくると思うんですね。怒ったようなその
顔、いいですよ」
少年は強い光を放つ黒々とした瞳で、彼を
見つめた。唇の形もいい。彼は思った。少し
厚ぼったいのが、南方の異国の少年のようで。
背があまり高すぎないのもいい。彼が強張っ
ている少年の背中を、すっと触った。
〔発表:平成13(2001)年3月・短説の会創立15周年記念全国大会(埼玉県嵐山町)「天」位入賞作品/初出:「短説」2001年4月号/再録:2001年7月号「月刊TOWNNET」通巻320号/「西向の山」upload2002.11.30〕
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2008年10月25日 (土)
笑 顔
西山 正義
ショーケースから顔を上げた時だ。
「お決まりですか」
ぼくが彼女の笑顔にぶつかったのは。こん
な素敵な笑顔は見たことがない。
「あ、えーと、このチョコレートケーキと、
そっちのチーズケーキ」
「レアのほうですね」
「はい。それと……、あのブルーベリーのと、
それからモンブランも」と、余計なものまで
買ってしまった。一人で四つもどうするのだ。
学校を出て、一人暮らしも十年になる。せ
めてケーキでも買って、誕生日を祝おうとし
たのだ。
甘党のぼくでも四つはきつかった。それで
も二日後にまた行った。彼女の笑顔見たさに。
一ト月も経つと、よく一人でケーキを買い
に来る変な男の客ということで、店にも知ら
れるようになってしまった。
すでに三か月経った。日曜も仕事になった
り、遅い日が続き、しばらく行けなかった。
三週間ぶりに行くと、やはり彼女の笑顔が迎
えてくれた。
「今日はどれにいたしますか」と彼女がにっ
こり。
ぼくはつい、こんなことを口走っていた。
「その笑顔をください」
「レアのほうですね」
「え?」
意味がよく分からなかったが、「あ、ハイ、
できればレアで」とぼく。
サイフを出そうとすると、
「これは売り物ではありませんので、差し上
げます。どうぞ」と言って、彼女は笑顔を顔
から外した。
ぼくは、その笑顔を受け取ると、てのひら
に慎重にのせ、店を出た。
〔発表:平成17年(2005)年9月・第119回通信/東葛座会~10/12月・ML座会/2005年12月号「短説」/再録:2006年4月号「月刊TOWNNET-常総・歴史の路」/再録:「西向の山」upload:2006.2.5〕
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2008年9月 1日 (月)
社交ダンス
安村 兆仙
「クイッククイックスロー」
週一回行われる社交ダンスの練習に、一郎
はいそいそと出掛ける。
十数人いる会員は男女半々。いつも同じペ
アで踊る三組は夫婦か。
あとは一郎と同じく独り身らしい。
老人クラブ主催のせいか、最も年下の者で
も還暦より若い人はいない。
「さあ、始めますから適当に男女ペアになっ
て下さい」
最初に言われて一郎が選んだのは、一番若
そうで椅麗な人。夫婦らしい人同志は手をと
りあっていて、他人の入りこむ余地はない。
時々休憩をとりながらレッスンは続くが、
これ以来この人とはパートナーとなった。
(この人の名前は、住所は)と思ったが、何
故か気後れして直接きけない。
休憩のとき隣にいた男性に尋ねてみた。
「あの方どなたかご存じですか」
男性の言葉に仰天した。
「あれは私の家内です」
「えっ、奥さん。どうして奥さんと踊らない
んですか」
「別に……」
さらに、次の言葉でまた仰天した。
「貴方、家内が気に入ったとみえて楽しそう
でしたね」
浮気とか不倫したいということはないが、
気にいってないといったら嘘になるし、うき
うきしていたのは事実。
まさか亭主が来ていて側で見ていたとは。
軽快な音楽とともに再びレッスン。
急にパートナーを変えるのは不自然だと思
い、また奥さんと踊ったが、側の亭主が気に
なって、ステップを問違えては相手の足をふ
んでばかりいた。
〔発表:平成14年(2002)2月関西座会/初出:「短説」2002年4月号/WEB版初公開〕
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2008年2月20日 (水)
深層海流
普川 元寿
乱次郎は羽太郎を連れてペットショップに
行った。オウムが面白い。店員が教え込んだ
のだろう、「いらっしゃいませ」「かわいい
なあ」はいいとして「どろぼう、どろぼう」
はどうなってるの? ペットを盗もうとして
見つかり、逃げる泥棒を大声が追いかける。
その声があまりにショッキングだったので、
オウムが覚え込んでしまったのだろう。一度
覚えてしまった言葉は消去できないから売る
時は値引きかなあなどいろいろ想像する。で
も息子の為に曰く付きのオウムはやめて九官
鳥にした。
乱次郎は売れない画家。いや腕やセンスは
いいのだが売るための絵を描かないので手元
不如意なのだ。自分に厳格なのである。
終日アトリエに居ることが多い。従って九
官鳥ハッチャンに話しかけることもあるし、
独り言をハッチャンにみな聞かれてしまう。
「これだ!」はハッチャンの十八番のセリフ
である。
このところ乱次郎にもカルチャーセンター
の講師の口があり、週に一度は家を空ける。
妻の修子はそのチャンスにアトリエ掃除だ。
アトリエでハッチャンがなにか喋る。
修子が聴く。
一月九日「ばかだなあ」(沈欝な声で)
〃一六日「ばかだなあ」(やや暗い声で)
〃二三日「ばかだなあ」(暗さ明るさ半々)
〃三〇日「ばかだなあ」(少し明るい声で)
二月七日「ばかだなあ」(明るく自己肯定的
に)
もうすぐ春である。
〔発表:平成17年(2005)3月通信座会/初出:「短説」2006年6月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2007.2.21〕
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2008年2月10日 (日)
発表会
根本 洋江
さとは、孫の典子のバレー発表会に呼ばれ
た。遅れない様に早目に家を出る事にした。
会場では、息子が待っていて席をどうする
かと聞かれた。初舞台を見るには一番前が良
いと思い、一寸回りを気にしながら座わり、
渡されたプログラムを開いた。
典子の出番の所には、赤い線が引かれてあ
った。さとはじっと緞帳の上がるのを待った。
典子は見事に踊ったと、さとは満足した。
舞台裏を訪ねたさとに、典子が言った。
「おばあちゃんを見つけちゃった」
さとは、典子の邪魔をしたのではと驚いた。
次の年、発表会の誘いの電話口で典子が、
「八日の日よ、今度は一番前にいないでね」
あの時、目と目が合った気がしていた。や
はり、嫌だったに違いない。
〈ごめんよ〉
今度は、帽子を被って中程に座ったさとは、
典子の踊る姿に見入った。
舞台裏を訪ねたさとに、典子が言った。
「典子、おばあちゃんを探しちゃった」
「ええっ、まあ…、真ん中に居たのよ」
さとは、思わず両手で典子の肩を撫でた。
典子は五年生になって、本格的に、トウシ
ューズを履いて踊ると、嫁さんから連絡があ
った。さとは四年ぶりに発表会に出かけた。
今年はどの辺に座ろうかと迷った。
目が霞んで来ているし、中央前から五番目
に決めた。プログラムを見ると役がついてい
た。そして一番小さいのが典子ですと、嫁さ
んのメモ書きがあった。
踊る典子は、大人びた様に感じた。
舞台裏を訪ねたさとを、ちらと見た典子は、
「失敗しちゃった…」
と言って目を伏せた。さとは何も言わず、
笑顔で、胸の前に花束を差し出した。
〔発表:平成16年(2004)9月藤代日曜座会/初出:「短説」2004年12月号/WEB版初公開〕
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2008年1月23日 (水)
七化け
能美 清
「おじいさん、飽きもせいで毎日ながめて、
終いにゃ穴が空いてしまうぞな」
体をコの字に曲げて、ばあさんが庭草をむ
しりながら、首だけ縁側のじいさんに向けて、
いつもながらの嫌味を投げつける。
「フッ、おなごにこの趣が分かってたまるか」
手に持った、萩焼の湯呑みを慈しむように、
中を覗いたり、顔の上にかかげて糸尻の周り
をながめて、一人悦に入っている。
三年前、金婚式の祝いに、子供等と孫が、
山口県の旅行をプレゼントしてくれた。
じいさんは喜んでいたが、ばあさんは、旅
行の間じゅう、じいさんの世話をするのかと
思うと、おっくうだった。しかし、いざ出か
けてみると、十歳は若返ったかと思うほど、
シャキッとして、かえってばあさんのせわを
やくほどだった。
この旅でじいさんは、生まれて初めて、自
分のための買い物をした。
ちょっと大ぶりだが、姿のやさしい萩焼の
湯呑みだった。
あれからまだ三年しか使っていないが、茶
渋がひびわれに滲み出て、七化けにはまだま
だ遠く及ばないが、味わいは確かに出てきた
と思っていた。
ほんの昨日までは。
「おじいさん、おはようございます、今朝は皆
さんの食器を、全部晒したの、きれいでしょ」
庭先で、洗濯物を干す手を止めて言う。
真っ白な湯呑みに、呆然とするじいさんに、
「おじいさん、もう一度最初からやり直す分、
長生きしなさいっていうことですよ」
日頃の嫌味ったらしさは消え、ゆっくり温
かく、じいさんに言った。
〔発表:平成17年(2005)1月関西座会/初出:「短説」2005年4月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2007.2.21〕
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2008年1月 9日 (水)
書 斎
藤森 深紅
叔父の書斎はすこし徽臭かった。
三十年ぶり位に書斎に入ったのに、あやは
その匂いを覚えていた.
叔父が書斎に本を一杯に広げて、虫干しす
るのを手伝ったことがある。
本の間を銀色の紙魚が走り抜けるのを見て、
綺麗だと思ったものだった。
「あやちゃん、久しぶりだね」
叔父の葬儀で顔を合わせた従兄の邦夫はす
こし額がはげ上がっていた。
この家にいとこ達が集まると、よくかくれ
んぼなどをして遊んだものだ。
あやは特に邦夫に可愛がってもらった。
よく、あやを膝の上に座らせて絵本を読ん
でくれた。
「これ見てごらん」
ある日、邦夫は本棚の一番上に隠すように
置いてあった本をあやに見せた。
そこには極彩色の写真が写っていた。
「おとなはこんなことをするんだよ」
幼いあやにはよく分からなかったが、あや
の頬にしっかり自分の頬を押しつけ、くいい
るように写真を見つめる邦夫に、よほど大事
な本なのだろうと感じた。
そして、本を読んでもらっている内に、気
持ちよくなって眠ってしまうことがよくあっ
た。
あれは誰の膝の上だったんだろう。
邦夫だったのか、叔父だったのか。
そして、この家に出入りしなくなったのは
何故だったんだろう。
「あの子、あやちゃんの小さい頃にそっくり
だね」
いつの間にか、邦夫の膝の上には娘のゆな
が座っている。
〔発表:平成14年(2002)3月関西座会/初出:「短説」2002年6月号/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉*2002年の代表作選出作品〕
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2007年7月 6日 (金)
地球儀の夜
道野 重信
「シンナーないなら帰る」
美香が立ったが、少年たちはぼうっとした
目で天井を見つめたままだった。「サンタが
来た」とそのうちの一人が言った。美香は構
わず溜り場のアパートの部屋を出た。せっか
くクリスマスなのに、あいつら自分たちだけ
で全部吸って……ムカツク! 部屋にいた少
年たちのうちの一人を、美香は好きだったよ
うな気がする。もうどうでもいいや。階段を
降りようとして足がもつれた。きっと部屋に
満ちていたシンナーのせいだ。バカヤロ!
駅までの商店街は街路樹に電飾がつけられ、
ほとんどの店は閉まっていたが、樹の淡いオ
レンジ色の光は灯ったままだった。美香は尿
意を覚えた。駅まで我慢できそうにない。ア
ンティークの店がまだ開いていた。客用のト
イレは二階にあった。小物類がびっしりと並
んで、通路が狭い。小物の問から小人が何人
も美香を見ていた。美香は気にしなかった。
きっと、シンナーのせいだから。
トイレの中は広かった。壁も天井も床も宇
宙の絵で、ドアを閉めてしまうと、浮いてい
るようだ。地球儀の形のランプが灯っている。
地球儀のランプの棚に分厚い本が乗っていた。
美香は便器に座ったままぺージをめくった。
それは美香のアルバムだった。尿が水を打つ
音が続いていた。撮った覚えのない写真ばか
りだった。アルバムの自分が少しずつぐれて
いく。いい子に育ってほしいなと美香は他人
事のように思った。アルバムの最後は、シン
ナーを吸っている自分だった。
店から出ると、急に外が騒がしくなってい
た。「少年が道路で暴れている」「危ない」
「車にひかれた!」サイレンの音がした。
美香はしばらく立っていたが、駅の方へ歩
いた。
〔発表:平成13年(2001)1月通信座会/初出:「短説」2001年3月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.11.21〕
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2007年6月20日 (水)
セキララ
喜多村 蔦枝
このところ運動不足だ。五月の太陽は眩し
い。
日曜日、妻と散歩に出た。
角を曲がったら妻が言った。
「あら、私のダンスの先生が向こうから。あ
なたを紹介するわね」
ダンスは妻の趣味だ。先生であるならこち
らから威儀を正さなくてはならんだろう。
まず薄手の上着を脱いだ。シャツのボタン
を外し、ズボンのベルトに手をかけたところ
で、先生はもう近づいてきて、目の前にいる。
「先生、お出かけですか。こちら私の主人で
す」
妻が言っている。
先生は背広姿であった。
「それはそれは、初めまして」
先生も上着を脱ぎ、ネクタイを外して、は
や下着になろうとしている。実に手早い。
こちらは先にと思うから、少々焦っている。
「妻がお世話になっています」
と言いながら、上半身裸になり、ズボンも
下履きと一緒に下ろした。
良かった。かろうじて先生よりも早く丸裸
になれた。すぐ先生もこちらと同じ格好にな
ったので、丁重に頭を下げ握手をした。
「よいお天気で、お揃いでお散歩ですか」
先生はニコニコ顔でそう言ってから、下着
をつけワイシャツを着てネクタイを結び、ズ
ボンのベルトを締めている。こちらも服を着
込む。さわやかな風が吹いてきた。
先生と別れた。颯爽と歩く先生の後ろ姿を
二人で見送った。
「さすがダンスの先生だから、姿勢がいいな」
と言った。
「でしよ」
心なしか、妻の背筋が伸びたように感じた。
〔発表:平成17年(2005)6月東京座会/初出:「短説」2005年9月号(旧題「せきらら」)/再録:「短説」2006年9/10月合併号〈年鑑特集号〉*2005年の代表作「人」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2007.1.6〕
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2007年5月22日 (火)
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栗の花
岩谷 政子
雨戸を一枚開けた途端、直子は一瞬息を止
め、不快な物でも追い払うように、鼻の先で
手首を小さくふった。
近くに神社があり、大木が何本かある。ど
の木がこの匂いを発するのか、いや、神社だ
けではない。この時期、街を歩いていれば、
漂っている匂いがある。思わず赤面するよう
な、まともにかぐのがためらわれるような、
青くさい匂い。男女の営みの後の、男のあの
液体と同じ匂い。
「新緑、若葉、風薫る、萌えいずる」五月を
彩る言葉はいっぱいあるけど、直子は「五月
は男の匂い」と思う。
木だって生きている、発情した雄木が雌木
を求めて匂いを発しても可笑しくはない。
が、まさか木が動けるわけもないから、枝
を伸ばし、葉を重ね、こすり合わせ、ことを
済ませての匂いだろうか、朝から恥ずかしく
ないのかしら、こんな匂いをぶちまけて、そ
う思い、直子ははっとした。自分こそ朝から
何を想像しているのかしら、と一人で体を熱
くし、苦笑した。
それと言うのも、二日前息子が家を出たか
らかしら、
「金がないから式は挙げないよ」
と言って、布団とダンボール箱三つを車に
詰め込み、五つ年上の彼女のもとへ、行って
しまった。まるで旅行にでも行くように。
あの息子が、よくぞ相手を見つけたものだ。
来年の今頃は孫がいるかも知れない。いや
もしかして、あっさりと別れているかも知れ
ない。それでもいいさ、今新婚の楽しさを味
わえているだけでもいいさ、と思うと、直子
は漂っている匂いに愛しさを感じ、今度は胸
いっぱいに息を吸い込み、もう一枚雨戸を繰
った。
〔発表:平成17年(2005)7月東京座会/初出:「短説」2005年10月号/再録:「短説」2006年9/10月合併号〈年鑑特集号〉*2005年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2007.1.6〕
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2007年5月11日 (金)
夜明けにララバイ
秋葉 信雄
彼は楽器を背負い町を歩いた。
一本も弦が張ってないギター。
「お客さん。可愛い子がいますよ」
ポン引きが、すりよる。
「どうですか、遊んでいきませんか」
首を振って、断わった。男が離れていく。
公園の暗がりから、女が現れた。
長い髪を後ろに束ねている。
「もう帰るの、夜は長いわよ」
「金は持ってない。ほかに当たりな」
「誤解しないで。私はそういう女じゃないわ」
女は静かに言った。
杉の大木の後ろから、キーボードを引っ張
り出した。
「あなたのギターとお手合わせをしたいだけ
なの」
「なんだそれを早く言えば」彼は背中からギ
ターをおろした。
女は鍵盤のないキーボードで、スローな曲
を弾き始めた。
なくしたこどもの 年さえ忘れ
ひとりさまよう 還れない街
神様の涙が 空の果てから
地上に降りて 私を洗う
雨 雨 雨 そして 雨
彼は、見えない弦を張替え、キーボードに
音を含わせて弾き始めた。
背中の子が 腐り始める
いつになっても 赤ん坊のまま
俺の心の 闇を食べてる
God's Rain God's Rain
No more Pain No more Pain
彼は昔の女房のキーボード弾きを、抱き寄
せた。やがて雨はやんで、空は明るくなり始
めた。彼は空っぽのギターケースの中で、小
さな腐った幼児になっていた。
〔発表:平成15年(2003)7月東京座会/初出:「短説」2003年10月号/再録:「短説」2004年5月号〈年鑑特集号〉*2003年の代表作選出作品/初刊:秋葉信雄短説集『DEAD
DECEMBER(死んだ師走)』2006年9月/〈短説の会〉公式サイトupload・2006.11.21〕
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2007年4月10日 (火)
鉄
西山 正義
「あんた、鉄と結婚すれば」
と、彼女に言われた。
たしかに僕は鉄が好きだ。実際、日夜仕事
で鉄を作っている。結婚の話が出ていた。僕
は決して上の空で聞いていたわけではない。
しかし、喫茶店の卓上に置かれていた、スチ
ール製のメニュー・ホルダーを、僕は無意識
のうちに弄んでいたらしい。それがまるで、
女を愛しむような手付きだと言うのだ。
思えば、幼い頃からプラスチック製の物よ
りブリキのおもちゃを好んだ。少し大きくな
ると、廃線となった鉄道の線路に、頬をくっ
つけては恍惚となっていたものだ。蒸気機関
車に軍艦、鉄塔。なるべく無骨な方がいい。
H鋼が横たわっているだけでも興奮する。
何よりも、その質感と匂いだ。そして、冷
たさ。僕はしかし、日々熱い鉄に接している。
正確に言えば、どろどろに溶けて真っ赤に焼
けた鉄鉱石なのだが、溶鉱炉の中でコークス
と反応させ、不純物を取り除き、「銑鉄」に
還元する。その後、炭素を除去する工程を経
て「鋼」になる。が、それ以降は、僕の与り
知るところではなく、最終的にどんな製品に
なるかは知らない。しかし、あらゆる鉄製品
のおおもとは、僕が作っているのだ。
「君って、鉄に似ているんだけどな」
と僕は言った。彼女はすかさず、
「ばか言わないでよ。あたしはあんなに硬く
なし、冷たくもないわ。錆びたりもしないし」
と口を尖らせた。そういうところが鉄っぽ
くて、可愛いんだけど、と言いたかったが、
僕は別のことを言った。
「ステンレスなんて物もあるけど、鉄を錆び
させない方法があるんだ。知ってる? それ
はね、使い続けることなんだ。線路の鉄だっ
て、車輪が通るところは、錆びないだろ」
〔発表:平成17年(2005)11月通信&ML座会/2006年2月号「短説」/再録:「西向の山」upload:2006.7.5〕
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2007年3月20日 (火)
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鶏
太秦 映子
「こっ、こっ、こっけーこっこっ」鶏が鳴い
た。走り出した。
「ごっごっ、ごっごっ」後を一羽の鶏が追う。
十坪の鳥小屋の中を追い回す。あっちにぶつ
かり、こっちに飛び回り、逃げ回る。天井近
くの梁に飛び乗った。
翌日、又、追い回している。梁に飛び乗っ
て下りてこない。夕方、下りた。
次の日、二羽で追い回している。梁に飛び
乗った。下りて来ない。日暮れて、下りた。
その次の日、五羽で追い回している。
又その次の日、十五羽、全部で、追い回し
ている。
「ぎゃーっ、ぐっぐっ、ぐっぐっ」と逃げ回
る。「ごっごっ、ごっごっ、どっどっ、どっ
どっ」一羽を十五羽が追い回す。
一羽が追いついた。尻を突付いた。
「ぎゃっ、ぎゃっー」羽根を広げ、足をばた
っかせ、梁に飛び上がった。羽毛が一掴み分
抜けた。土ぼこりが舞い上がった。下で十五
羽が騒いでいる。
次の日、梁から鶏は下りて来ない。十五羽
は餌を食べ、水を飲み、砂を浴び、卵を産む。
翌日梁から下りた。十五羽が追いかける。
すぐ追いつかれた。一羽が尻を突付いた。
「ぎゃっ、ぎゃっ」逃げる。二、三羽が追い
ついた。尻を突付いた。
「ぎゃっごっ、ごっ」くちばしを突き出し、
とさかを立てて逃げる。十五羽が追いかける。
追いつかれた。十五羽は尻を突付く。逃げる。
走り回る。突付かれた尻から血が出た。十五
羽は十五のくちばしで突付く。腸を突付き出
した。血まみれの腸を引きずりながら、鶏は
逃げ回る。
「こいつはもう駄目だ。鶏鍋にでもするか」
と飼い主が小屋から出した。
〔発表:平成15年(2005)11月上尾座会/初出:2006年2月号「短説」/WEB版初公開〕
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2007年2月 3日 (土)
駅前広場
水南 森
タクシーがヘッドライトをつけて走り去っ
た。ロータリーから車が無くなった。
ベンチに座る少女が、横の女に話しかけた。
次の問題ね。午後って言ったらなーん時だ。
一時。
女が答えた。少女は首を横に振った。
二時。
ブーッ。ちゃんと考えて。
二人の正面の植え込みにスキンヘッドの男
が立っている。首から画用紙をぶら下げてい
た。画用紙には、
目標一万首 矢継短歌 お題をください
と書かれている。そして、叫んだ。
残業の、男ら乗せて、快速は、定時にキッ
カリ、車庫に帰れる。二千二百六十五首にな
りました。
うまいぞ、兄ちゃん。座布団一枚。
囲む男たちが拍手をした。座り込む者も、
立って缶ビールを飲む者もいる。
兄ちゃん次は、改造内閣。
サプライズ、起こらぬことに、驚いて、胸
なでおろす、改造内閣。次、お願いします。
じゃあ、母ちゃん。
産声は、オギャーだった、子供らは、成長
を遂げ、母ちゃんと言う。
もっと色っぽいの作れや。
駅の入口にシャッターが降りていく。
わかったわ、二十四時ね。
残念でした。二十五時。ごご、にじゅうご。
兄ちゃん、あれだあれ。日本。
なぞなぞを、出されて惑う、大人いて、日
本の夜は、深まっていく。次、お願いします。
次の問題ね。丸くて四角、なーんだ。
兄ちゃん、丸くて四角だってよ。
ビールを飲んでいた男が、ベンチを振り返
って言った。
〔発表:平成17年(2005)11月藤代東葛合同座会~ML座会/初出:「短説」2006年2月号/WEB版初公開〕
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2007年1月25日 (木)
館の緋
横山 とよ子
「栗毛のようすが変だよ。大好きな飴も食べ
ようともしない」子供達が父に知らせた。
父は自転車に飛び乗り、獣医を呼びに走っ
た。心配して近所のおじさん達も駆け付けた。
獣医は、腸捻転と診断。素早く指図した。
子供達は、ぬるま湯で石ケンを溶いた。
大人達は、縄で丸太を結び枠を組み、首も
尻尾も縛り上げ馬が身動き出来ない様にした。
獣医は上半身裸になり、腕に石ケンを塗り
肛門に突込み、馬糞を掴み出した。子供達が
溶いた石ケン水を、バケツ一杯浣腸した。
轡の端から竹筒を差し込み薬を流し込んだ。
毎日、父は餌に気を遣った。干し草を刻み、
糠、餅米の粥、丸麦を煮て切藁に混ぜ、飼葉
とし、麩に味噌を加えて汁とし、生卵子を飲
ませた。馬はだんだん元気になり、毛艶は良
し、はち切れんばかりの尻には、白い丸い模
様が浮き出て来た。その模様が、六文銭の形
に似ている事から、六文の連銭というそうだ。
最高馬の証しと父は喜び尚一層世話をした。
昭和十六年、軍馬徴発令が下った。農耕馬
でも検査を受けなくてはならない。
勤行川沿のグラウンドには、下館町を中心
に近在五ヶ村から、百数十頭の馬が集った。
三分の一の合格馬の中でも、我が家の栗毛
は、第一位で合格。下館町の誇りと係官から
館の一字をとり、〝館の緋〟と命名された。
父は買上価格最高の大金五百円を手にした。
その夜、病気の時お世話になった人々を呼
んで、盛大な酒盛りをした。館の緋は子供達
から好物の飴をもらい旨そうに食べた。
翌朝、父は飴の袋を腹掛けに入れ駅に向っ
た。貨車に乗せようとしても、館の緋は、足
を踏ん張って乗らない。仕方なく係官に飴を
渡し、帰って来たと云う。
「今度は牛にしよう」と父は言った。
〔発表:平成16年(2004)4月藤代座会/初出:「短説」2004年7月号/WEB版初公開〕
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2006年12月 9日 (土)
ニート
小森 千穂
あ、いらっしゃい! お久しぶりー、さ、
入って入って……あら、有難う! モンブラ
ン? なつかしいわ、私達ケーキって言えば
いつでもモンブランだったわね、うちの大輔
も大好物なの、今一寸本屋さん迄出掛けてる
んだけど、あら座ってよ、そっちのソファの
方が良いかしら、美っちゃん少しやせた?
そんな事ない、そうお、この間の同窓会の時
よりスマートになった感じだけど。え、私?
太ったわよ、悩み太りってとこかな、もう…
あなたの紅茶党変ってないでしょ、レモン
で良い? 悩み? あるわよ私だって、大輔
の事も悩みかな、大学院まで出してやったの
に、やりたい仕事がないとか言って会社の説
明会にも全然行かないし、まあ私はね、やり
たい事がはっきりする迄良いかな、とも思う
んだけど主人が怒るのよ、ニートなんて家じ
ゃ飼っておけないぞ、とか家を出て独立しろ
とか、学生時代にアルバイトもしたことない
し……性格は良い子なんだけど。
ところでお宅の緑ちゃんお元気? え、結
婚? わあ、おめでとう! そう、来月なの、
いつの間にかお嫁さんの年なのね、そう言え
ば林さん、あの人もうお祖母ちゃんよ、この
間偶然逢って聞いたんだけど、娘さん出来ち
ゃった結婚なんですって。でも良いわよね、
今ちゃんと良いママやってるんですもの。
主人はすぐ私が甘いから、とか言うんだけ
どそんなこと関係ないわよね、すぐ人の責任
にするんだから。あら、帰って来たみたい、
お帰り! 大輔くん覚えてる? 高校時代の
美っちゃん、そう十年位逢ってないかな、少
しお喋りしていかない? まあ、愛想のない
こと、男の子って……あら、大輔くーん、モ
ンブラン頂いたんだけど食べるう? 美っち
ゃんごめん、一寸大輔におやつ置いてくるわ。
〔発表:平成17年(2005)7月藤代座会/初出:2005年10月号「短説」/WEB版初公開〕
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2006年10月16日 (月)
ホットドッグ
桑井 朋子
原っぱで、少年が凧を上げようとしている。
「ほう、まだ上がってませんか」
売店から戻ってきたK氏が、そう言いなが
らベンチにいる私の横に座った。
「ええ、だってあんな大きな凧じゃねえ」
私はしかし、凧よりはK氏が買ってきたも
のに仰天してしまう。なんとそれはホットド
ッグではないか。つい先刻、二十年ぶりにぱ
ったり出合い、お互い老いを痛感したところ
である。ぼくはもう入れ歯で…、とも言って
たではないか。なのになぜ? それはもう私
らには怪物の如き食べ物だというのに。でも、
「まぁ美昧しそう」
と私は言う。この怪物にやりこめられると
ころをこの人に見られたくはない。
「あれは何の凧なんだろうねぇ」
「さぁ…」
私はそれどころではない。まずはその先端
にそっとかぶりつく。すると中のスパゲティ
がずるずると絡り出てき、それを口で引っぱ
ると、今度はウインナーとレタスまでも飛び
出てくるので、私は慌ててまたかぶりつく。
「おっととと」
横でK氏が奇声をあげている。人の粗相を
見て喜んでいるらしい。私は両の手でしっか
り怪物を捕まえ、より慎重にかぶりつく。
「よーし、それでいい、それでいい」
ふと見ると、少年の凧がようやく上がって
いた。少年が必死に原っぱを走り、凧は晴れ
た空高くぐんぐん昇っていく。
「おお、あれはUFOだ、UFOだ」
とK氏が歓んでいる。見ると彼の口周りは
ケチャップだらけで、その手にある怪物から
は、今しも内臓が落下しようとしている。
「あっ危ない!」
でも今度は私のほうが……
〔発表:平成17年(2005)7月関西座会/初出:「短説」2005年10月号/WEB版初公開〕
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2006年10月 6日 (金)
玉
西山 正義
通勤途中、朝晩通る鉄路沿いの細道に、地
場野菜の販売所があった。葦簾を張っただけ
の無人の掘っ建て小屋である。ある日の帰り、
そこについぞ見たことのない物体が置かれて
いた。色といい艶といい、最初は玉こんにゃ
くかと思った。が、それにしては異様に大き
い。僕が近づくと、その玉がニッと笑いかけ
てきた。僕は立ち止まり、周りを見回した。
手にとってみると、意外にずっしり、ひん
やりしている。大きさはちょうどプリンスメ
ロンぐらい。こんにゃく玉のようでもあった
が、とても食べられそうにはない。そもそも
売り物だろうか。誰かのいたずらではないの
か。人が来た。鞄で隠す。とりあえず百円玉
を二枚集金箱に入れ、アパートに持ち帰った。
同僚の披露宴でもらった皿を引っ張り出し
てきて、その上にのせておく。見ていると、
気持ちがなごむような、不吉な予感がしてく
るような。生きているようにも思える。僕は
そいつを机の真ん中に飾り、家にいる時はそ
ればかり眺めているようなことになった。
数日後、少し大きくなっていた。手をかざ
すと、喜んでいるように見える。二週間後、
洗ってみた。するとさらに大きくなった。水
分を含んだからではなく、どうも僕がさする
と、加速度的に膨張するようだ。
しかし、僕がいない間に縮んでいたりもす
る。僕はまた触らずにはいられなくなる。一
体これは何か。こいつは何かの反映ではない
のか。同僚は、こんな僕にもついに女ができ
たかと言う。曖昧にこたえるしかない。
朝起きる。会社から帰る。週末はどこへも
行かない。僕はそいつを日夜さすった。
そしてついに、それは部屋を圧するまでに
なった。人間が入る隙間もなくなったので、
僕はアパートを引き払い、会社も辞めた。
〔発表:平成17年(2005)7月・第117回通信座会~8月・ML座会~9月・東葛座会~9/10月・ML座会(第10稿)/初出:2005年11月号「短説」/再録:「西向の山」upload:2006.2.5〕
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2006年9月11日 (月)
平成十三年九月十二日、朝
向山 葉子
朝七時。子供たちを起こす。寝ぼけ眼でず
るずるとベッドから這い出すヨシトとマヤ。
居間に転がるついでにマヤがテレビのスイッ
チを入れる音がする。
「あー、朝からウルトラマンやってる!」
ヨシトの声に、食事の支度の手を止めて振
り向く。まさしく、特撮の映像が画面に映っ
ている。ツインタワービルの一つが炎上して
おり、もうひとつのビルに飛行機が突っ込ん
でいくシーン。ずいぶん生々しい特撮だなぁ
……。と、待てよ、これは。
「違うよ、ウルトラマンじゃないよ。ニュー
スだよ、これ」とマヤ。
「じゃ、ホントのことなの、おかーさーん」
不思議そうに振り向くヨシト。
「どうなってんの、これ」もう朝食の支度ど
ころではない。
「東京なの? 新宿のビル、壊れたの。どう
しよう、怪獣が出たんだ」ヨシトはもう半泣
きである。
「アメリカだってよ。にゅーよーくって書い
てあるじゃん」マヤの声に、崩落するビルの
映像が重なる。
「ほえー、すごい。サイボーグくろちゃんの
暴れた後みたい。ホントのことなんて思えな
ーい。あっ、バックドラフトの人たちがいる」
「お姉ちゃん、ちげーよ。あれは、ガッツの
アメリカ支部の人たちだよ」
「怪獣じゃないの。飛行機がぶつかったんだ
って」マヤの説明にも、ヨシトはどうも納得
がいかない様子だ。
怪獣の方がまだましかもしれない。人間の
理性を超越しているから。はじまったばかり
の二十一世紀、怪獣よりも怖いものを見てし
まった朝。子供たちは、まだ知らない。日本
は、世界は、どこにいってしまうのか。
〔発表:平成13年(2001)9月15日ML座会/初出:「短説」2001年9月号/WEBサイト「西向の山」upload2003.4.26〕
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2006年9月 7日 (木)
利根川
伊藤 朗
「あなたも座りなさいよ」
小堀の渡しの桟橋、ジョギングの汗を拭く
靖男に声が掛かる。声の主は先客のおばあち
ゃん。
前に利根の流れ、右上に常磐線鉄橋、その
隣には6号国道大利根橋が架かる。
「おばあちゃん、川の流れを見て面白いです
か?」
「あんたも今見てたじゃないか、聞くまでも
ないだろうに」
「毎日ここにきているんですか?」
「家に居てもしょうがないからね、ほとんど
毎日だね。国土交通省の人とも仲良くなって
ね、いろいろ教えてもらったよ、何か教えて
あげようか、利根川の源流知ってる?」
「いえ」
「群馬県の大水上山だよ、そこから銚子の河
口まで三百二十二キロあるんだってさ、源流
の水は銚子まで、何日かかってたどり着くと
思う?」
「分かりません」
「考えないで分からないとは、小学生じゃな
いの、じゃあ、教えてあげるね、四日だよ」
「へー、案外早いんだね、でも、全部の水が
銚子までいくとは、限らないじゃないかな」
「本当だね、源流のきれいな水も流域の田ん
ぼの水や家庭排水、工業排水と混ざってしま
うんだものね、水も楽じゃないね」
「川底の水は川面に上がることはあるんでし
ょうか、それとも、ずっと川底を下っていく
のでしょうか?」
「そんなの、あんたが考えればいいじゃない
の」
辺りは暗くなりかけてきた。電車の音がす
る。常磐線の終点はどこだっけ、そういえば、
最近「はつかり」を見なくなった。
〔発表:平成15年(2003)11月藤代座会/初出:2004年2月号「短説」/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.8.12〕
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2006年8月20日 (日)
とうとうたらり
福本 加代
「とうとうたらりって感じね」
桜の木を見上げながら、原田さんが呟く。
「女学生のころ読んだ、上田敏の『海潮音』
の一節に、匂も音も夕空に、とうとうたら
り、とうたらり、というのがあったわ」
「どういう意味なのでしょうか」
わたしは原田さんの車椅子を押す手を止め
て尋ねた。
「それがよく判らないのよ。でもその文句が
気に入って覚えていたのね。それでこういう
歌を詠んでみたの」
原田さんはゆっくりした口調で言う。
「春の日は 極彩色の 曼荼羅に つつまれ
眠る とうとうたらり」
「曼荼羅ってチベット的ですね」
「ええ、それで、チベット語が発祥という説
もあるそうよ。ネットで調べたのだけれど」
「パソコンなさるんですか」
「孫が来たときに設定してくれてね。さっき
の歌も、題詠マラソンという、ネット上の催
しに発表したものなのよ」
わたしは桜の木の下にシートを敷き、原田
さんを座らせた。平日だが幾つかのグループ
がお弁当を広げている。
「今朝、急に思いたったので、コンビニのお
握りしか用意できなくて」
「ええ、それでじゅうぶんよ」
原田さんはお握りを頬張る。実を言うとわ
たしは、出不精になった彼女を、どう誘おう
か迷っていたのだ。
「チベットにもね、姨捨山伝説というのが、
あるそうよ。お婆さんたちはね……」
お握りを食べ終え、ペットボトルのお茶を
飲みながら、原田さんは言い続けた。
「とうとうたらり、とうたらり、と歌ったり
踊ったりしながら、お山にゆくのよね」
〔発表平成16(2004)年3月東葛座会・4月ML座会/初出:2004年6月号「短説」/WEB版初公開〕
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2006年8月15日 (火)
やくせん
大越 剛吉
疎開から帰ってみると、東京は焼け跡だら
けだった。
いまの学芸大学の駅から康夫の家の手前ま
ですっかり焼けていたが、そこからの住宅地
は残っていた。道ひとつ隔てた「やくせん」
と呼んでいた女子薬学専門学校は綺麗に焼け
ていて、基礎のコンクリートの上にガラス屑
などがうず高く積もっていた。いくらかでも
食糧の足しにと其の一隅を耕して畑を作った
が、土が悪いせいかほとんど収穫がなかった。
四キロほど離れたいまの駒沢公園まで「か
いせい」道路を歩いて野菜作りに通ったが、
これも長続きしなかった。結局いくらかでも
役にたったのは、狭い庭にあった防空壕を崩
してつくった南瓜くらいだった。
米軍が放出した缶詰などを分けるために、
隣組の人たちが康夫の家に集まった。青木さ
んのおくさんが缶詰のラベルを読んで、中味
がアスパラガスだと言った。周りの人は「へ
え、英語が分かるんだ」と感心した。
手製の電気パン焼き機がおおいに活躍した。
小麦粉をといていろんな物を混ぜて流し込ん
で焼くと、意外にふっくらと焼きあがり康夫
たちには歓迎された。
隣組の人たちで区の出張所まで配給を取り
に行ったことがある。その中に稲垣さんの家
に問借りしている娘がいた。母たちは「なに
をしている人だろう」と言っていたが、肉付
きのよい美人だ。
前を歩いているその人がひょいと背中の荷
物をずり上げた。そのとたんに、ワンピース
がめくり上がりお尻が丸出しになった。その
お尻にはぼろぼろのパンツが申し訳ていどに
くっついていた。
康夫は頭がくらくらとした。
〔発表:平成16年(2004)12月藤代座会/2005年3月号「短説」/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.8.12〕
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2006年7月25日 (火)
ばあさんの庭
五十嵐 まり子
すり鉢型のアリジゴクの巣に小さな蟻が一
匹落ちた。差し渡しが四センチはある大きな
穴だ。蟻が這い出ようと少し登りかけると、
細かいさらさらの砂は崩れ、また底に戻って
しまう。突然すり鉢の底から砂が放り上げら
れた。小さな蟻は砂と一緒に穴の外へ放り出
された。ぱあさんは指でつまんで蟻を穴の底
へ落とす。同じことを三回繰り返して四回目、
小さな角のようなものが二つ底に見えたかと
思うと、蟻は底の砂の中に姿を消した。
「間抜けなアリジゴク」
ばあさんは独り言を言った。
剥げて落ちそうになっている杉の皮が、そ
の先にセミをぶら下げてゆらゆら揺れている。
蝉は時々もがいているように見える。足が引
っかかって飛べないのだろうか。
近くに寄ってよく見てみると、杉の皮と思
ったのは茶色の蟷螂だった。カマのところで
しっかりと蝉の頭を引っ掛けている。朝の掃
除の時に、蝉の羽だけが落ちているのを何回
か見たが、きっと蟷螂が食べたに違いない。
「わるいね、放してやるよ」
ばあさんは蝉を放してやった。
七十センチほどのグレープフルーツの木に
アゲハの幼虫が五匹いた。大きいのは三セン
チぐらいになっていた。翌日、一番小さいの
を除いて全部姿を消した。木の中程にお腹を
膨らました青い蟷螂が、木の一部のようにし
てじっと動かずにいる。
「みんな生きるためだもの。仕方がないね」
ばあさんは足元の猫に言った。
ばあさんは一人で食事を摂る。猫は隣の椅
子に乗って、何かもらえるかと待っている。
〔発表:平成16年(2004)9月上尾座会/初出:2004年12月号「短説」/WEB版初公開〕
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2006年6月27日 (火)
うつくし
川嶋 杏子
「もう一度行ってみたい」と妻は言った。
疎開先で教帥に引率されて行った川の風景
が忘れられないという。
宿の主人は、文箱に入った手紙の束を持っ
て来た。
“おせわになったおじさんへ”
茶罫のわら半紙の原稿用紙に、食事がおい
しかった、せみをつかまえてもらってうれし
かった等、礼の言葉が綴られている。戦争が
終って、束京に帰る子供達が置いて行ったも
のだという。妻のように大人になってまた訪
れて来る人間も居るとの事だった。低学年だ
った妻には、手紙を書いた記憶はなかった。
「今頃は日光きすげが咲いていますよ」
“うつくし”に行ってみたらと主人は言った。
宿の前の坂道を下ると湧水があり「ここで
顔を洗った」と妻は言った。
翌日は娘と三人、バスで美ヶ原へ登った。
娘はその頃の妻の年齢だ。
帰る日、妻は朝早く一人で宿を出て行った。
「川を見て来るね」「早く帰って来てママ」
出発の時間真近になって彼女は戻って来た。
「ここじゃないかと思う処はあった」
はっきりとは確認出来なかったのだと私は
思った。始発のバスの二人掛の座席に私は娘
と並んで座り、妻は後に座った。
窓外に川の景色が見えて来た。私は思わず
目を凝らした。川原の白い砂の上に妻の後姿
がある。――妻は何を思い残しているのか。
その日まで戻って解決してやれないものか。
後ろに居る女は誰だろう。ふり返っても誰
も居ないのかもしれない。
川原へ、妻を連れ戻しに行かなくてはと思
いながら、私はふっと別の事を考えた。
地元の人は“美し”というのか。高原に、
きすげの花が盛りだった……。
〔発表:平成16年(2004)8月上尾座会/初出:「短説」2004年11月号/再録:「短説」2005年5月号〈年鑑特集号〉*2004年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.5.11〕
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2006年6月18日 (日)
夢の中で
小野寺 信子
息をひそめるようにして小さな川辺でしゃ
がんでいた。夫も二人の子供も側にいる。
足もとの草むらで、数匹の蛍が青白い光を
出している。
見慣れない景色の中、ここにいるのは私た
ち家族だけ。
闇の中にいる全てのものが眠っているのか
何の音もしない。時々、狭い川の上を舞うよ
うにして蛍は一瞬、水に光を落として飛んで
いく。
「源氏蛍も平家蛍も、卵を水草にかためて生
みつけるんだよ」
そんなことでも教えているのだろうか。夫
が、星明かりの下で子供たちに顔をくっつけ
るようにしている。すぐ側にいるのに、声は
遠い。
「何を話しているの?」
声を出すと、何もが消えてしまいそう。
幼虫になると、水の中でカワニナやミヤイ
リ貝を食べて生きていることや、幼虫のまま
冬を越して土の中でさなぎになることも、教
えたいと思っていた。夫は、そんな話もして
くれたのだろうか。光を放つ蛍の側で、目を
丸くしている子供たち。
やはり、私は夢をみていた。
まだ、子供たちに蛍のいる里を見せたい想
いを果たせないでいる。
夢の中の私が、私に少しの思い出だけを残
して死んでしまった母と重なった。
蛍の住めるきれいな水辺に辿り着く前に、
子育てが終わってしまいそう。
成虫になるまで一年もかけて、飛べるのは
二週問ばかりだと言う。
蛍はどんな言葉を持っているのだろう。
〔発表:平成16年(2004)6月通信座会/「短説」2004年9月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.6.18〕
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2006年6月 3日 (土)
夜泣き街道
道野 重信
おれは終電車を降りた。コンビニに寄った。
缶ビールとつまみを買った。コンビニの脇に
石碑があった。おれはその夜、はじめて石碑
に気がついた。夜泣き街道と書いてあった。
おれが普段通る商店街のことだ。由来を読ん
だ。奈良時代の街道だったらしい。商人の往
来が多かったが、中でも農村で子どもを買い、
町に売りに行く連中がよく使ったらしい。夜
ごと、子どもたちの泣き声が響くので、夜泣
き街道と名付けられたという。
商店街はみなシャッターを閉めていた。ど
こにでもあるような商店街だ。今のアパート
に住んでもう十年になるが、奈良時代の街道
だったなんて気がつかなかった。おれはビニ
ール袋から缶ビールを出して、飲みながら夜
泣き街道を歩いた。
煙草屋のシャッターの前でかすりの着物を
着た男の子が泣いていた。おれは声をかける
気になれなかった。足早に男の子の前を通り
すぎると、風景が一変した。煙草屋は藁葺き
の農家になった。かすりの着物の男の子は農
家の戸の前で号泣していた。男の子の腰には
縄が巻かれていた。そして、縄の片方はおれ
の手に巻かれていた。
「早く連れて行ってくだされ。長引くとよけ
いに悲しいだけですだ」
戸の向こうから涙声が怒鳴った。おれは必
死で走った。縄を離したかったが、蛇のよう
に手にからみついていた。泣き叫ぶ男の子を
ひきずって、おれは夜泣き街道を走った。そ
こはもう商店街ではなかった。走っても走っ
ても山道だった。山の端から日が昇ってくる
のが見えた。
朝になって、おれは自分のアパートの前に
立っていた。手にぼろぼろになった縄がから
みついていた。
〔発表:平成15年(2003)6月関西座会/初出:「短説」2003年9月号/再録:「短説」2004年5月号〈年鑑特集号〉*2003年の代表作「地」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.7.26〕
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2006年5月10日 (水)
父
川上 進也
「太郎、そこに居るんでしょ。もう出てきな
さい。父さんには、謝っておいたから……」
薪小屋の外から母の声がした。
太郎は、もう三十分以上も隠れていた。
「大丈夫、父さんも『判った』って。早く、
家に入りなさい。父さんはいま出掛けたけど、
夜に戻ったら、きちんと謝るんだよ」
太郎は薪小屋から、そっと顔を出した。
五年生の二学期が始まったばかりの日曜日。
太郎は母に言われて二年生の二郎の宿題を見
てやっていた。弟はすぐ勉強に飽きた。むか
ついた太郎が叱ると、大声で泣き出した。
「何をしてる! なぜ、弟を泣かしたっ」
突然、襖が開いて、父が顔を出した。
父は八月の終戦で復員したばかりで、十月
からの復職に備えて家に静養していた。
太郎には、軍隊帰りの父がとても恐かった。
今にも父の鉄拳が飛んできそうな気がして、
裸足のまま夢中で邸の裏へ逃げ出したのだ。
部屋へ戻った太郎を見て、二郎が言った。
「兄ちゃん、さっきはゴメン。宿題の残りは
全部終わったよ。あとで見てね」
そして、もう一度言った。
「本当にゴメン。これからしっかりやるよ」
その夜、太郎は恐る恐る父の前へ出た。
「お前は総領、弟や妹の面倒を見る立場だ。
それが弟を泣かすとは何事だ」
「すみません」
太郎は小さい声で言った。
「母さんから事情は聞いた。二郎にも、よく
注意をしておいた。だが、兄弟仲よくしろよ。
どんな時でも、兄貴のお前が我慢することだ。
どうだ、分かるな」
「はい、……」
「それに男は逃げるんじゃない、それが男だ」
〔発表:平成16年(2004)8月通信・東葛藤代合同座会/初出:「短説」2004年11月号/再録:「短説」2005年5月号〈年鑑特集号〉/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.5.11〕
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2006年5月 2日 (火)
山釣り
根本 洋江
幸一は、日曜日に釣りに行くことに決めた。
餌はイクラを使おうと思い、母に頼んだ。
中学生になってから、一人で時々山に行く。
父親と一緒に行ったことのある、陣馬の奥の
沢が好きなのだ。だが、幸一は今回は少し場
所を替えてみようと思っていた。
「餌のイクラは、お握りの中に入れたからね。
気をつけて行ってらっしゃい」
そう言う母から、握り飯を貰って出掛けた。
高尾駅で甲府行きに乗り換え、藤野駅から
目的地まで一時間半も歩けばと計算していた。
暫く急な坂道を登ると、恰好の場所に出た。
〈この辺にしようか〉
釣り道具の傍にリュックの中から握り飯を
取り出し、近くの石の上に置いた。
向う側がいいか、とも迷いながら、あっち
こっちと場所を選んだ。そして釣り竿を組み
ながら、餌をつけようとして辺りを見た。
「アッ、無い。どうしたんだ」餌のイクラを
入れた握り飯の包みが無いのだ。
〈ここに置いた筈なのに、なぜだ〉
リュックの中や草叢を何度も探した。
〈もしかして、犬でも……〉幸一は思った。
「お兄ちゃん、何してんの」後ろで声がした。
四、五年生位の少年が立っていた。
〈まさか、こいつが〉
幸一は、その少年に握り飯の話をした。
彼も、一緒に探してくれる、と言う。
「お兄ちゃん、お腹空いたろ、これ上げる」
そう言いながら、彼はお菓子を呉れた。
頬張ると、口の中でイクラの味がした。
「藤野駅に行くんなら、こっちが近道だよ。
途中まで案内するから…」少年が言った。
幸一は彼の後についた。細い道を抜けると、
彼はバイバイをした。幸一も手をあげた。
彼の指には、イクラの粒々がついていた。
〔発表:平成14年(2002)8月通信座会/初出:「短説」2002年12月号/再録:「短説」2003年1月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2006.4.18〕
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2006年4月18日 (火)
飛行機
芦原 修二
「ああ。あれは成田空港へ行くんだね。
「あの鉄塔のあたりから、いつもゆっくり高
度を下げる……。
「いま? いまはコキリコ節に夢中だ。
「連休に皆一斉に田植えをやって、いまは一
面に水が張ってあるな。あと七日もすればあ
の苗の緑も濃くなるだろう。そしてほら、白
鷺の羽がいっそう白くなったと思わないか。
「え、教科書にも載っているって? そう、
コキリコ節を小、中学生がうたうんだね。
「ハレのさんさはデデレコデンとか、長いは
ア袖のカナカイじゃなんて、意味がわからな
くなっていたりしてね。それでいてなんとな
く面白いからみんながうたうんだろうな。
「長いはア袖のカナカイじゃ、もそうだけど、
向かいのオ山に鳴くひよどりは、鳴いてはア
さがり、鳴いてはあがり、なんて妙な語尾の
伸ばし方で。あれを生み字って言うんだ。そ
こがよくて自分もうたうのかな。
「えっ? 夕焼け。ああ。ほんとだね。田ん
ぼの水が赤く染まってきた。
「あれ? あれですか。魚が泳いでいるのか
も。昔は田植えの終わった田んぼによく魚が
あがってきた……。
「流れていると、鮒や鯉は卵をうみつけるた
め本能的に水をさかのぼるんだ。
「やっぱ、これは風が走っているだけかも知
れんな。魚がみえないもの。
「ね、ちょっと、まばたきしてみないか。
「ほら。飛行機は成田空港におりようとした
まンま。田んぼの水面を風が波だて、それを
夕日が赤く染める……。どう? この時間が
永遠につづくような気持ちにならない。
「そう。川端康成はこんな日に自殺した。こ
んな日だったよ。……あの夕方、私はテレビ
のニュースで知ったんだ。
〔発表:平成17年(2005)5月東京・ML座会/初出:「短説」2005年8月号/WEB版初公開〕
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2006年3月20日 (月)
道 程
吉田 龍星
声が響いている。
〈飛ぶ方が楽だよ。ずっと広い世界が見える〉
昨日の汚れ物、今朝のゴミ。そして今日の
午後以降使うかもしれない品々をごちゃ混ぜ
に背負って、男は歩いている。
〈ゴミは捨てなよ。何の値打ちもない〉
男もそう思っていた。が、ゴミも背負った
ままだ。お陰で荷物は増え続け背中に膨らん
で掻くことさえ出来ない。傘も出せないから
雨の日には躰を荷物の下に引っ込めている。
〈時間が無い。背中を出して羽を開くんだ〉
「荷物の上からは無理かな?」
〈重すぎる。脚も曲りかけているじゃないか〉
男の膝は伸びない。たまに疼くこともある。
〈取りあえず、降ろしてみたら? 羽が開い
て躰が浮いたら必要なだけ荷物を抱えれば…〉
男は荷物を背中から外した。いきなり落ち
ないか心配だったが、荷物はその場にゆっく
り降りた。背中が軽くなった。風を感じる。
〈ほら、羽が動いて上昇風を作っているよ〉
「ホントだ。しまいっぱなしだったのに…」
男は背伸びをしながら欠伸を一つした。気
持ちいい。と思った瞬間、踵が地面から離れ
そうになった。心臓が音を立てる。男は荷物
に手をかけた。踵が沈む。衝撃で荷物の口が
開いた。まぜこぜになったモノ…。
「どれが必要でどれが必要でないのか」
男は考え込んでしまった。その上躰が浮き
上がると、どうにも落ち着かない。そこでま
た荷物を背負うと大きく息を吸った。
〈薪が燃える匂いがする。日暮れが近いのか〉
「汚い! 何で玄関に亀がいるのよ」
見上げると女が睨んでいる。男の妻だ。
(そうか、俺は汚いか。汚い亀なのか…)
男は目を閉じ荷物の下に躰を引っ込めた。
〔発表:平成14年(2002)9月藤代日曜座会/初出:「短説」2002年9月号/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉*2002年の代表作「天」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2003.12.4〕
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2006年3月 6日 (月)
石の布団
米岡 元子
「ああ、石の布団を被って寝たいよ」
男が呟いた。
男の言葉が、掃除をしている女の右耳から
入り左の内耳で止まった。男は五十代半ば。
スーツを着ている。一回りも年下に見えた。
駅に続く高架道の鉄製の柵にもたれて、下を
通る車や人混みを目で追っている。
「ごめんよ」
ホーキで、男の靴の前を掃く。
男は無言で場所を移動した。
「あ、カバン。忘れてるよ」
男が頷くと、柵に立てかけていたカバンを
小脇に抱えた。見るからに重そうなカバンだ。
「最近の若者はマナーが悪いんだ。掃除して
もすぐ汚すんだから」
「ここ、毎日掃除しているのですか?」
「そう。生活がかかっているからさぁ。なに
せこの歳になると、なかなか雇ってもらえな
いんだ。仕事があるだけ幸せってものよ」
「ご苦労様ですね」
男は揃えた指先で口の周りを撫でると、駅
前のビル群に視線を泳がせた。
「あ、そう言えば、さっき石がなんとかって
聞こえたけど」
「聞こえましたか」
男は前を向いたまま溜息をついた。
「ずいぶん疲れてるみたいだね、お宅」
「ああ、寝る間もないっていうのかな。景気
は回復したってお偉いさんは言うけど、まだ
まだ厳しいですからね」
「よっぽどなんだ、石の布団を被って寝たい
だなんてさ」
「ええ、疲れが取れなくてね。なにもかにも
嫌に。あ、いや。なんか、話していたら元気
が出てきました」
男はカバンを持ち直して歩き出した。
〔発表:平成17年(2005)11月ML座会/初出:「玉手箱〜雑記帳〜」2005年11月10日〕
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2006年2月19日 (日)
恐竜のタマゴ
小森 千穂
案の定、夫は何も言わなかった。
お帰り……と振向いただけで、また黙々と
テレビに見入っている。夫の見るものは、殆
んどニュースかドキュメンタリーだ。
――十時頃迄には帰ります――比佐子の書い
たメモが食卓の上に白々と張りついたままだ
った。どこ行って来たの? くらい聞いてく
れたってよさそうなものなのに……いつもの
事なので腹も立たない。今日は送別会がある
からタ食はいらない、というので久し振りに
姉の家へ出掛けたのだった。いつもの夫への
愚痴なので、あなたは賛沢なのよ、と姉は本
気で聞いてはくれず、比佐子の心は満たされ
ず仕舞いだった。――人生あと三十年もある
んだもの、どうにかしなきゃ――姉との話の
続きのように、比佐子は心の中でそう咳いた。
子供達がいた頃は家の中に賑やかな会話が
あった。しかし今考えてみると、喋っていた
のは自分と子供だけだったのだ。子供達が巣
立ち、夫と二人残されてみて、初めて比佐子
は夫との間に会話がない事に気がついた。殆
んど比佐子からの一方通行なのである。
学生時代、比佐子は卓球の選手だった。ネ
ットの向うに送った球が、即座に打ち返され
てくる小気味良さが彼女は好きだった。しか
しラリーが続かなければ試合は終了してしま
う。人との会話も同じだと思った。比佐子の
目には球を受けとめようとしない夫の背後に
白いピンポン球が山の様に溜っているのが見
えた。それはあたかも恐竜のタマゴの群れの
ようだった。タマゴはやがては艀化して夫を
食いちぎるかも知れなかった。
「恐竜に食べられちゃっても知らないから」
思わず声が出た。
「恐竜がどうしたって?」
子供のような目で夫は振返った。
〔発表:平成14年(2002)9月藤代木曜座会/初出:「短説」2002年12月号/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉*2002年の代表作「我」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2003.12.19〕
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2006年2月 1日 (水)
視 線
星子 雄一郎
人は多ければ多いほどいい。擦れ違う時に
肩が触れそうなくらいがいい。場所は、休日
前の地下商店街と決めている。
下着を履き替え、ピンクのキャミソールと
チェックのマイクロミニに着替えた私は、洗
面所で化粧し、カツラを被って紳土用トイレ
から出る。喧噪の中、すぐに驚きと奇異な視
線、潮笑の風に包まれる。
「なにあれ、あの親父、変態じゃん」
いつものように遠くの一点を見つめて、地
下街を歩き始める、ボンヤリしながらも広い
視野の中、多くの人間が私に注目しているの
がわかる。気分は一気に高揚するが、努めて
冷ややかな表情をつくり、やや緩慢なリズム
で歩く。私の踏み出す一歩で、他人が私から
離れようと大きく進路を変えていく、この喜
び。他人の人生を変えるほどの影響力。
「あのオッサンすげえ、たってるよ」
勃起したものはスカートの上からでもよく
見ればわかる。…若いカップルやOLたち、
嘲笑する者。今さえ楽しければいいか、お前
らの若さなど武器でさえない。私を一瞥して
俯き歩く会社員風の男。私も少し前までお前
達のようだった。今はこの瞬問の為だけに生
きている。人々は私を見て笑っているが、私
はお前らの平凡な人生を嘲笑う。
……感じる、全く異質な視線を感じる。雑
踏の何処からか私に向けられる視線。雑貨屋
の中の小さな影、6〜7歳の女の子が怒りを
込めた、諭すような目で私を見ている。こみ
上げる恐怖から視線を外そうと抵抗する前に
彼女の眼は完全に私を捉え、その眼に吸い込
まれるような感覚と共に汗が噴出し、全身の
力が抜けていく。
あの娘はまだ私を見続けている。
〔発表:平成16(2004)年7月関西座会/初出:2004年10月号「短説」/再録:平成17年5月号「短説」〈年鑑特集号〉2004年の代表作「天」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.12.10〕
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2006年1月21日 (土)
墓 誌
太秦 映子
▲春岳道観居士 行年六十七歳
祖父だ。婿に来た。舅は妻の兄だ。十二歳
違いの親子となった。病弱だった。痩せてい
た。眉に皺を寄せていた。胃癌で死んだ。こ
の世で十一年、一緒だった。
▲吉祥妙顕大郷 行年七十九歳
曾祖母に当たる。嫁して子がなかった。小
柄だった。金を貯めては田畑を買った。倹約
を家族に強いた。高血圧だった。泣き叫びな
がら死んだ。この世で十二年、一緒だった。
▲夏雲妙潤大郷 行年七十二歳
祖母だ。色白で大柄だった。婿取りで六人
の子を産んだ。十四歳違いの姑は兄嫁に当た
る。肩で息をして、溜息ばかりついていた。
長男に遠慮していた。一日寝付いて死んだ。
この世で十九年、一緒だった。
▲寶寿楽道居士 行年八十八歳
曾祖父に当たる。子がなかった。背が高い
美男子だった。御詠歌や万作踊りがうまかっ
た。養子にした妹が逝くと半年後に天寿を全
うした。この世で二十年、一緒だった。
▲秀岳道善居土 行年五十九歳
父だ。家長としての任を早くから負わされ
た。金と仕事と葬式と親戚付き合いに追われ
た。アル中になった。田んぼで倒れて十日で
死んだ。この世で二十八年、一緒だった。
▲啓岳浄征居士 行年六十四歳
長兄だ。母を残して逝った。勤めと農業の
二足のわらじだった。手先が器用だった。健
康おたくだったのに、大腸癌は手遅れだった。
五十六年、この世で一緒だった。
墓誌は半分程刻まれ、石半分余白がある。
共同基地の片隅に無縁仏となった石が集め
られている。石は欠けている。墓誌は崩れて
読めなくなってしまっている。
〔発表:平成16(2004)年3月上尾座会/ 初出:2004年6月号「短説」/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.12.10〕
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2006年1月12日 (木)
サンルーム
藤森 深紅
「ふとん干す手問がはぶけるだろ」
夫の直輝がサンルームで寝起きするように
なって一年近くになる。
ふとんばかりかパソコンまで持ち込んで、
一人の時問を楽しんでいるようだ。
(雨の日でも洗濯物干せるわね)
早紀がこの家に決めたのはサンルームがあ
るからだった。
「おい、来てみろよ。星がすごいぞ」
ある夜、直輝が早紀を呼んだ。
「ビール持ってきて星を眺めながら一杯やる
か」
頭上には確かに降るような星空が広がって
いた。
「すてきね。こんな楽しみ方も出来るんだ」
「ついでにふとん持ってくる?」
直輝が声をひそめる。
「こんな星の下でやるのもいいんじゃない?」
激しい雷雨の日でも直輝は早紀を誘った。
「こんな日ってかえって刺激あるよな」
ガラス窓をたたきつける雨音を聞きながら
この家を選んで良かったと思った。
あんな日々はどこに行ったのだろう。
子供が産まれてからというもの、子供の世
話に追われてつい夫の存在が希薄になってい
たかもしれない。
(だからといって……)
直輝の留守中、サンルームに入りあたりを
見渡す。
最近ではこの部屋で星を眺めることもない。
洗濯物も二階のベランダに干す。
プロバイダーからの請求書がふとんの回り
に散らばっている。
〔発表:平成15(2003)年6月関西座会/初出:「短説」2003年9月号/再録:「短説」2004年5月号〈年鑑特集号〉*2003年の代表作「天」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.6.19〕
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2005年12月22日 (木)
手打ちそば
木村 郁男
圭介は彼岸二日目に従兄弟の家へ行った。
野上家の墓は坂道をあがった小高い所にあ
る。夕方になって叔父とビールを飲みはじめ
た。叔母が刺身や天ぷらなど酒の肴を運んで
きた。
外で遊んでいた猫が圭介のそばへやってき
て、めずらしそうに顔を覗き込んだ。今夜は
十五夜で廊下にススキと団子が飾ってあった。
「風情があっていいですね」
圭介は叔父に向かって言った。叔父は猫を
圭介のそばから追いやった。
猫は廊下へいって、ススキにじゃれている。
そのうち花瓶を倒し、びっくりしていた。叔
母がきて、花瓶を直した。
「トカゲや蛇が好きで田んぼからとってきて、
食べるのではなく、じゃれているの」
猫は叔母に怒られても十五夜の飾りが気に
なるのか廊下をウロウロしていた。
圭介は子供の頃、叔母の家へ来ると楽しみ
がいくつもあった。同じ年だった従兄弟と、
裏の田んぼで遊んだ。小川が流れていて、シ
ジミとりをやった。原っぱではトンボを追い
かけた。昼になると叔母が呼びにきた。昼飯
は自家製の手打ちそばだった。太くて短く見
た目は悪いが味はよかった。
ある時、母と叔母が言い争いをした。母は
手土産に持って行った菓子折りの袋をさげ、
圭介の手をつかむとバスの停留所へ走った。
バスが発車し、後ろを振り返ると従兄弟が
ススキの穂をもって立っていた。
その時も、手打ちそばが出されていたが母
も圭介も食べずに帰った。圭介は今年四十に
なった。バイクの事故で二十歳で亡くなった
従兄弟の倍の人生を重ねてきた。
「ゆっくりしていって、おそば作るから」
叔母がもう一本ビールを持ってきた。
〔発表:平成15(2003)年10月東葛座会/初出:2004年1月号「短説」/再録:2004年3月号「短説」/フランス語訳:2004年9月号「短説」/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.11.15〕
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2005年11月26日 (土)
戒 め
新井 幸美
「A高校合格で、先生もびっくりしていたで
しょう? 何人受験したの?」
「男四人、女一人」
「そのうち何人受かったの? 落ちた人はい
なかったの?」
「一人落ちたよ」
「誰なのその子」
「……」
「四郎のクラスの子? お友達なの?」
「……」
母、美樹の立て続けの質問に四郎の頭が次
第に下がり、口を固く閉ざしている。
朝食のパンを持った手が動かなくなった。
頭を上げた。目が鋭くなっている。
「………」
「え、なに?」
「人には聞かれたくないことがあるって言う
ことが分からないの?」
「何を怒ってるの?」
「俺を育てたお母ちゃんのせいだ」
美樹は首を傾げた。
「学校で友達にいろいろ質問して嫌がられる
事があるんだよ」
「どうしてお母ちやんのせいだというの?
どうして相手があんたの質問が嫌だと感じる
わけ?」
「相手の表情を見れば分かるだろ。お母ちゃ
んはいつも俺がいやがる質問をするだろ。そ
れが遺伝したんだよ」
四郎の言葉がふるえている。
「ごめん、言いたくない時は言わなくていい
よ」
美樹はそっと台所に移動した。
〔発表:平成14(2002)年3月藤代日曜座会/初出:「短説」2002年4月号(*フランス語訳併載)/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉*2002年の代表作「人」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2003.12.19〕
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2005年11月20日 (日)
丸い男
芦原 修二
「目をつむって、手を出しておくれ」
と、笑いながら啓那が言った。啓那は両手
を後ろにまわし、何かをかくし持っている。
この少年がたくらんでいるいたずらはなん
だろうか。いちおうは用心しながら、山次郎
は目をつぶった。
自分に渡して驚かそうとしているそのもの
を、いま現に啓那が手に持っているのだ。そ
れを山次郎が手にしてたとえ驚くことがあっ
たとしても、けっして危険なものではないの
だろう。そう判断し、山次郎は、目をつむっ
たまま右手を前にさし出した。
その手に啓那が丸いものを載せる。ずっし
りと重い。山次郎はもっと軽いものを無意識
に予測していたようだ。あやうく落としそう
になって、両手で支えた。
目をあけて見ると、それは白い球体の大理
石像であった。
日本の力士を思わせるやわらかく太った体
を丸め男が団子状になっている。全裸だが両
手で頭を抱えこんでいる。そのため頭頂や首
筋そして背中は見えるが顔は見えない。
「ほら、こうやって見てごらんよ」
啓那が、手をのばし、球状の彫刻を取り戻
す。そして肘と脇腹と太股の問にできたかす
かなすきまから、中を覗き込んだ。
「何が見えるのかね」
山次郎が尋ねた。啓那はただ笑っている。
そこで山次郎は手を伸ばし、啓那から丸い男
の像を横取りした。いわれたように覗くと大
理石を透して入り込んでくる光の中で、男は
いまにも男根をくわえようとしていた。いっ
たいどこから彫刻刀を入れて彫り上げたのか。
「ね、かわいいでしょう」
啓那が手を伸ばし、ふたたびその男の像を
山次郎から取り返そうとした。
〔発表:平成15(2003)年5月東京(同人合同)座会/初出:「短説」2003年8月号/再録:「短説」2004年5月号〈年鑑特集号〉*2003年の代表作「我」位選出作品/WEB版初公開〕
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2005年11月 5日 (土)
蓮沼海岸
西山 正義
また幽霊の話である。大学二年の夏、サー
クルの合宿で、外房の蓮沼海岸に行った。
僕らが作ったサークルである。大学側には、
歴史・民俗・文化研究会ということで登録し
ていたが、自分たちでは「自分の中の社会を
見つめる会」と名乗っていた。政治・宗教的
な色彩はない。一口で説明するのは難しいが、
主旨としては、従来の組織のあり方を否定し、
新たな個対個のコミュニケーションのあり方
を模索するというものであった。
時はジョージ・オーエルの『1984』年。
構造主義とニュー・アカデミズムが一世を風
靡していた頃である。ポスト・モダンの影響
は確かに受けていたが、もちろん、それと幽
霊の話とは関係ないし、僕らは青白い顔をし
て海にも入らなかったということではない。
朝のうち一回目の討論会をし、日中はたっ
ぷり泳いだ。関百合子の均整のとれたプロポ
ーションと、奥村靖子が相当なグラマーなの
には目を見張るものがあったが、男同士の時
にもそういう話題に興ずる連中ではなかった。
三日目、夕焼けを背に海から上がってきた。
丈の高い葦に囲まれた小径を抜け、宿の前の
道に出る。横切れば民宿の前庭。僕は、中学
からの親友・草野と最後尾にいた。埃っぽい
その道は、海岸線らしく、その辺りで大きく
蛇行し、道幅も狭くなっている。
まさに黄昏だった。宿の前庭西側に、傾き
かけた木製の電柱があった。見上げたのは草
野と殆ど同時だった。ちょうど電線を繋ぐガ
イシがある辺り。ほの白く漂うものがあった。
幽霊! 草野と顔を見合わせて頷きあった。
その夜、宿の前で自動車事故があった。サ
ーファー同士の正面衝突。僕は民宿の電話で
警察に連絡したりしていたが、草野が指差し
た。事故現場は、例の電柱の真下だった。
〔発表:平成17(2005)年1月ML座会(原題「蓮沼」)/初出:2005年4月号「短説」/再録:2005年7月号「月刊TOWNNET」通巻368号/再録:「西向の山」upload:2005.8.25〕
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2005年11月 1日 (火)
川ぴたり
横山 とよ子
「みんな、お餅を持って水神様に行こう」
三年生の正夫君が子供達を集めた。
今日は旧暦の十二月一日。川ぴたりの日だ。
私は家に戻り、お勝手の隅にある四斗樽の
中に首を突っ込んだ。すぐり藁の中から餅を
取り出し半纏の袂の中に何個も入れると、
「一個でいい。幾つも持って行くんじゃない」
母の声を背中に、家をとび出した。
勤行川のつり橋に着くと、先ず正夫君が、
「カッパ君、カッパ君、俺のケツノコより旨
い餅を食べてくれ」
唱えながら、川に餅を投げ入れる。司君と
私も、袂の餅を次々に投げながら祈った。
「これで今年の夏も、自由に水泳が出来るな」
泳ぎの大好きな司君が、私を見て微笑んだ。
その晩、父は私に言い聞かせた。
「カッパは水の深い所や、淀んだ沼に住んで
いてな、子供のケツノコ(内臓)が大好物で
肛門から引き抜いて食べるんだ。絶対一人で
は、勤行川に行くなよ」
凧揚げや独楽廻し、そして羽根つき。竹馬
に乗る子供もいて、広場に歓声が上がる。
今年もまた、川ぴたりの日がやって来た。
私達は餅を袂に入れ、勤行川に向かった。
吊り橋に着くと、近所のお百姓が餅を何個
も投げ入れてお祈りしていた。
「今年も、馬に怪我がありませんように…。
農家は水が命、水がなければ作物は育たない。
水の中で仕事をする者をお守り下さい」
水神様は大人のお願い事も聞いてくれるの
かなと思いながら、私は、餅を投げ入れた。
「カッパさん、私のケツノコよりおいしいお
餅をどうぞ。泳いでいても食べないで下さい」
私の隣に、司君はいなかった。去年の夏、
この川で溺れて、死んでしまった。
〔発表:平成17(2005)年1月藤代日曜座会/初出:「短説」2005年4月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.8.25〕
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2005年10月10日 (月)
鏡
宮 禮子
「この鏡、自惚れ鏡でね、色白に見えるんだ
よ」
鏡台の前で髪を結いながら母はいった。母
は時々そういう。自分の色黒を気にしている
のか――また、母は「和子、この鏡はね、い
い鏡なんだよ」と、鏡に指を押しあてた。
「指が少し離れてうつるだろう。これは鏡が
厚く上等なんだよ」
この鏡台は母が自分で買ったのか、母親が
用意してくれたのか知らないが、五人兄弟の
末っ子だった母が結婚する前に父親は亡くな
っていた。その父親は腕のいい建具職人だっ
たそうだから、鏡の見分け方も教えられたの
だろう。
小学生だった和子には、鏡にうつる自分が
ほんとうでないことを知りながら、それでも
うれしそうな母が不思議だった。
新しい家の洗面所には大きな鏡がはめ込ま
れていた。鏡の両脇は物入れになっていて、
扉も鏡だった。営業マンは「三面鏡になりま
すよ」といったが、使いにくかった。
和子が結婚する時、母が三面鏡を買ってく
れた。その三面鏡は幾度かの引越や、こども
が物をぶつけて鏡が割れてしまったので処分
した。目常の身繕いは洗面所で充分だ。
唯、和服を着る時、姿見が欲しかった。
家具屋で姿見を見ていると、店員がそばに
来ていった。
「この品はデパートやブティックにも納めら
れているんです」
背丈程の高さでキャスターがついている。
「全身がすっきり見えるんです」
「……」
和子は角度をかえるふりをして、鏡に指を
あててみた。
〔発表:平成16(2004)年4月上尾座会/初出:「短説」2004年7月号/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.8.25〕
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2005年9月30日 (金)
流 山
西山 正義
昭和維新を夢見て、壮士気取りの若者が四
人。リーダー格の田端は眼光鋭く、口髭を蓄
え、戦時中の国民服を模した服を着ていた。
平川は羽織袴に朴歯の高下駄。麻生はいわゆ
る戦闘服。間宮はごく普通の学生服だったが、
蝋で固めた学帽を目深に被っていた。
間宮の運転するターボ・チャージャー付の
最新型スカイラインに乗っていても、とても
みな一九八〇年代の学生には見えない。
流山に来ていた。間宮にとっては初めての
土地である。地元出身千葉商大国防部の平川
のつてで、ある民族派の老人と会っていた。
和志丸剛毅と名乗るいかにも老翁然とした
その老人は、夥しい古文書に囲まれて鎮座し
ていた。若衆の訪問に老人は気を吐いた。本
職は郷土史家だというが、間宮は胡散臭いと
思った。天下国家を論じれば、田端も黙って
はいない。いつもの大言壮語がはじまる。
「そもそもヤルタ・ポツダム体制が……」
しかしいつの間にか、なぜか幽霊の話にな
っていた。もう夜も更けていた。
「では、これから幽霊を見に行こう」という
ことになり、間宮の車で出掛けた。田圃の向
こうに小高い丘があった。農道脇に駐車する。
稲穂の匂いが薫った。鬱蒼とした木立の向
こう、それは居た! まるで待っていたかの
ように。甲冑姿の黒い影。見たのは間宮だけ
ではなかった。からだが硬直し、動けなくな
った。麻生が引き寄せられるように、ふらふ
ら前を行く。間宮は危うく引き止めた。こん
なにはっきり見たのは初めてだと、和志丸剛
毅も声を震わせた。――あれは何だったのか。
確かに見た。幻影とは思えない。そこは戦国
時代の古戦場跡らしいが、武州多摩郡に生ま
れ育った間宮には、もっと近しい、もっと生
々しい、そして血腥いもののように感じた。
〔発表:平成17(2005)年1月ML座会/初出:2005年5月号「短説」〈年鑑特集号〉/再録:「西向の山」upload:2005.8.25〕
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2005年6月26日 (日)
ホットケーキ
古川 身江子
「白い犬が来ました」と電話があった。
僕と母さんは保健所へ行った。
おじさんが子犬を抱いてきた。奥の部屋で
他の犬が吠えている。
「可愛がってもらうんだよ」おじさんが子犬
を僕に渡した。僕は「シロ」と呼んでみた。
シロは僕の鼻を舐めた。
父さんのホットケーキは変だ。丸くないし
焦げている。でも文句は言えない。母さんが
入院してるから。僕は父さんと病院へ行った。
母さんは暗い部屋で眠っていた。水道の蛇
口に綿が詰めてあって、雫が落ちていた。
「どうして、こんなのついてるの?」
「壊れてるんだろう…」
「父さんに買ってもらったんだよ」
僕が飛び出す絵本を広げて見せても、母さ
んは起きなかった。
父さんとお風呂に入るのは嫌だ。ごしごし
洗うから痛いし、髪を洗うときシャンプーハ
ットを被ってないのに、いきなりお湯をかけ
る。目が痛いけど我慢する。
母さんがいないから、なかなか眠れない。
「あと何回寝たら母さん帰ってくるの?」
父さんは、もういびきをかいている。
朝なのに、シロが起きない。
「ドライブに行こう」父さんが言った。
いつもなら僕とシロが後ろに座るのに、父
さんはシロをトランクに入れた。
レストランで僕はホットケーキを食べた。
きれいで柔らかくて美味しかった。少し残し
て紙に包んだ。シロにあげようとトランクを
開けた。鼻にくっつけても、まだ眠っている。
1、2、3と弾みをつけて父さんがシロを
川に投げた。シロは眠ったまま流れて行った。
〔発表:平成13(2001)年2月通信座会/初出:「短説」2001年3月号/再録:「短説」2002年5月号〈年鑑特集号〉
*2001年の代表作「天」位選出作品/再録:「風都市」10号2003年11月/〈短説の会〉公式サイトupload:2003.6.14-2004.2.18〕
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2005年6月19日 (日)
鯉を釣る少年
道野 重信
小学校を卒業して引っ越した。今度の家か
らは日本で一番大きな前方後円墳が見えた。
地元の人たちは御陵と呼んでいた。御陵の周
囲には遊歩道があった。一回りするのに一時
間と少しかかった。僕はこの場所が気に入っ
た。
ある日、フェンスをのりこえて御陵の堀で
釣りをしている男の子がいた。僕と同い年く
らいに見えた。煙草をくわえていた。近所だ
から同じ中学校になるかもしれなかった。僕
は早足でとおりすぎようとした。そのときに、
真鯉が釣れた。その真鯉は一メートルを超え
ていた。男の子が僕の方を見た。きっと僕が
声をあげたんだろうと思う。しばらくフェン
ス越しに僕を見ていた。
「やるよ」と、その子は言った。真鯉を押し
こんだアルミのバケツをフェンスを昇って僕
に出した。「ほら」と、少しいらついた声で
言った。僕はバケツを受け取った。
バケツは重かった。真鯉は無理に身体を曲
げられていた。僕はふらつきながら遊歩道を
歩いた。近くの女子大の人たちが通り過ぎな
がら僕を見た。真鯉が暴れた。バケツが揺れ
て、遊歩道に真鯉が落ちた。尾で地面を叩き
つけて、何度もはねあがった。僕は真鯉を抱
きかかえて走った。フェンスの低くなってい
るところから、堀に放そうと思った。いくら
走っても、フェンスは高いままだった。僕は
真鯉を抱えたままフェンスを昇ろうとして尻
餅をついた。僕は真鯉をフェンスの向こうに
放り投げた。真鯉は空中で身をよじらせて、
水の中に落ちた。大きな水しぶきがあがった。
さっきの男の子が僕の方を見て爆笑してい
た。どうやって入ったのか、五十メートルは
ある堀を渡って、御陵の中にいた。男の子は
いつまでも笑っていた。
〔発表:平成14(2002)年6月関西座会/初出:「短説」2002年9月号/再録:「短説」2003年5月号〈年鑑特集号〉*2002年の代表作「地」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload2003.9.10〕
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2005年6月10日 (金)
山吹の花
芦原 修二
この花をどうみるだろうか。
そう思いながら壷いっぱいに活けた花をも
う一度まわりから見直した。
先刻、桜桃の枝下を通って切ってきた満開
の山吹である。二、三百本ほどの枝を腕に抱
えて戻りながらふと見上げたら、桜桃はもう
小指の先ほどに緑の実をふくらませていた。
その実の先では、若い葉が広がり、これも勢
いよく数をふやしている。
山吹の株は、常陸の国府跡からも見えた龍
神山で抜いてきた。むかし、この国府につと
めていた役人達もあの山に登ったに違いない。
そう思ったら急に登りたくなったのだ。
近くで遊んでいた少年に道をきくと、あの
山はいま採石のために、真ん中が割り削られ
て二つになっている。その崖からの眺めが怖
いようで面白いという。そして「案内しても
いい」と、三人の中学生が同行してくれた。
その帰りに抜いてきた。三本ほど抜いて、
その内の二本が活着し、いまは大きな株にな
った。満開の枝を二百本は切っただろう。そ
れでも、枝を切ったと判らない程、いまは大
きな株になった。その山吹を古い壷にほとん
どそのまま投げ入れた。いや、そう見えるよ
うに活けた。
それを洋問の真ん中に置いた。
庭には古くから八重咲きの山吹があったが、
あの時、龍神山で一重の山吹を見てからとい
うもの、八重咲きの花を忘れている。
一重五弁の黄色い花が満開だ。
水壷のまわりに落ちた小枝や花びらもひろ
って、すべてが整った。まだ少しの時問があ
る。そう思って新聞を広げ、記事を数行読み
はじめた時、玄関に人の声があった。
〔発表:平成16(2004)年4月東京・東葛座会/初出:「短説」2004年7月号/再録:「短説」2005年5月号〈年鑑特集号〉*2004年の代表作「天」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2005.6.10〕
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2005年5月12日 (木)
立 場
川嶋 杏子
歯の治療でも受けているように見えた。
今の床屋は、あんなふうにすっかり椅子に
寝かせて客の髭を剃ったりするのか。
寝せられている客の頭部が道路側へ向いて
いる。真中はすっかり禿げているが、周りの
髪は黒々としている。
白衣を着た若い女性が、その客へ笑いかけ
ている。ポケットから何か取り出そうとした
時バスが動き出した。
何を取り出そうとしたのか。かみそりか、
はさみか、くしか。床屋ならそのようなもの
だろう。
帰りのバスは反対側に座った。停留所のそ
ばの理髪店の内部が、また見えた。
先ほどの客が椅子のそばに立っている。さ
っきは白い線の入った黒い上衣しか見えなか
ったが、ズボンも同じ黒で横に白い線が入っ
ている。若く見えるが老人かもしれない。
椅子に寝ているのは白衣を着た女性だ。さ
っきと同じピンクのゴムで結んだ茶髪の頭が
こっちへ向いている。
老人がポケットから何かを取り出そうとし
た時、バスが動き出した。
彼が取り出すのは何だろう。立場が逆にな
ったのだから、かみそりやはさみやくしでは
ないかもしれない。第一、あれは理髪店では
ないかもしれない。
そう考えているうちに、自分がどこへ行っ
て来たのか、どこへ帰っていくのか分からな
くなって来た。
介護されていたようでもあるし、誰かを介
護していたようにも思える。バスを降りた時、
何か入っているように思えてポケットに手を
入れた。
出て来るものによって、自分の立場が分か
るかもしれない。
〔発表:2001年1月上尾座会/初出:「短説」2001年3月号/
再録:「短説」2002年5月号〈年鑑特集号〉*2001年の代表作「人」位選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.3.20〕
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2005年5月 8日 (日)
順 番
吉田 龍星
「受付待ちだね。あっちへ詰めて座って」
守衛は男に近づいて来て言った。指差され
た方を見ると、皆、前列から順序よく並んで
座っている。椅子は一列あたり二十四。男は
二列目の二番だった。薄暗いホールの中で天
井から吊された明かりが二つ。ダクトから風
が漏れて来るのか、微妙に揺れている。
「五番か六番だと思ったのにな…」
男は呟きながら前の列を見た。斜め後ろか
らそれぞれ顔が見える。腕組みをしながら暗
い天を見つめている痩せた中年男が一番だ。
二番目は文庫本に見入る女。三番目は目を瞑
って小さくなっている老女だ。どれぐらい前
からあそこに座っているのだろう。
「三十分、それとも一時間?」
男は暇潰しに四番目以降も見ていった。雑
誌や新聞に目を通す人。何かの入門書を見な
がらメモ帳にペンで書き込む人。恐らく手を
暖めているのだろう、紙コップの飲み物を両
手で大事そうに包む人。そして口を閉じたま
ま手を合わせ何かを唱える人。不思議な事に、
隣同士で話を始める様子は全く見られない。
知り合いでなくとも、緊張を和らげようとし
て周りに話しかけ人は、いるものであるが。
「競争相手だから? 自己開示が嫌なのか」
目指している場所は何処だろうか。男は思
った。自分の他に何人いるだろう。三人、或
いは四人。ひょっとしたら三分の一以上かも
知れない。隣で新聞を小さくたたみながら読
んでいる中年男が敵に思えて来た。
「こいつの方が俺より先に行くのか…」
男は自分の顔が強張って行くのを感じ、コ
ートの衿を立てた。静かに音楽が鳴る。アナ
ウンスが流れた。
「ただいまから受付を開始いたします」
みんな一斉に、立ち上がった。
〔発表・2005年1月藤代日曜座会/初出・「短説」2005年4月号/短説[tansetsu]ブログupload2005.5.8〕
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2005年4月20日 (水)
生け花
喜多村 蔦枝
数室は、木を切るハサミの音がするだけで
ある。桃の節句が近づいている。今日の花材
は白桃と緋桃に菜の花、アイリスである。
「男雛と女雛をイメージしてください。女が
強い時代ですから、女雛の方に男雛が幾分寄
り添うように生けてもおもしろいですね」
先生は冗談まじりにそう言った。
枝をたわめる。水盤の中の世界が広がる。
梅は武家の娘のように、でも桃は町娘のよう
に生けるという。そうは言ってもなあ、まま
ならないと思いながら良子はハサミを入れる。
元気な町娘だ。緋色の幹は太いし枝も多い。
それに比べ白桃は細く貧弱な蕾の数。どうや
らまとまった。これでいい。我が理想とする
男女同権だ。でもちょっとノミの夫婦かな。
「お願いします」
先生はじっと眺める。バランスは取れてい
ますが、器の中央で寄り添っているから面白
みがないという。崩してみましょうと手直し
をしている。
「どうかしら」
「直していただいたのは、なんだか……どう
も……逃げる男に追う女のイメージがして」
教室内がどっと笑った。真剣に生けている
のか、それとも私の言葉を聞きながらのんび
り生けているのかと良子は思った。
「あらそう、じゃあ受け止める男にしましょ」
先生はハサミを入れ、白い枝を一本加えた。
その根元に菜の花、そして側にアイリスを真
っすぐ立たせた。それが男性のシンボルか、
男前の白桃。なるほど。
自宅で良子は教わった通りに生け直した。
玄関である。真っ正面。扉を開ければ一番最
初に否応無く目に入る位置だ。来客が言った。
「まあ、花で雛を表すのもようございますね。
頼る奥方、戸惑う殿方って感じですわね」
〔発表:2001年4月東京座会/初出:「短説」2001年7月号/
再録:「短説」2002年5月号〈年鑑特集号〉*2001年の代表作選出作品/〈短説の会〉公式サイトupload:2004.3.20〕
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2005年1月27日 (木)
慈 母
向山 葉子
「ああ、もうすぐ黄昏がくる。母は仕事に行
くことにしよう。戸締りをして、しっかり留
守番をしていておくれ」
母は、水鏡に顔を映して化粧の手を休めず
に言う。
「何時ごろお帰りなの」
姉は今年十二になる。
「遅いと眠くなるよ」
弟は九つ。「その時は先にお休みよ」と二
人の頬をなでて、母は家を出る。
森の向こう、太陽が沈むまでにはまだ間が
ありそうだ。滲んだ血のような色が、木々を
染め上げている。村が近づくころになると、
薄闇が静かにおりてくる。
「遊びたりない子はいないかい」母の声は闇
に溶け込んで、幼い娘に変化する。手には金
糸銀糸に彩られた錦の毬を持って。
「きれいな毬。貸してくれるの」
母は近づいてきた少女に毬を渡す。少女は
毬をつく。ひとつ、ぽん、ふたあつ、ぽん、
みっつ。「それは、お前の首だよ」
首のない少女は、自分の首で毬つきをして、
十回目にぱったり倒れる。首は転がって、花
の盛りの繁みに消えた。
母は着物を脱がせ、それをきちんと畳んで
懐にねじ込むと、少女の体を横抱きにして走
り出す。木々がのけぞっていく。
「母さまの獲物はどうしていつも首がないの」
首のない小さな猪を見つめて、弟が言う。
「何も見えぬように。聞かぬように。喋らぬ
ように。愛し子の首は無垢なまま。母の懐ヨ
帰るであろう」
母は皮を剥いでいく。桃色の柔らかそうな
肉。
「滋養があるよ。御馳走だよ」
〔発表:2004年4月4日新ML座会/初出:2004年7月号「短説」/「西向の山」upload2005.1.25〕
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